2011/05/22

自分貢献は、立派な社会貢献

日経ビジネスオンラインで、こんな記事があった。

それでもやはり、「人のためになりたいのに、それができない」と辞める若者や、過剰なまでの社会貢献意識の高まりに、何とも言葉にしがたい危うさを感じすにはいられない。

だって、「誰かのために」という優しい気持ちは、思い通りの反応が得られない瞬間、怒りに変わってしまうことがあるから。

「あなたのために私はこんなにやっているのに、なんであなたは分かってくれないの?」と、いくら尽くしてもつれない態度を取る彼氏に対して不満を抱く女性のようになってしまうとも限らないから(尽くす男性とつれない女性でも構わないが……)。

人のためは自分のため。「誰かのため」とか、「人の役に立たちたい」と働くことは、結局は自分のため。それを忘れてしまうと、それが分かっていないと、本当に人の役に立つことなどできないのではないだろうか。

会社を通じてであろうと、自分の余暇を使ってボランティア活動に専念しようとも、「人のために働く」ことは、「自分のため」ということを忘れてはいけない、と思うのだ。

引用元:「人のため、被災地のため」と思う人が陥る自覚なき勘違い―高まる「社会貢献」熱につきまとう危うさ

最近、東日本大震災が起こってから、わりと人のために役立ちたい、社会貢献したいと思う若者が増えてきているという。(詳細は本文参照)

殊勝な心掛けだと思う。私はさして、「人のために」とか「社会貢献」などとあらたまって考えることはない。基本的に、自分はどうするか、自分はどうしたいか、と自分を中心に据えて考える。(だからといって、それは必ずしも“自己中心的”ということにはならないと思ってはいるが)

これは主体を自分に置くか、他者に置くかの違いだ。前者は自分に期待し、後者は他人に期待する。

ここでひとつ疑問に感じるのが後者である。「他人に何を期待するのか」ということだ。色々あるだろう。「感謝されたい」「自分の存在を認めてほしい」「喜ぶ顔が見たい」などなど。

期待通りに反応が帰ってきたらそれはもちろん嬉しい。しかし、そうなることは、はっきりいって多くない。むしろ少ない場合がほとんどである。

問題はこの時だ。こういう期待通りの反応が帰って来なかった場合、主体を他者に置く人は、挫折しやすいのではないか。

挫折だけで終わり、「こういう時もあるさ」と乗り切れれば問題はない。しかしそうでない場合、ふと「誰のためにやっているんだろう?」という思いを抱くことは間違いないだろう。

自分はどうするのか、どうしたいのか。そのことを常に考えておいたほうがいいと思う。これを軸にしていれば、他人から認められなくても、「自分はこうしたかったのだから」と思って乗りきれる。

「他者になにかしてあげなければ貢献とは呼べない」と考えるのはいかがなものか。貢献というのは、なにかを高めること、プラスの状態にもっていくことである。自分で自分に貢献する人は、いずれ社会にも貢献することになる。これはいたるところで見られるので、嘘だと思う人はよく観察してみてほしい。社会貢献というのは“自分貢献”でもある。
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