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2012/10/22

「私」と「私以外」について思索する ― 『自分を知るための哲学入門』

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)
(1993/12)
竹田 青嗣

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哲学に興味を持ち、哲学関係の書籍を手当たりしだい紐解いていくと、おそらく人はこのような問いに突き当たるのではないか。すなわち「哲学とは何か」「哲学は何の役に立つのか」という問いに。思うに、こういう問いが出てきた時点で、すでに「哲学者」としての一歩を踏んだと言ってもいいはずだ。

著者の竹田は、先の問いについて、以下のように答えている。

1、(哲学とは)ものごとを自分で考える技術である。

2、(哲学は)困ったとき、苦しいときに役に立つ。

3、(哲学とは)世界の何であるかを理解する方法ではなく自分が何であるかを了解する技術である。(p8-9)

まず、1と3について。
「哲学」をこれほどまでに単純化されると、「なんだ、哲学って、思っていたよりもカンタンそうだな」という誤解が生まれてしまいそうと私は思っているが、しかしこの「答え」は、間違っていない。確かに哲学には、「自分で考える技術」という側面もあるし「自分が何であるかを了解する技術」という側面もある。

だが私は、この「答え」に対し大いに賛成はしたいものの、まだ「物足りなさ」を感じる。何が「足りない」かというと、「哲学とは、それを“する”者に必ず困難さが伴う」という事実である。

 その「困難さ」とは何か。1の繰り返しになるが、それは「自分で考える」という困難さである。だから、1を書きなおすと「(哲学とは)ものごとを自分で考える技術であり、そこには必ず困難さが伴うものである」ということになろう。
 
どういうことか。哲学書を読むことは、何かについて「自分で考える」ことではない。ショーペンハウアーも言うように、それは「哲学者」という他人に何かを考えて「もらう」ことだ。その哲学書が難読であり、そこに書かれてある言葉の意味を理解しようとすれば、確かに「困難さ」は伴うが、それは「理解する」という困難さであって、「自分で考える」という困難さではない。

哲学書とは、それを書いた哲学者の、「“私は”世の中をこのように見る」「“私は”世の中をこのように理解する」「だから“私は”世の中をこのように生きる」という「告白書」である。そこにあるのは常に、「私」についての思索と、「私」と「世の中」はどのようにつながっているのかという思索である。この2つが書かれてあるから、その本は「哲学」書なのであり、彼は「哲学」者なのである。繰り返すが、彼はその本を通して①「ものごとを自分で考え」ており、②「世界の何であるかを理解する方法」には主眼を置かず、③「自分が何であるかを了解」しているからである。

つまり、「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」を考えることが哲学なのだ。カントでもない、ヘーゲルでもない、デカルトでもニーチェでも、彼でも彼女でもない「私」自身が、「私」と「世の中」について考えるのが哲学である。

そして当たり前だが、誰も「私」になってくれて「私」の代わりには考えてくれない。カントもニーチェも、彼ら自身のことと、彼ら自身と「世の中」とのつながりについては考えたけれども、「私」と、「私」と「世の中」とのつながりについては「考えていない」。つまり、それを考えるのは「私」が「初めて」なのである。「私」の代わりとして誰も考えて「くれなかった」ことを、「私」自身が考え「なくてはならない」から、困難なのである(とは言っても、先達の叡智を借りる必要は当然出てくる。いわば、「ものごとを自分で考える技術」を頭の中に「仕入れる」といった行動が必要である)。
 
それゆえ、竹田も言うように、日本には哲「学者」(=他人の考えたことを研究する人たち)は多いが、「哲学」者(=「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」を考える人たち)は少ない、という指摘はかなり的を射ていると思う。
 
さて、ここまで書くと、私としては「では哲学と科学はどう違うのか」という疑問が出てくる。これはもう、全然違う、としか言いようがない。すなわち、哲学は「私」がまず中心にあり、そこから「周り」をどのように「見るか」が問題になってくるが、科学は「みんな」が中心にあり、そこから「周り」をどのように「見たら正しいか」が問題になるのだ。つまり、哲学は個別的(「主観的」ではない。「主観的」という言葉は、どこか独善的な語感が伴うからだ。哲学は「個別的」ではあっても、場合によっては他人もそのように「見る」「見える」こともあり、つまり「一般化」できる可能性がある)だが、科学は客観的だという違いである。

だから、「哲学なんて客観的じゃない。だから信憑性なんてないんだ」という批判は、ある意味では正しいが、ある意味では的外れである。客観的でない(場合もある)ことは確かだろうが、そもそも「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」という問いに対し「私」自身が答えようとするのだから、そこに「信憑性」がないのは当然である。こういった批判はナンセンスなものとして、むしろ退けたほうが無難だろう。
 
最後に、2について。
私はあまり、何かが「役に立つか、立たないか」という問いを考えるのが好きではない。というのも、「役に立つ」とか「役に立たない」というのは、所詮それをしてみた上での結果論であり、「事前に」わかるものではない、と考えるからだ。もちろん、何かが役に「立ちそう」とか「立たなそう」といった、「予想」は可能だろう。だが、それはどこまでいっても「予想」なのであり、「結果」ではない。それから、「結果」とは言っても、何かを始めてからどの時点までの状況を「結果」とするかで、その結果の「中身」は、当然のごとく違ってくる。例えば、30歳まではそれが役に立たなかったと、とりあえず結論を下しても、それは「30歳という時点においての結果論」であり、もしかしたら40歳の時点では役に立っていたという結果も十分に考えられる。

こういうことを考慮すると、特に何か学問をやる時、それが「要か不要か」を論じるのは、きわめて不毛であると言わざるをえない。しかし、それでも「あえて」この論争に参加するならば、私も竹田の意見に賛成である。彼は、単に「(哲学は)困ったとき、苦しいときに役に立つ」と書いているだけで、何にどのように「困っ」て「苦しい」ときに、哲学が何にどのように「役に立つ」のかは書いていないから、この文だけ読んでも判然としないが、自分の生き方についてや、他者との関わりについてなどを「私」自身で考え(または先人に考えて「もら」い)、それを実践してみるということであれば、確かに「役に立つ」と言える。

と、いつものごとく長々と書いたが、私も、哲学をすることは自分のためになると信じている。自然科学は、自然や宇宙といった、自分の「外」にある対象が何でありどうなっているかを究明することはできるが、「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」を明かすことはできない。こればかりは「自分で」「自分の」答えを出す以外に仕方がない。そのための「技術」が哲学なのだから。
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