2011/05/04

「仕事」と「趣味」と「好きなこと」の違い ― 『無趣味のすすめ』


無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)
(2011/04/12)
村上 龍

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現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属す共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて安全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。つまりそれらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。(『無趣味のすすめ』p8)

「趣味探し」に奔走していた近頃の自分を振り返ってみた。「趣味を満喫して充実感を」なんて、所詮たかが知れている。趣味を満喫している、まさにその時は楽しいかもしれない。

しかし、あとになって振り返っても、その時の余韻に浸れるような、そんな「楽しさ」は存在しない。それは、趣味という箱庭の中で生まれる楽しさだからだ。普通はそこに、大変なまでのエネルギーや時間といったコストを費やすことはないし、できるはずもない。費やせばそれはもはや「仕事」だろう。やってみてつまらなかったら、すぐにでも撤退できる。

よく、「趣味がないと人生はつまらない」などと言う人がいる。だが、つまらない原因は趣味がないからではない。楽しさがないからである。そして、楽しさをつくる「手段のひとつ」が、「趣味」なだけの話だ。

楽しさはどこにでもあるし、どこにでもつくれる。人と会話するのは楽しい。どんな服を着ていくのかを考えるのも楽しい。旅行やショッピングという目的がなくとも、どこか別の場所へ移動するのも楽しい。仕事で何かうまくいくのも楽しい。趣味を満喫するのも楽しい。他にも色々な「楽しい」があるだろう。

では、趣味とはなにか。私は、「いつも安定して楽しさをつくることができ、且つある程度のペースで続けていること」だと考えている。つまり、いつ、いかなる時にやっても、(それが高い確率で)楽しい(と思える)ものであり、そこそこのペースで続けているのが「趣味」である。

こう定義してみると、あながち自分が楽しいと思えることは、なんでもかんでも「趣味」とは呼べなくなる。「趣味」という一つの枠に入るのに、少し厳しい「審査基準」があり、その「審査」に合格しないと、それは「趣味」と呼べない、といった感じだろうか。

私の好きなことを挙げてみよう。スポーツならビリヤード、卓球、テニス。ゲームなら将棋、ソリティア。料理や散歩もそこそこ好きである。しかし、これはあくまでも「好きなこと」であり「趣味」ではない。一時期ハマってすぐに終わり、また一時期ハマってすぐに終わりと断続的であり(断続的ですらないものもあるが)、ある程度の継続性がないからだ。

おいしいものを食べるのも好きだ。しかし、これは「趣味」だろうか。食べること自体、生きていく上で必要不可欠である。飲み物を飲むのも同じだ。そうするとこれは、「趣味」というよりも一種の「生理現象」ではないか ― こんなふうに思考を飛躍させるのも楽しい。それこそ、私の「趣味」と言えるかもしれない。

さて、中には、堂々と人に言えないものを趣味としている人もいる。怪しいもの、きわどいもの、色々ある。だが、先の定義に合うなら、それは立派(?)な趣味と言える。ただそれが公に言えないというだけの話だ。

趣味を言うと、時々「変だ」とか「ダサい」「暗い」などと言う人がいる。これは、その趣味自体を否定しているのではない。それを満喫しているその人の姿や性格、雰囲気について言っているのだと思う。

「こんなことを言われたくない。どうしたらいいですか?」という質問をされたら、私はこう答えるだろう。「趣味を変えてもあまり意味はないだろうね。そもそも趣味そのものには、他人に迷惑をかけない限り、何の落ち度も罪もない。だから、君自身が変わってみたらどうだろう」

では、自分自身を変えるためにはどうしたら良いか。それこそ村上龍の言う、「仕事」をすることではないだろうか。

本当の達成感や充実感は、自分が変わった時にのみ得られるのかもしれない。
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