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2012/03/07

文学と無用の用 ― 『文学入門』

文学入門 (岩波新書 青版)文学入門 (岩波新書 青版)
(1950/05/05)
桑原 武夫

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とある時期に古本漁りを始める現象は、「ドクショツウ」に共通したものかもしれない。わたしの場合、「通」とまでは及ばずとも、つい最近になって古本の良さを理解できるようになってきた。

読書にハマりたての頃は、色あせた表紙の本など見向きもしなかったが、近頃の新刊書(とくに新書)にしばしば飽きを感じる今日、神田の古本屋でひとり脚立に登りながら、うず高くつまれた、半世紀近く前の著作に興味津々な自分がそこにいる。

自身が文学部出身、そして母校が神田の古本屋街の近くということもあり、先日一冊の本が目に留まった。かつて日本を代表した有名な文学者のひとり、故・桑原武夫による『文学入門』だ。

初版は1950年。わたしはまだこの世にいなかった。現在の岩波新書とは違い、ビニール製のカバーはついていない。一冊まるまる紙である。

さっそく目次に目を通してみる。いきなり刺激的な見出しが目に映る。

第一章 なぜ文学は人生に必要か

そう、これは世界文学の解説書などではない。文学とはなにか?芸術とはなにか?生きるためにそれらは必要なのか?そしてそれはなぜなのか――本書は、非常に読み応えある文学論なのだ。

なぜこんな哲学的問いから論が始まっているのか。これは、先にも述べた初版の発行時と関係がある。第二次大戦終了から5年後、桑原は戦時下における文学の状況をこう振り返っている。

戦争中のことを思い出してみるがよい。文学は人生に用のないゼイタク品と見なされていたのではなかったか?さらに意味ふかいのは、戦争直前、外国の本の輸入が制限されたとき、科学書や哲学書は比較的寛大な取扱いをうけたが、ひとり文学書のみは全く輸入を厳禁された。(中略)文学の必要性ということは、日本では敗戦のころまで、ほとんど認められていなかったのである。(p2-3)

生と死とが常に隣り合わせだった当時、「ブンガク」などという代物にウツツを抜かす輩には居場所がなかったらしい。なんせそのウツツでは食い物が何よりも必要な時だったのだから無理もないだろう。

しかし今は平時だ。先に起きた震災でもない限り、飲食に不自由することはまずない。そんな中で、「なぜ文学は人生に必要か」という問いについて考えてみるというのはじつに面白い(文学部出身ということもあり、わたしはよく文学や文学部の必要性について考えてしまう)。

この疑問に対する答えのひとつに、桑原は本書で「行動を規制する力」が得られることを挙げている。これについてはわたしも同意見だ。

芸術の役割のひとつとして、「人間の行動をコントロールするための装置」というのがあると思う。たとえばかつて、仏教における地獄絵図などの宗教画は、人間の悪行を戒めるための手段だった。

そういった絵のおかげで、文字の読めない人々とのコミュニケーションが成り立ち、共同体における秩序が保てていたのだ。

文学も同じである(無論すべての文学がそうというわけではないが)。ひとつ例を挙げるとするならば、日系英国人カズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』における世界である。

これは、普通の人間と臓器提供のためだけに作られたクローン人間が共存する架空のイギリス社会をテーマにしたものだ。

科学医療技術や人間の生が行き過ぎたために無秩序な状態となってしまった社会――そのような状況で求められる医療倫理、生と死、人類にとって本当の幸福とはなにかについて、否応なく考えさせられる小説である。この作品もそういった人間の行動に対する警鐘(人間の行動をコントロールするための装置)として機能している。

普段、テレビや新聞のニュースを見ていてこういったことにピンと来なくても、「物語」という形をとった文学であれば、そこに関心を持たせることは大いに可能である。

最近、本やニュースを見たり人と話している時、ふと「目に見えて役立ちそうなものにしか価値を置かない社会になってきているな」と感じることがある(ここで言う「役立つ」とは、「金銭的利益につながる」という意味である)。

しかし、「無用の用」という言葉もあるように、実際のところ必要なさそうなものこそ、真に必要だったりするのではないだろうか。
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