2012/02/06

結婚しても「しあわせ」になれない人について

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(2011/02/26)
笠智衆 原節子

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小津安二郎の映画、ここ最近週1ペースで見ているのだが、どれもすこぶるいい。

べつになにかすごくインパクトのあることが映画の中で起きるわけではない。ただひたすら、ある家族の一風景を描き続けているだけなのだが、妙に心に響くのだ。

今回見たのは『晩春』(1949年)という作品。

父(笠智衆)とその娘(原節子)が二人で仲良く暮らしている中、娘のお見合い結婚の話が持ち上がってくる。娘はどうしてもお父さんと一緒にいたいため、縁談に乗り気でない。最終的に娘は父に説得され、結婚する、という内容だ。

もしわたしが父の立場で、原節子のような美人娘に「お父さんと一緒にいたい」と言われれば、「そうか!なら嫁に行かなくてよろしい!」とはっきり言ってしまうと思うが、なぜかそのお父さんは、娘を嫁に行かせようとする。そこが不思議だ。

物語とは関係ないが、わたしは「お見合い結婚」という制度を高く評価している。なぜかというと、親を含めた周りの人たちから、結婚相手の客観的な人物評価が得られるからだ。自分だけの目で判断するよりも、色んな人の目から判断してもらった方が、結婚後うまくいきやすくなるのではないか。

それに、もともと日本人は欧米人に比べて異性への愛情表現に積極的ではない(もっと言えば下手)。草食系男子なんていうのも、おそらく最近になって出てきた新傾向でもなんでもなく、ずっと昔から多くの日本男子がそうだったのではないか。

だからそれを見かねた周りの大人たちは「とりあえずアイツとアノ娘をくっつけよう」という感じで、二人の縁談をなかば勝手に決めたりした。それが「お見合い結婚」の始まりだったのではないかと思う。

つまり、お見合い結婚は日本人にとってものすごく有意義な制度なのだ。

話を戻そう。そんなお父さん、旅先の旅館で娘と帰りの身じたくをしている最中、なかなか興味ぶかいことを言う。

「しあわせっていうのは、結婚して生まれるものじゃない。結婚した二人が、お互いに作り上げていくものなんだよ」

うーん。まだ結婚していないから、「ケッコン」というのがどういうものなのか、わたしには分からないが、少なくとも「“しあわせ”は自分で作るものだ」という考えはその通りだと思う。「しあわせ」を「たのしさ」や「おもしろさ」と置き換えてもいいだろう。

最近、わたしが個人的に実感しているのは「他人から与えられた「しあわせ」をもらっても、“本当のしあわせ”を得られる可能性はかぎりなく少ない」というもの。

なんでこんなことを言うのかというと、わたしの周囲にいる人で「つまらない」と感じている人は、往々にして、ひたすら「他人から“しあわせ”を与えられること」を望んでいる傾向が見られるから。

もしかすると、お見合い結婚よりも恋愛結婚した人たちの方が、離婚率が高いというのは、このことが原因のひとつなのかもしれない。

お見合い結婚であれば、いい意味であきらめがつく。なにかにつけて「お見合い結婚だし、まあしょうがねえか」という感じで割り切れるかもしれない。だが一方、恋愛結婚はあきらめがつきにくい。

お互いが「最高と思える相手」と結婚したにもかかわらず、いっしょにいて「つまらない」からだ。「付きあっていた頃はあんなにステキに思えた彼/彼女が、なんで結婚後にはこんなことに?」なんていう気持ちも、しばしば起こりえるだろう。

大好きな彼氏/彼女が、自分のために「しあわせ」をつくってくれるはずだ。だから自分はこの人といっしょにいると「しあわせ」になれるのだ ―― こういう錯覚があるとすれば、おそらく結婚後は失望の連続しかないのではないかと思う。

ここにあるのは、「しあわせ」という見えない物体がやってくることを待つ姿勢だけだ(偏見を承知で言わせてもらうが、こういう姿勢はわりと女性に多く見られる気がする)。

「結婚するしあわせ」を望む人はしあわせになれない。結婚後にしあわせを「作ろうとする」人はしあわせになれる ―― そう思わせてくれる作品である。
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