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2011/05/14

「考える」ということ ― 『長谷川如是閑評論集』


長谷川如是閑評論集 (岩波文庫)長谷川如是閑評論集 (岩波文庫)
(1989/06/16)
長谷川 如是閑

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長谷川如是閑(はせがわにょぜかん 1875-1969)は大正・昭和期に活躍したジャーナリストだ。

私が彼を知ったのは、大学受験生の時だった。大学の過去問を解いていて、問題の選択肢に彼の名があった。妙にこの名前が頭に残った。以来この名を目にしては反応してしまう。で、先日、書店の岩波文庫のコーナーでふと目にとまり、手にとってみたという次第だ。

ジャーナリストであったためか、文章は非常に読みやすい。戦前の文章にありがちな読みづらさがない。もちろん、中身も面白い。

その中に、「大学生の軍事研究」(1923年)という章があるので、いつものごとく抜粋しておく。


元来普通教育においてすら今日の日本のように軍国的教練を課し、少年をして軍国的精神を以て武器を取り扱わしめるが如きは、決して今日の国家的精神を得たものとは言われないのである。なるほど、英人の如きは大抵の者は銃器の扱い位は心得ており、馬匹の扱い等も日本人の比ではないが、しかしその鉄砲なり馬なりを扱う精神は、日本の教育におけるような軍国的精神ではない。全く遊戯または職業としてである。

(中略)

畢竟、彼らは日本人が軍国的に受けている教養を、日常事として受けて来たのである。規律は日本人に取っては軍隊的のものであるが、西洋人にとっては市民的なものなのである。武器も日本人にとっては軍国的兇器であるが、西洋人にとってはスポーツの器具である。日本人は軍国精神でその教養を受けたため、銃器や規律的行動を日常生活から引き離して、他所行きの軍国的生活と考うることとなり、その結果、今日のように軍国主義排斥の時代が来ると、銃器や規律そのものを嫌悪することになるのである。(p237-238)


「教育」として受けるか、「日常ごと」として受けるかで、こんなにも行動が違ってくるという話だ。

「教育」というのは、何かを一方的に伝達する、という性質が強い。そこでは、必ずしも「考える」ことを要さない。親がこうしなさいと言ったから、先生がああしなさいと言ったから、という理由だけで、事足りる面がある。一方、「日常ごと」であれば、物事に対して「なぜ〇〇なのか」「どういう仕組みになっているのか」などと考える(特に意識することはないだろうが)機会が多い。

どちら方が重視されるべきだろうか。どちらも大事だと思う。時には明確な理由を告げずとも、指示に対して動かなければならないこともある。また別の時には、自分で考えて動かなければならないこともある。

一番の問題は、何も考えなくなることだ。マニュアル化というのは、その意味において害悪である。

考えるという動作は、ものすごくコストがかかる。もちろん、金銭的な意味で、ということではない。体力の面で、時間の面で、そして心理的負担という面で、という意味である。

近頃は、そういったコストをかけることに重きを置かれなくなっている気がする。学校の授業や入試において、その傾向は特に強いのではないだろうか。これは、昨今の教育方針で挙げられている「授業時間を増やす」「学習内容を以前よりも広げる」などといった措置で解消できるものではない。要は、「考える」ということ、そしてそれに対し「コストをかける」ということ、この二つを根本的に見直さなければならない。当然、子どもにもそれを(彼らにわかる形で)伝えないといけない。それが、今の「教育」の最もすべきことである。

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