--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2011/03/29

「無用」な部分が「面白さ」を作るってことも、あるんでない? ― 『科学の横道』

科学の横道―サイエンス・マインドを探る12の対話 (中公新書)科学の横道―サイエンス・マインドを探る12の対話 (中公新書)
(2011/03)
佐倉 統

商品詳細を見る




『科学の横道』がタイトルである。


王道は進まない。真っ向から「科学」と向き合わない。あくまで横道。


道草食いながら、「科学って何だろうね?」などと考える、一見ユルそうな企画である。


しかし侮るなかれ。中身は今後の日本人が科学とうまく付き合っていくためのヒントがたくさん散りばめられているのだ。


僕もヒントを得られた。


今、日本で出版されている科学書(翻訳物ではない)というのは、正直に言うと、読んでいて面白くない(興味のもてない)ものが多い。


書いてあることが難しすぎるからではない。そうではなく、理論ばかりが全面的に出て、情感の部分がほとんどないからだ。


堀江(敏幸) たとえばこの間、中谷宇吉郎の「鼠の湯治」という短いテキストを大学の授業で読んだんです。温泉が外傷の治癒にどれだけ効能があるのかを、ある研究者がネズミを使って実験するという話で、データの解析に悩んだその研究者が、語り手である中谷宇吉郎に相談してくる。で、あいだを飛ばすと、解析法にはめどがたって、そのあとこの実験のために、ネズミたちは温泉に連れていかれるんですね。助手たちが二〇〇匹ぐらいのネズミをかごに入れて運び、実験のための傷をつけて、順番に温泉につからせる。ところがデータとはべつに出た結論は、ネズミは温泉が好きである、ということなんです(笑)。みんな目をつぶって気持ちよさそうにしているというんですよ。

(中略)

ネズミを運んでいくところ、温泉につからせるところ、ネズミののんびりした顔つき・・・こういう、実験の前後の、数字には残らない文脈も大切だと思うんです。温泉の効能を調べるという本来の話とはまったく関係がない。だけど、ネズミが気持ちよさそうにしている箇所があるかないかで、この文章の艶が違ってくる。(p102,103)


最近は「分かりやすく」というのが文章を書く上で大事だとよく言われる。しかし、それは「面白い文章になる」ということと必ずしも一致しない。文章の面白さは、先の中谷宇吉郎のように、一見するとムダに思えるような部分、たとえば著者本人の感情や感想、情景描写にあったりするのだと思う。


科学者の中には、こういった個人的な考えや感じ方、ましてやどうでも良さそうな情景描写などを科学書の中に盛り込むなんて、と思う人が多いのかもしれない。


研究論文についてはその通りだろう。だが一般書なら、むしろ一つの物語のように、文学仕立てにした方が読者はグッと惹きつけられる。


例えば、最近話題になった『生物と無生物のあいだ』(講談社新書)はまさにその最たる例である。科学書なのだが、それと同時に一つの「文学」でもあるのだ。他に今思いつくところで、『物理学と神』(集英社新書)や『地球最後の日のための種子』(文藝春秋社)などがあるだろうか。


「意外性がある」というのもおいしい。以前紹介した『生態系は誰のため?』(ちくまプリマー新書)はこの「意外性」があったから、僕は読んでいて面白かった。こうだと思われているor考えられているけれど、実はこういう現実だってあるんですよ、といった科学書は瞠目に値する。


引用文中に出てきた「鼠の湯治」という文章は、この二つを共に満たしていたからこそ、文章としての魅力があるのだろう。


それこそ、本書のタイトルにある「横道」である。“横道にそれた科学書”と言い換えてもいい。そんな本は、やっぱりやっぱり、読んでいて飽きが来ない。


「寄り道なし!ターゲット目がけて一直線に現象を解説!」というのは、必ずしも良いことではない。時には蛇行しながら、いや、もっと言えば道端のドブに足を突っ込んでしまいながらも、ゆっくり、そしてタラタラと進んだ方が、案外、面白いものに出会えたりする。


いや、科学と付き合うだけに限らず、人と付き合う場合でも、同じようなことが当てはまる気がする。なんていうのだろうか、その人の、一見すると、どうでも良さそうな部分(話し方とか仕草とか表情とか)が、その人の魅力をつくっていたりすると思うのだ。


そう考えると、「横道にそれる」ってのも、結構いいもんじゃないの。
関連記事
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。