2012/01/11

「客観的であること」の呪縛 ― 『新書がベスト』

新書がベスト (ベスト新書)新書がベスト (ベスト新書)
(2010/06/09)
小飼 弾

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読書にはふたつの醍醐味があると思う。

ひとつは、知らなかったことを知る楽しみ。
そしてもうひとつは、「アタリくじ」を引いたときの喜びだ。

書籍における「アタリくじ」とは、「自分にとって印象に残った本」のことである。それは、自分を驚かせてくれるもの、笑わせてくれるもの、考えさせてくれるもの、また時には、不快にさせるものだ。

本書の著者である小飼さんは、「独断と偏見」こそ、そういった「印象」を人の頭に刻ませる要素なのだと指摘する。

ひとりの著者が、独断と偏見による考えを披露するのが本です。両論併記の中庸な意見より、いろいろな立場からの独断と偏見をいくつも取り入れた方が、はるかに情報としての意味があるのです。これは、スゴ本とダメ本の差でもあります。(p18)

最近、ここの記述を読んでは、つくづく「ホントにそのとおりだよなあ」と実感している。

以前、わたしはこんなことを書いた。

つまり、なにかを語るのならもっと身近に語った方が良いということである。
(『読んでもらえる、おもしろい書評の書き方』)

自分で自分の書いた文章を引用するなんて、なんだか気取った感じもするが、ここで言いたかった「身近」というのは、つまるところ、「“自分のこと”をもっと語ろう」ということだ。

“自分のこと”とは、自分の周りで起きたことや、ちょっとした事件、つまり「自分の体験」だけではなく、「それについて自分はどう思う/考えるのか?」という「自分の意見」でもある。小飼さんが「ダメ本」としているものは、こういった「自分の意見」を書いていない本のことなのだ。

ひたすら「客観的であること」にこだわり、データや事例といった「事実」はたくさん書かれているけれど、その「事実」に対して「自分はこう思う/考える」という意見を書かれていない本はよく見受けられる。

とくに一般向けの科学書などは、その最たる例だ(すべての科学書がそうだ、と言っているのではないので念のため)。これは以前、『科学コミュニケーション』という本を書評したときにも、そのことを指摘した。



思うに、「客観的であること」というのは、だいたいの場合において、「一般論」になりやすい傾向がある。

「客観的」とは、「あるものA」(それが具体的なものか、抽象的なものかは問わない)を見たとき、ほとんど誰もが、それを「あるものA」と呼ぶ状況のことである。

だが、そこに「人を変えるなにか」はない。ここでいう「人を変えるなにか」とは、「その人の見方・考え方・感じ方を変える要素」という意味だが、「客観的であること」には、ほとんどの場合、そういった「人を変える要素」はない。

誤解されないために言っておくが、わたしは「客観的であること」や「事実とされているもの」を伝えようとすることがダメだ、と言いたいのではない。むしろ歓迎すべきことである(その姿勢が科学を支えているわけだから)。

だが、“ひとりの著者として”一冊の本を書こうとする時、そこにはおのずと「自分の意見を伝えようとする意志」(=人を変えようとする意志)も入るはずではないか(そもそも、ひとりの人がなにかについて語るとき、われわれは、その人の“レンズ”を通してなにかを知ることになるから、厳密にいうと“完全なまでに客観的である”という状態はない)。その「入るはずのもの」が「入っていないこと」に、わたしは疑問を感じてしまう。

早い話、いつもいつも「客観的であること」にこだわるな、ということである。むしろ、本というメディアは(もっというと本に限らず、意見文や感想文といったものすべては)、ほとんどの場合「主観的であること」に価値が置かれている。それこそが小飼さんのいう「独断と偏見」なのだ。
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