2012/09/05

「専門家」は、神様ではない ― 『「心の専門家」はいらない』

「心の専門家」はいらない (新書y)「心の専門家」はいらない (新書y)
(2002/03)
小沢 牧子

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ここ最近の新書に興味の持てるものがなかったので、中古本を漁っていたところ、本書を見つけた。

「心の専門家」(カウンセラー、セラピストなど)は、いらない――これはタイトルにもなっているが、まず、この主張に意表をつかれる。ずっと昔から、こういった職業に就いている人たちに対して、何らの疑問も抱いたことがなかったからだ。相談者の悩みに耳を傾け、真摯に相手に寄り添う――「心」を扱う仕事とは、そういった「なくてはならない存在」だと思っていた。

ところが、その印象は本書を読んで打ち砕かれた。完全に、とまではいかないが、少なくとも「心の専門家」と呼ばれる人たちに対する見方は大いに変わった。

「心の専門家」たちは、心理テストや問診などを通じて、相談者と触れ合う。しかし現実は、両者の「勘違い」の連続であると著者は喝破する。

例えば、相談者は自分の悩みを聞いてもらうことで、「専門家」に対し「親しさ」を感じるようになるが、「専門家」は親友でも恋人でも親でもなく、あくまでも「金銭的に作られた人間関係」である、という事実をしばしば忘却してしまう。「専門家」が親しく接してくれるのは、相談者が「クライエント」だからであり、報酬を払ってくれるからである。

誰かに、自分の中にある不安を打ち明けたいものの、それができない人が多い昨今において、このような「金を払わない限り、自分の腹の底を他人に見せることができない」という好ましからざる状況を、「心の専門家」自身が微塵も意識せずに作り上げてしまっているという現実は、果たして容認されて良いものなのか――筆者は、自身の過去も踏まえながら、読者に(特に「専門家」たちに)そう問いかける。

また、「心のケア」にも疑問を呈す。学校などの教育機関において、「心の専門家」たちは、心理的に不安定な児童を精神の面から支えるという仕事をしている。それを見聞きした親たちは、我が子の安全がしっかり守られていると思って、安心し切っている。だがそういった「支える」という行為は、本来、親のやるべきことではないのか。「専門家」が、その職業的アイデンティティから、そういった業務に励むことは、逆に親子の触れ合いや対話という大切な営みを阻害し、奪取することになりはしないか。著者は、こういった事例をひとつひとつ挙げながら、「専門家」たちによる「善行」の見えざる陥穽を炙り出していく。

私としては、特に後者に共感できた。昔、学習塾の講師をしていた時、同じようなことを感じたからである。そこでは、授業を終えた後、子どもの迎えに来た保護者に対し、その都度今日は何をして、どうだったのかということを逐一報告するよう、上から指示されていた。何か特別な面談でもないというのに、なぜ講師が一々そんなことをしなければならないのか。今日やったことなど親が子どもから直接聞き出せば良いではないか。また、それを講師がやってしまうというのは、親と子の対話をひとつ奪うことにもなりはしないか――そういう疑問が私の中には強くあった。本来、親自らが関心を持つべきこと、そして実践しなければならないことを、こちら側が「サービス」としてやるという「善行」は、長い目で見た時、誰のためにもならないと私は感じていた。一方、親は親で、調べれば分かるようなことも調べようとはせず、ほとんど全てを「専門家」に任せてしまい、受験勉強ならともかく普段の子ども勉強についてさえも「そういう難しいこと、私にはよく分からないから…」「ダメダメ。そういう小難しい話、苦手なの」という態度・有様だった。

「専門家」に頼るのはいけない、ということではない。要は、過度に頼りすぎているのが問題なのである。特に、目には見えない精神的なもの(心や知的なもの)を扱う(仕事にしている)人たちに対しては、彼らを頼りすぎる傾向が強いと思う。また「専門家」たちも、どこまでなら相談者に「頼られて」よいか、どこからは相談者を「突き放す」べきか、という線引きを予めしておく必要があるのではないか。とは言っても、それらが容易にできることでないのは重々承知だが。
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