2014/12/21

むしろ「ありのままでない」を大事にしたい ― 『アナと雪の女王』

アナと雪の女王 MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]アナと雪の女王 MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]
(2014/07/16)
クリステン・ベル、イディナ・メンゼル 他

商品詳細を見る


これだけブームになったのだから、やはり見てみたい気持ちがあって、手にとった。

この映画のテーマは、ずばり「ありのまま」だそうなので、私もそれに倣い、「ありのまま」の感想を言おう。面白かった。

実はありのままに言うと、私はディズニー全般が好きではない。何というか、あのワチャワチャ感がどうもダメなのだ。それでもこの映画を手にとったのは、世間がこの映画でこれだけ盛り上がったからだ。最盛期、その動向を横目で見ながらも、「いや、きっと面白いのだろう。ここはひとつ、私もありのままで行こう」と思い立ち、(特段好きでもない)ディズニーワールドに浸ってみたのだ。

それはさておき、この映画には先程の「ありのまま」以外にも、これと似たワードがチラついている。例えば、「真実の◯◯」とか「本当の◯◯」とか、である。「真実の愛」「本当の気持ち」「ありのままの自分」etc etc。こういう言葉を耳にすると、どうも私はボリボリ頭や背中を掻きたくなる。何というか、こう、ボリボリボリボリしたくなっちゃうのだ。

なぜ、ボリボリしたくなっちゃうのかというと、なんか胡散臭いからである。「ん~、なんだかなぁ~」という気分になり、気が付くと体をボリボリしている、というわけだ。

「真実の愛」「本当の気持ち」「ありのままの自分」といった言葉は、ややもすれば、ただただその言葉だけで終わるような代物だったりするのではないだろうか?

そして、「真実の~」「本当の~」「ありのままの~」と感じているものは案外、自分の「後付け」で、「とりあえず」「そのように認識した」ものではないか?とも思う。

私が映画を見ていて気になったのが以下の展開だ。王女・アナが、最初に出会ったイケメン王子・ハンスを好きになり、彼女はその気持ちを「真実の愛」と思い込む。ところが、物語が進んでいくにつれ、彼女の姉のエルサを一緒に探してくれたフツメン・クリストフのことを好きになり、最後は彼とキスをする。最初出会った時は、別に何とも思われてはいなかったであろう(むしろ、どこか煙たがられていたような)男を、である。そして物語の最後の方で、クリストフとの関係が「真実の愛」ということになっているのだ。

結局、アナにとって「真実の愛」は、「最初から」どこかに「あった」ものではなく、「これが真実の愛“だった”」という、いわば「後付け」のような認識によって、出てきたものだったのである。

――という解釈をしてみて、そこから直ちに教訓めいたものを引き出そうとするのは、野暮ったい。それでもあえて引き出してみるとするならば、それは「「本当の~」とか「ありのままの~」とかいうのにこだわっちゃうのは、危ないんじゃないの?」といったところだろうか。それが特に、「本当の私」とか「ありのままの自分」などといった、モヤモヤ感たっぷりなものになればなるほど、である。

そう考えると、「本当」とか「真実」とか「ありのまま」というのは、「後付け」のような認識から出てきたりするから、案外いい加減なものなのかもしれない。それは、「天職」(=「本当にやりたい仕事」とでも言い換えられるだろうか)とやらを探していた人が、最初は好きでもなかった仕事を色々やっていく内に、その中から「そうか、これが自分の天職だったんだ!」などという感覚を「勝手に」感じ取るのに似ている。これだって要は「後付け」である。

でも、別にいい加減でいいのだと思う。誰だって、最初は「本当」というものが、「本当でないもの」に先行していると考えたくなるのだ。そしてその内、「本当」というものは、「本当でないもの」に先行しているのではなく、実は「本当でない」と考えていたものの中に、自分の思う「本当」があったと「思い込む」ようになるのだ。「思い込む」、すなわち「後付けでそのように解釈する」のである。

だから、「ありのままの自分」とやらも、案外、「ありのままでない自分」の中にあったりするんじゃないか。そう考えると、「ありのままでない自分」こそ大事にしてやらないと、「ありのままの自分」を探していた人は、「ありのままの自分」を見つけられないかもしれない。
関連記事