--/--/--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2012/06/10

「道徳的に正しいものが答え」は、本当か? ― 『国語教科書の思想』

国語教科書の思想 (ちくま新書)国語教科書の思想 (ちくま新書)
(2005/10/04)
石原 千秋

商品詳細を見る



国語教科書の中身に触れるなんて、何年ぶりだろう。今、パッと頭に浮かび上がった話と言えば、新美南吉の『ごんぎつね』ぐらいだ。

私は国語が嫌いだった。読書も嫌いだった。理由は、本(物語)を読んでいて面白くなかったからである。それが今では、好きで何冊も新書を読む自分がそこにいたりする。人間、何がどう変わるかなんて、わかったものではない。

それで本書を読んでいる内に、なぜ幼い頃の自分が国語嫌いであり、読書嫌いであったのかが、何となく分かってきた。

著者の石原千秋によると、国語教育とは道徳教育なのだという。となると、教科書に出てくる話も、「道徳的」でなければならない。

例えば小説で、「主人公は友人を裏切るが、後でそのことに苛まれる」といった設定は、教科書の題材にピッタリである。たいていの場合、小説を読んで自分のことを反省したり、他人と話し合ったりする時間がカリキュラムの中に設けられており、こういう「心が痛くなる話」は、己を振り返るための道具として非常に「使いやすい」からだ。

評論文やエッセイだと、ありがちなテーマの1つに、「自然に帰ろう系」がある。「科学技術は進歩しすぎた。今までにない環境問題が生まれてきている。だから、昔の自然を取り戻そう」などがそれだ。「戦争は人類を不幸にするからやめよう系」や、「動物も人間と同じでそれぞれの生を全うしている系」なども、私はよく見た記憶がある。

つまり、小説、評論、エッセイ、どれをとっても「道徳的」なのである。だから、三島の『憂国』や川端の『眠れる美女』や芥川の『河童』といった、ダークな小説は絶対に出てこない。評論やエッセイに、上野千鶴子や中村うさぎが出てくる、なんてこともない。失礼だが、教科書的に見て、これらはどれも「不道徳」なのだ。

国語教育は「読む」ことだけではない。「書く」も大切である。しかし、これも書く内容が「道徳的」でなければ“いけない”。

本書の中で、「遠足の思い出」というテーマで作文しろという課題が出た時、著者は「つまらなかった」ということをなるべく論理的に、理由もきちんと添えて書いた、という興味深いエピソードがあった。だが、後に職員室へ呼び出され、担任の教師から怒られたという。「道徳的に好ましからざるもの」は、問答無用で「国語の敵」だということを物語る話である。


道徳が、初めから「道徳」として用意されていることに意味はあるのだろうか、と思う。何が「道徳的」で、それはなぜか。そこを考えさせた方が良い。

精神的にはまだまだ幼い小中学生たちにだって、時にはそういった「道徳教育」が、胡散臭く感じられたりするのではないか。

「〇〇は大切です」「××してはいけません」――そんなことは薄々彼らにだって分かるだろう。しかし、その理由をきちんと考える時間はほとんどない。当たり前が、「当たり前」で終わるだけである。だから聞く側からすれば、お説教のような授業になる。そういったお説教臭さが、国語を学ぶ面白さを、遠ざけてはいないだろうか。自分のことを今振り返ってみた時、「なぜ国語が嫌いだったのか?」と問えば、答えはそこに行き着く気がする。

評論文やエッセイに限った話になるが、私は、極端に対立する2つの意見を読ませた方が良いと思っている。

例えば、環境問題に関するテーマであれば、「◯◯はやめよう」という意見と、「いや、◯◯は大いにやるべきだ」という意見を同時に読ませる。この時、どちらが「正しい」か「間違っている」かは問うべきではない。どちらを「支持する」か「支持しない」か、そしてその理由をきちんと説明させるように誘導すべきである。生徒も、1つの問題に対して、「答えは1つだとは限らない」ということも学ぶだろう。
関連記事
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。