2012/12/26

「生の現実」をよく「観察」せよ ― 『方法序説』

方法序説 (岩波文庫)方法序説 (岩波文庫)
(1997/07/16)
デカルト

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ここ最近、私は社会科学(=社会や社会現象を「分析」する学問)というものに対し、不信感を抱いていた。どのような点においてかというと、その「もっともらしさ」にである。ある社会において、ある特別な事態や状況が生じた時、その原因が何に由来するものかを分析・調査するのが社会科学の仕事だが、その「分析」やら「調査」やらに、胡散臭さを感じていた。

「分析」だの「調査」だの言うけれど、実はどれも「言葉の持つ曖昧さ」を無自覚に「利用」をしているのであり、なんとなく「そうだ」と言えそうな言葉、つまりその現象を言い当てられそうな、「もっともらしい」言葉でもって、その社会現象を「説明」している(否、「したことにしている」)だけなんじゃないのか――こういった不信感である。

例えば、よく耳にする「日本人は集団主義だ」とか「日本人は“和”を重んじる」とかいった言説など、私には非常に怪しく見える。こういったことを最初に唱えたのは、『菊と刀』で有名なベネディクトらしいが、彼女は一度も来日したことがない。しかし今でも、この本は「日本(人)論」の代表的位置にあり、何かと話題になる。

つまり、こういった学問は、実はいかようにでも解釈できる事柄を、「もっともらしい」言葉でもって、「もっともらしい」説明をしているだけで、何一つ真実を言い当ててなどおらず、結局「印象批評」にとどまっているだけなのではないか――こうした不信感を、どうしても拭い去れないでいた。

そんな時、たまたまふと手にとったのが、この『方法序説』である。世間では、一応「哲学書」ということになっているらしいのだが、私には、デカルトの「“俺ならこう考える”論集」に思える。

それはともかく、なぜこの本に惹かれたのかというと、デカルトが非常に「実体験」を重視しているからだ。そして私が彼を見習いたい点は、こうした「実体験」を通しての、事物の「観察」を重んじているところである。本書の「第一部」でデカルトは、ただひたすら書斎にこもって「文字の学問」(主に文献をもとにした研究)に耽ってなどいたところで、所詮それは空疎な思弁であると言う。

そんなことをしているよりも、外に出て色々なものを見たり、人と交わったりすること(もちろん、ただ「する」のではなく、じっくりとその状態や状況を「観察」する、という意味合いで)の方が大事だと思うようになる。そして実際に、彼自身が見たものや、その時思ったことなどを、彼自身の中で「消化」していく。そうやってできたのが、この『方法序説』なのだ。

つまり、この本はデカルトが自身の「肉体」で書いたものなのである。「肉体」で書いた以上、書斎(研究室)にこもって本だのテレビだのネットだのの情報をもとに、社会(現象)を「分析」した本などより、よほど価値もあるだろう――読んでいて、そう思い始めた。

もちろん、だからといって、そうした本にいつも「正しいこと」「価値あること」が書かれているわけではない。また、先の「言葉の曖昧性」の問題も、「肉体」で書いたからといって解決するわけでもない。しかし、自らの体をその現象の中に投じ、そこからその現象を観察したのだから、信憑性や説得力は大いにあるのではないか。また、社会科学の本を読むにしても、このことがきちんとできているものを読むべきなのだと思う。

「生の現実」に忠実であれ。そしてそれをよく「観察」せよ――デカルトのこの本から学ぶべきことは、「我思う、故に我あり」ではなく、ただこの一点だと思う。
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