2012/01/07

辞書が、わけのわからない「説明」をしている

フランスの哲学者にジャック・デリダという人がいた。彼は「脱構築」(英:deconstruction)という考え方を唱えたのだが、この言葉を知った当初、わたしにはその意味がよくわからなかった。そこで辞書を引いてみると、こんな説明がされていた。
フランスの哲学者デリダの用語。形而上学の仕組みを解体し、その可能性の要素を抽出して再構築を試みる哲学的思考の方法。デコンストラクション。(大辞林)

フランスの哲学者デリダの用語。形而上学を支配している二項対立的な発想を解体し、その仕組の再構築を試みることによって新しい可能性を見出そうとする思考の方法。デコンストラクション。解体構築。(明鏡国語辞典)

さて、哲学に詳しい専門家や研究者を除いて、ごくごく普通の一般人が「脱構築」という言葉を調べたとき、はたして上に書いてあるような説明をされても、一発でスッと理解できるだろうか?

形而上学? 二項対立? 知らない言葉を調べたのに、ほとんど日常生活で使われることのない言葉で説明されたのでは、「説明」になっていないのではないか? この書き方だと、「形而上学」と「二項対立」は当然知ってるよね、という暗黙の了解が成り立っていることになる。だが、さっきも言ったように、ごくごく普通の一般人に、これらの言葉の意味をたずねた時、きちんと答えられる人はどれくらいいるのか疑問だ。こういう「説明」をしてくる学者は「一般の辞書使用者たちに対していやがらせでもしたいのか」と勘ぐりたくなるのは、わたしだけではないはず。

そこで、言語を日本語から英語に変え、英英辞典を使って調べてみると、おもしろい事実を発見できる。
a method used in philosophy and the criticism of literature which claims that there is no single explanation of the meaning of a piece of writing
(『Longman English Dictionary』)

a theory that states that it is impossible for a text to have one fixed meaning, and emphasizes the role of the reader in the production of meaning
(『Oxford Advanced Learners Dictionary』)

英語が読めると、こういう時にものすごく得をするのだなと、つくづく感じさせられた瞬間である。ロングマンとオックスフォード英英辞典の説明はなんとも明快だ。どこにも「形而上学」やら「二項対立」やらに相当する単語が出てきていない上、日本語の辞書と比べてかなり具体的に意味が述べられている。しいて難しい言葉をあげるなら“philosophy”ぐらいで、他はどれも一般的な言葉だ(ちなみに、その“philosophy”の意味さえも、日本語の辞書と比べて、英英辞典の説明のほうが非常にわかりやすい)。

なぜこれほどまでに解説の仕方が違うのか。そういえば以前、こんな記述を見つけた。

日本の学者が難しい文章で論文を書く習慣があることも、職人気質であるような気がする。専門の知識を、秘伝として、訓練された弟子だけに伝えるということであろう。研究の成果をみんなにわかってもらうためにできるだけ平易に、啓蒙的に書くということは、職人的意識の延長にはない。研究の対象を限定してそれに専念し、分を守り、総合的な議論をするというようなことは遠慮し、また望まない。
(鈴木秀夫『森林の思考・砂漠の思考』p28)

これについては、わたしもかなり同意できる。ちまたで売られている一般書の中には、どういうワケか、ひとつのことを「説明」するのに、ムダに難しく書いてあったり、専門用語がひたすら並んであったりと、明らかに解説ではない「解説」が存在したりする。「学術論文じゃないんだから、もっとわかりやすく教えろ」という気持ちがフツフツと込みあげてくることもしばしば。もしかしたら、辞書も同じノリで執筆しているのかもしれない。

だが見方を変えてみると、日本の辞書のほうが、より抽象的、もしくは中立的に説明しようとしているのではないか、とも考えられる。つまり、解説者たちだけの「思い込み」や「勝手な解釈」が、なるべくその言葉の定義に入らないようにと配慮しているのでは? とも受け取れそうだ(もともと、ジャック・デリダという人がつくった言葉を翻訳して、さらにその意味も説明しないといけないわけだから)。

もちろん、日本の辞書の定義は間違っていて、英英辞典のほうが正しい、などと言うつもりはまったくない。これは「どのようなカタチで言葉の意味を定義するか」という、西欧と日本における辞書作成上の指針の違いによるものだろう。

そう考えると、日本の辞書作成者たちには、「より“ゲンミツ”な定義をつくろう」という意気込みが見られるというような、極めてポジティブに見ることもできそうだ。さっきの引用文にもあったが、ここに日本の学者の「職人気質」が垣間見えると言える。

話は変わるが、こういった考え方は実のところ、日本の国語教育にも見られると思う。たとえば、国語の授業中に小説の一部分を読んでいるとき、先生が生徒何人かに「ここで主人公はどのように感じたか?」といった質問をよくしてくる(今はどうなのかわからないが、わたしが小学生・中学生だったときは、そういう質問をよくされた)。そこで聞かれた生徒たちは各々、とぼしい根拠と理由をあげながら、「主人公は、きっとこのように感じたと思います」と答える。それを聞いた先生は、(よほど主旨から外れていないかぎり)否定せずにあいづちを打ったり、「その通りだね」などといった返事をする。

ところがテストの時になると、あのとき述べた、いろんな答えのほとんどは「テストにおける正しい解答」にはならず、問題集に載っている「模範解答例」もしくは、それに限りなく近い解答が、「正しい答え」になるのだ。つまり、タテマエでは「多様な解釈」を認めながら、結局は「一義的な解釈」を正解とするのである。そしてほとんどの場合、それは当たり障りのない、抽象的・中立的な「解釈」が答えになっている。

こういったことを小さい頃から積み重ねていけば、さっき見たような辞書作成方針がヨシとされるのも無理はない。欧米のように「わたしはこう思う」「わたしはこう考える」といった主張を、あまり歓迎しない風潮のある我が国では、とにかく「当り障りなく、抽象的・中立的に表現すること」(どうやら、これが「“ゲンミツ”に定義すること」の正体らしい)が「正しく解釈した」ことになるのだから。

ただ、である。辞書としての機能や意義を考えた時、はたしてこのような編集方針や態度は、一般人から望まれるものだろうか。“ゲンミツ”であることを重視していった結果、結局なにがなんだかよくわからない「説明」になってしまうのは、本末転倒ではないか。むしろ、わかりやく説明できていて、しかも本旨から大きく外れていないのであれば、大胆に解釈してしまうこと自体、まったく罪はないと思う(ジャック・デリダさんも、きっとそういうことを望んでいたはず)。

意外なところで、日本の教育(文化?)の「特徴」が見られた一日だった。
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