2011/04/08

「〇〇しましょう」「××はやめよう」というCMについて

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)
(1997/10)
中島 義道

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最近のACのCMを見ていて思うのだが、「◯◯しましょう」「××はやめよう」といった内容のものが非常に多い。


「節電しよう」「必要以上の買い溜めはやめよう」「譲り合おう」 ― こういった類のCMを少なくとも一日一回は必ず目にする。


そんな中、本書『〈対話〉のない社会』で、こんな記述が気になったので引用しておこう。


こうして、「お上」は弱者保護という世の潮流に乗って、ガン細胞のようにますます管理標語・管理放送を増大させてゆく。そしてますますそれに対して不感症になってゆく。「駆け込み乗車はおやめください」という甲高いテープ音がガナリたてても、猛然と電車に突進する。駐輪禁止の立て札がうるさいほど立っている区域にも平然と自転車を置く。

(中略)

再度確認しておく。私はだれも守らないから管理標語・管理放送をやめよ、と言っているのではない。すべての人がそうした標語を見て放送を聞いてはじめてルールを守るとしたら、それこそ恐ろしい社会だと言いたいのだ。

(中略)

管理標語・管理放送は一方で言葉を信頼しない軽薄人種を量産し、他方自己判断能力の徹底的に欠如した怪物をつくり出す。こうして、管理放送・管理標語漬けによって、同胞は日々刻々と自己判断力を削がれ、言葉を気にとめないように訓練されるのであるから、末期ガン患者にモルヒネの量を増すように、「お上」はますます管理標語・管理放送の量を増やさねばならない。(p95-96)


「節電しましょう」と言われなければ節電しない。「必要以上の買い溜めはやめましょう」と言われなければ、買い溜めをやめない ― ACのCMについても同じことが当てはまると思う。


これは、「こういう内容のものでも流さない限り、国民は意識が薄い」ということを暗に意味したメッセージであるとも受け取れる。仮にそうだとしたら、何だかあまりにも悲しい。危機意識のなさや道徳の欠如をエンエンと(しかも大多数の人間に気付かれないように)指摘されているのと同じなのだから。


「ACはCMなんか流すな」などと言いたいのではない。「〇〇しましょう」「××はやめよう」といった放送ばかり流して国民に意識付けさせる、というのはあまりにもレベルが低いし、そういうCMを見てはじめて意識的に◯◯をしたり、××をやめたりするというのもおかしいのではないか、と言いたいのだ。


「頑張ろう!日本」「未来を信じている」系のCMも一緒である。そもそも、あれは誰に対するメッセージなのだろうか。被災した人たちに対してなら、かなり軽薄だと思う。家は全壊、職も見つからない、そんな人が圧倒的に多い中、ただただ「頑張ろう」「未来を信じて」などというテープを(何も被災していない人間たちによって)流され続け、その通りにできる人というのがいるだろうか。少なくとも私が被災した立場にあれば反感を持つ。


また、被災していない人たちに対してならそれもそれでおかしい。節電や計画停電などで支障をきたしている所もあるが、被災していないほとんどの人たちは、頑張ろうなどと言われずとも頑張っているし、地震以前からそうしている。不況も続く中、頑張らざるを得ないのは分かりきっていることである。にもかかわらず、ひたすら「頑張ろう」「未来を信じて」などと(しかもCMに)言われたって何も響かない。


もちろん、元気づけるのはいけないということではない。


そうではなく、「自己満足や形だけのCMになってはいないか」「これは見る側の立場を本当に考慮しているか」 ― CM制作者たちの最も注意しなければならない部分というのは、そういったところにあるのではないかと言いたいのだ。


ずいぶんと偏った(もっと言えばひねくれた)意見だが、今のCMについてはそういう見方もできると思う。



追記:この記事を書いた後に、↓の記事を見つけたのでご紹介。


頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。(はてな匿名ダイアリー)
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