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2011/11/01

明日の死、教養の死 ― 『教養主義の没落』


教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)
(2003/07)
竹内 洋

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先日とある知り合いになった女性と、ふとしたきっかけから「ブンガク」の話になった。

大変失礼ながら、とても「ブンガク」などというものに関心のなさそうな人だったので、これにはかなり驚かされた。察するに、彼女は結構な数の文学作品を読んでいたと思う。

話をしていてかなり愉快だった。それは、彼女の容貌が良かったからではなく(多少はそれも関係している)、お互いに何か「知的なもの」を共通の話題にできたからだ。

たかが文学作品の読書ごときを「知的なもの」と見なしてしまうのは、どことなく、こっ恥ずかしいくだらぬ見栄にすぎないと捉えられてしまうかもしれない。しかし、かつてそういったものを読んでいることが「教養のある人」とか「知識人」になるための入り口になっていた時代があったことを考えれば、ことさら憚る必要はないはずだ。

残念ながら現代において、こういった「教養」に対して憧れる文化や、「教養」を軸にして何かを語る文化というのは、もうすでになくなっている気がする。むしろ、そういうニオイがちょっとでも出てくると、すぐに一歩引いたり、煙たがったりする人の方が今は多いのかもしれない。

それが私にとっては一抹の寂しさであり、本書のような本に奥ゆかしさを感じるゆえんでもある。

この本は、「教養」というなんだかカタクルシイ概念が、近代以降の日本人(特に旧制高校生たち)からどのように受容されていったのか、また、教養があることに何よりもの重きを置く「教養主義」がどのような文化を創り上げ、そして衰退していったのかをまとめたものだ。

ことに3章「帝大文学士とノルマリアン」は、文学部に縁のある私にとっては、非常に興味深かった。当時、帝大文学部は教養主義の奥の院で、エリート学生文化の中心部だったそうである。それゆえ、37%という(ある意味で)驚異の就職率でも、他学部に引けを感じるどころか、むしろそれがなんだ、文学はパンのための学問じゃない、という気概に満ちていたらしい。読んでいて嫌悪感をもつというよりも、ここまでくるとなんだかその反抗心が逆にかわいらしく見えてしまうから不思議だ。

「教養という言葉は死語になりつつある」と立花隆は言ったが(『ぼくらの頭脳の鍛え方』 p242)、はっきり言おう。教養は、死なせるべきでない、と。
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