2014/07/19

おもしろい人

(他人から見て)おもしろい人、というのは、(他人から見て)おもしろい生き方をしている人のことだと思う。おもしろい生き方をしているから、その人自身がおもしろいのだと思う。

では、おもしろい生き方をする、とはどういうことだろうか?

ここでは、「おもしろい生き方とは、◯◯する生き方だ!」という肯定形で事例を挙げることはせず、あえて否定形を用いて話を進めてみることとする。

「ベタなこと」をしない。

おもしろい生き方をしている人は、いわゆる「ベタなこと」をしていない人だ。つまり、「普通」ではないのである。たとえば、の話であるが(あくまでも「たとえば」である)、「趣味は何ですか?」と聞かれた時に、相応の年齢、相応の立場、相応の容姿をした人が、それ相応(そう)な趣味を言ってきたら、その人はおもしろくない。「ああ、“ベタ”だな」と思ってしまう。

別に、「それ」を趣味に持つことが「悪い」「いけない」とは決して思わない。だが、「おもしろいな」とも思わない。

それはなぜだろうか? 理由は至って単純で、「趣味は何ですか?」と聞いてきた相手の心を“グサリ”と刺さない回答だからである。言い換えれば、極めて“安全な”答えだからである。

無論、何を趣味にしようが、それはその人の自由である。他人がああだこうだと、とやかく言えることではない。そんなものは、とうに分かりきったことだ。しかし、他人から「この人、おもしろいな」と思われる人、別の表現をするならば、他人が「気になってしまう」人、さらに言い方を変えるならば、他人の心に「後味」として残り続ける人、というのは、例外なく「ベタ」でない人であり、「ベタなこと」をしていない人である。

相応の年齢、相応の立場、相応の容姿をした人が、それ相応(そう)な趣味をしているのは、「ベタ」である。「ベタ」は、どこまでいっても「ベタ」でしかない。どこまでいっても「ベタ」でしかないから、その人に「おもしろさ」が感じられないのだ。

「他の人と同じでいようとする」のは、自分で自分を「ベタ」化させることである。それは、自分で自分を「おもしろくなく」させていることと同義である。

「イケメン」になろうとしない。

「イケメン」になっている人は、つまらない。なぜなら、「イケメン」になっている時点で、人を意識してしまっているからだ。

人は、人を意識し始めると、「安全な人」になりやすい。「安全な人」とは、他人を気にするばかり、いちいち自身の行動を自身でチェックして評価し、自らの「カッコ悪いところ」を紡いでおこうとする人のことだ。

つまり、「テイの良い」人になってしまっている、ということだ。「テイの良い」人ということで、それを(カギカッコ付きで)「イケメン」と表現したわけである。

「イケメン」というのは、「見てくれ」が良い。それは、人を意識しているからだ。意識しているから、「見てくれ」を良くなるのは当然である。

が、しかし、そういう人を見ていて「おもしろい生き方をしているな~」と思うことはない。「テイが良い」から、逆に「掴みどころ」(その人を、その人たらしめている“なにか”)がないのだ。一方、「イケメン」の反対に位置する人というのは、「テイ」を気にしていないから、色々なことに手を出す。もちろん、色々やって失敗もしているからカッコ悪いのだが、決して「安全な人」であろうとはしない。「安全な人」でないから、「掴みどころ」がいっぱいあるのだ。だから、「おもしろい」のである。

満足していない。

もちろん、いい意味で「満足していない」ということだ。いい意味で「満足していない」から、常に「おもしろい」ものを探し続けているのである。それも、懲りずにずっとだ。そうやってずっと探し続けているからこそ、というよりも、探している過程で「おもしろい」ものと遭遇するからこそ、その人はほぼ自動的に「おもしろい生き方をしている」ことになるのである。

逆に言えば、「満足している」のは、「おもしろくない」人なのだ。「満足している」というのは、「現状で足を留めている」ということだ。動かない人で、おもしろい人などひとりもいない。

「おもしろい」ものが、自分の元へ自ら足を運んできてくれる、なんてことはない。自分から「ヤツら」を探しに行かない限り、「ヤツら」は決して見つからない。「おもしろい」とは、そういう性質のものである。

以上、「おもしろい人」についての小論である。
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