2012/12/08

日本人の思考回路の原点 ― 『日本語と日本語論』

日本語と日本語論 (ちくま学芸文庫)日本語と日本語論 (ちくま学芸文庫)
(2007/09/10)
池上 嘉彦

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認知言語学の視点から、日本語と西洋の言語を比較・考察するというのが、この本の主旨である。

学術書とは言え、ちくま学芸文庫に収められた本だから、そんなに難しくはないだろうとは思っていたが、この予想は翻された。本書はかなり本格的な言語学の論考集である。

取り扱うテーマは、日本語における主語の省略について、「モノ」と「コト」と「トコロ」という捉え方、言語における「数」の概念(複数形)の有無について、などだ。

最も興味深かったのが、日本語における主語の「場所」化、という現象である。例えば、以下がその「場所」化された例文。

①天皇陛下ニオカセラレ(マシ)テハ、自ラ杉ノ苗ヲオ植エニナリマシタ。
②東京ハ人ガ多イ。
③象ハ鼻ガ長イ。

①では、「天皇陛下」という主語が、「場所」になっている(=「オカセラレ」の部分が、「天皇陛下」を「場所」化している)。そしてその「場所」で、「自ラ杉ノ苗ヲオ植エニナ」るという出来事が現れている(=出来している)。

②も同様。「東京ハ人ガ多イ」という文は、「東京ニオイテハ人ガ多イ」とも言い換えられる。しかし、われわれの普段の言い方では、「東京ハ人ガ多イ」の方が自然である。この文の場合、主語は「東京」だが、その主語自体が「場所」化されている、と捉えられる。

これを英語にした場合、

1、There are many people in Tokyo.

もしくは、

2、Tokyo has many people.

のいずれかになるが、1では主語はThereだし、2では主語はTokyoだが、動詞hasを見てわかるように、Tokyoが擬人化(=主体化、能動者化)されている。つまり、いずれの場合もTokyoは日本語の時とは違い、「場所」化されないのである。

③は分かりづらいがこれも、「象」という「領域」(=「場所」)において「鼻(=主語)ガ長イ(=述語)」という事象が起こる(=出来する)、と解釈できる。つまり、「象ニオイテハ鼻ガ長イ」という言い方が可能なのである。

日本語における主語の「場所」化という現象の奥には、古い日本語の「AハBナリ」が、もともとは「AハBニアリ」(すなわちA<B)だったこととも関係している、という池上氏の指摘は非常に興味深い。つまり、日本語の文は古くから「場所」という概念要素と関係があったのである。これは、英語のA is B(すなわちA=B)とは、厳密には違うことを意味する。

日本語における「場所」化という現象でさらに気になったのが、日英の辞書において、言葉の定義の仕方(というよりも見方)が異なる、という点だ。例えば「火葬場」(crematorium)という言葉は、日本語では「火葬をする“場所”」とされる。しかし、英語での定義では、“a building in which the bodies of dead people are burned at a funeral ceremony”なのだという。ここで注目すべきは、日本語では「場所」と捉えているのを、英語では“building”(建物)と捉えている点だ。つまり、一方はそれを「二次元平面」と見るのに対し、他方は「三次元体」(=立体)と見るのである。

詳細およびその他豊富な事例の紹介については本書に譲るが、こういった各々の事実を文化論的に捉え直すとするならば、「凸型の西洋」「平面型・凹型の日本」と言えるかもしれない。池上氏は、これだけの事実から、そういった文化論・文明論に持っていくのは尚早だとしているが、私はこういった、「凸型の西洋」「平面型・凹型の日本」という見方もアリなのではないかと思っている(ちなみに、岡本幸治という政治学者が同様のことを唱えている)。確かに、単純な二項対立のきらいはあるものの、これを更に抽象化させた、「主体性」(=「凸的」なもの)を重視する西洋、それを軽視、場合によっては敵視する「平面的・凹的」な日本という構図は、至る場面で見られる現象ではないだろうか(今の政治経済を見ていると、不幸なことに、つくづくそう感じてしまう)。

明治期の日本で、初代文部大臣を務めた森有礼が、日本人に日本語を捨てさせ、英語を学ばせようとする政策を唱えたことがあった。この意図は、今日で言うところのいわゆる「グローバル化」に対抗するため、ということだろう。結局、幸いにしてこの政策は実現しなかった。だがもしかしたら、森は、日本語の「平面的・凹的」性格を見抜いており、欧州列強の侵略にやられない「強い日本人」をつくるためには、「凸的」である(=「主体性」のある)英語を学ぶ、それによって「主体的」な日本人になるしか生き残る道はない、と密かに考えていたからではないか――本書を読んでいて、そんなことをふと考えてしまった。丸山眞男は戦後、日本人の「主体性」、そしてそこに宿る「責任」のなさを散々に批判したが(『日本の思想』『日本政治思想史研究』を参照)、おそらくこの「問題」を解決するためには、日本人が日本語という言語を捨てない限り、無理なのではないだろうか。

そう考えると、現在の日本における英語ブーム(TOEICだの英検だの英会話スクールだの)は、単なる「グローバル化」への対抗策以上のものを感じさせないでもない。「主体性」(=「凸的」であること)を手にするために、「無意識的に」われわれは「英語」という言語を学ぶ(学びたがっている)のではないか。そして同時に、ややもすれば、自分はマイノリティなのだ、傷ついた存在なのだ、それにより不幸なのだ、と思い込みたがる日本人の自虐性(世界の幸福度調査で、日本が他の先進諸国と比べ、圧倒的に低い数値を出している点など)は、日本語の「凹的」性格、それによって築かれる日本人の思考回路に起因するのであり、それを克服「したい」がためにも、われわれは「英語」を学ぶのではないか――

無論、以上の私の考えは、かなり飛躍的かつ過激であり、やや反日的でもある(しかし、何を言われようと、私は日本と日本語が大好きなのだが)。何ら、根拠となる事実は示せないし、今は単なる仮説、いやむしろ妄想・暴論に近いといってよい。しかし、日本語、ひいては日本語を母語とする日本人において、この「場所」という概念は切っても切れない関係にあることは、本書を読む限り、確かだと言える。この点について、西田幾多郎が哲学的思索を進める中、「場所」という概念に行き当たったという事実は非常に興味深い(岩波文庫『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』の『場所』を参照)。

最後に、池上氏の他の著作として、私は先日『「する」と「なる」の言語学』(大修館書店)という本を注文した。機会があれば、この本についてもブログで取り上げたいと思う。
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