2012/07/20

「科学的」であることは、それほどまでに大切なのか ― 『「知」の欺瞞』

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)
(2012/02/17)
アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 他

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人文学をやる上での必読書と言えよう。

本書は、ある“事件”がきっかけで出版されたものだ。それは、本書著者の一人で、アメリカの物理学者であるアラン・ソーカルの起こした「ソーカル事件」(1994年)である。ソーカルは、フランスを中心とする人文学界で、やたらと持て囃されている非常に難解な哲学や現代思想に、以前から懐疑的だった。そこで、人文学者や社会学者たちが本当にそのような類の難物を理解しているのか“テスト”するため、彼は自分で擬似哲学論文を作り、専門の学術雑誌に投稿したのである。この論文では、自然科学の世界で用いられている特殊用語が意味もなく多用されており、また論旨そのものにも全く意味がなかった。

もしも彼ら人文学者たちがきちんと査読しているのなら、この論文は雑誌に掲載されないはずである――ソーカルはそのように考えた。ところが彼の意に反し、論文は雑誌に載って“しまった”のだ。この直後、彼はすぐにこの文章がエセ論文であることを発表、同時に人文学界の杜撰さを鋭く指摘し、名だたる「思想家」たち――ラカン、ボードリヤール、ドゥルーズなど――の使用する数学や科学知識などが、いかにお粗末なものかを暴いてみせた。本書でソーカルは、彼ら「思想家」の書いた実際のテクストを例に出しながら、その言葉遣いや学問的姿勢の不適切さをこれでもかというぐらい、徹底的に批判している。

この本が出版された後、日本でもその影響が(主に学界で)現れたようである。「現代思想はインチキである」「◯◯の言っていたことは意味がなかった」「そもそも人文学や社会科学は学問としての形をなしていない」――しかし、人文学というものが大好きな私にとって、こういった主張はどうも聞き捨てならない。そもそもソーカルが言いたかったことは、「人文学や社会科学は、意味のない無駄な学問である」ということではない。むしろ、彼はそういった学問の必要性を主張している。当初はこの点がよく誤解されていたらしく、本書でも強調されている。

その学問的性質上、人文学は自然科学のように「万人が認める客観的事実や仕組み」をひたすら追い求めるものではない(社会科学については詳しくないので、以下、人文学に限っての話をする)。もちろん、そういった姿勢が全くないというわけではないが、「その意見が“もっともそう”であるかどうか」という「説得力」こそが、どうしてもモノを言う学問なのだ。極端な話、一個人が“勝手に”組み立てた理論であっても、そこに「説得力」があれば、それは思想として、哲学として、また人文学として成り立つのである(「説得力」を持たせるためには、論理の整合性や客観的事実を証拠とすることも当然必要であるが、それは自然科学ほど厳密には要求されない)。ちなみに、私が先ほどから人文学を「人文科学」と呼ばないのは、そもそも人文学が「科学」ではない(と思っている)からである。

ところが最近の、いわゆる「科学的思考」とやらを過度に重んじる風潮のせいか、「科学的でなければ取るに足らない」といった考え方が至る所に蔓延しているように思える。そういった「人文学的な知」「人文学的なあり方」、時には人文学そのものが、やたらと軽視(ひどければ蔑視)されている気がしてならない。それは「個人が個人として真実に辿り着こうとするのは、所詮“科学的”ではないのだから、そんなことに目を向けてもしょうがないのではないか」といった発想なのだろう。もっと言えば「科学的」であることこそが最上なのであり、そうでない人文学は役に立たないといった捉え方である。

おそらく、本書で批判された「思想家」たちもこの点に強く悩まされたのではないか、と私は思っている。だから数式を多用したり科学用語をふんだんに使ったりして、哲学や思想を「科学的」たるものにしようとしたのかもしれない。仮にそうだとすれば、こういった態度は人文学の自然科学に対する劣等感の表れとしか言いようがない。

私は、学問の間に優劣があるとはこれっぽっちも思っていない。ある分野では「自然科学的なあり方」が必要であろうし、別の分野では「人文学的なあり方」が必要な場合もある。例えば「人生」や「生き方」について考える時には、まさに「人文学的なあり方」がモノを言うのではないだろうか。なぜならそこに、万人にとって通ずる「方程式」(◯◯をすると□□になる、といった考え方)や「科学」など存在しないからであり、「人生」や「生き方」というのは、その性質上、どうしても“個人”が“個人として”解決しなければならないものだからである。

余談だが、最近出版される書籍を見ていて感じるのは、「成功本」や「◯◯をするとうまくいく本」などによって、仕事や生き方や人間関係を「因果論」(別の言葉で表現するなら「ハウツー」)として見なしてしまいやしないかという危険性である。それがなぜ危険かと言うと、そのように見なすことが多くなるにつれ、「予想通りにならない」ことに対して無駄にストレスを感じ、果ては「そのようにならない他人や世の中が悪い」といった、他罰的発想になりやすくなるのではないか、と考えるからである。これは少々行きすぎた見方かもしれないが、よくよく気をつけた方がいいだろうとは思っている。多少なりとも「人文学的なあり方」を大切にしていれば、そういった傾向を回避できるのではないだろうか。人文学を愛する者にとっての(ささやかな)願いである。
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