2013/01/28

私がツイッターをやめた理由

昔、私もツイッターをやっていた。
動機は、大したものではない。なんか流行っているし、ブログの宣伝にもなりそうだし、個人的な興味もあったので始めたのだ。

実はツイッターもブログと同様、私は3回ほど、始めてはやめ、始めてはやめ、を繰り返した。そして今は“きっぱり”やめることにした。

なぜツイッターを“きっぱり”やめることにしたのか。理由は3つある。


1:「普通の生活」をしている自分には、ツイートすることが何もないから。

2:考えていること(考えたこと)は、「一度に」「まとめて」文章にした方がいいと思うから。

3:自分が何かをツイートするよりも、人のツイートを見ている方が楽しくて楽だから。




1について


ツイッターをやめた理由の70%は、1の理由からである。ツイッターを色々とイジってみた挙句、結局普通に生活をし、普通にインターネットをする私にとっては、何かを見てつぶやく(べき)ことが何もなかったのだ。

本当に、何もない。例えば、2chのまとめサイトを見てつぶやくことは、過去に何度もあった。が、そのうち「別に自分がつぶやかなくても、他の大勢の人がつぶやいているのだから、わざわざ自分がそうする必要などないじゃないか」と思うようになった。

別に2chのまとめサイトに限らず、他のブログ記事についても同じである。私がつぶやこうと思う記事は、決まってもうすでに誰かが(しかもたくさんの人たちが)ツイートした後なので、つぶやく必要性がまったくと言っていいほど感じられないのである。

こうなってくると、「じゃあ、自分の身辺のことでもつぶやくか」となってくるかもしれない。しかし、どこの誰かも分からない人の身辺についてのつぶやきに、何の価値があるのだろう。「お腹が痛いなう。電車なう。ピンチなう」とか、「今日のお昼はイタリアン!デザートは別腹。旦那には内緒」とかつぶやかれても、フォロワーにとっては迷惑だろう。

というわけで、ネットの記事にせよ、身辺情報にせよ、私には何らつぶやくことや、つぶやく必要性が、何ひとつなかったのである。



2について


これは、ツイッターを“きっぱり”やめて、ちょっとしてから気がついたことだ。

自分が考えていることは、(自分だけの秘密にするにせよ、他人に見せるにせよ)ある程度まとまってから、ある程度分量のある文章にした方がいいのではないか、と私は思っている。だからツイッターはやめても、ブログはやめないのだ。

というのも、ツイッターでその都度その都度、つぶやくという行為は、自分の思考を途中で「裁断」してしまうことに気づいたからである。つぶやけばつぶやくほど、自分の頭の中でおこなわれることが「思考」ではなく、「細切れ」にされた、ただの「思いつき」ばかりになっていきそうだからだ。

「ツイッターに限らず、ブログだって所詮、思いつきの垂れ流しのようなものじゃないか」という意見もあるだろう。確かに、場合によってはそういう面もあると思う。しかし、ブログはツイッターと違い、字数制限がない。とにかくキーボードを叩いて、たくさんの文字が打ち込めるのだ。この「たくさんの文字が打ち込める」というのは、思考がよどみなく動き続けていることの表れである。

そしてこうした動きは、非常に自然なものだ。思ったこと、考えていることがどんどん膨らみ、溢れるように出てくる。途中でその「勢い」を終わらせてしまうことが、非常にもったいなく感じる。おそらく、文章を大量に書いている人には同じ体験があるのではないだろうか。

つまるところ、これが「思考」なのだと思う。一方、「思いつき」というのは、パッと現れ、パッと消えていくような、そういった刹那的なものだ。“断”続的、といってもいい。

ツイッターは、こうしたよどみなく続く思考の流れや発展していく状態を、「字数制限」という装置によってストップさせてしまう。「だったら、連続ツイートすればいい」ということになるが、なぜ140字の時点になったら、自分の思考の流れをストップさせるような媒体を、「わざわざ」使わなければならないのか。それなら始めから、ブログの方が便利ではないだろうか。

別に、私はツイッターがブログよりも劣った道具である、などとはこれっぽっちも思っていない。そうではなく、絶え間なく続く思考の流れをわざわざ止めてしまう性質がツイッターにはあるのだから、少なくとも、その「絶え間なく続く思考の流れ」を重視したい“私にとって”は、ツイッターよりもブログの方が合っている、というだけの話である。決して、ツイッターには何の価値もない、ということではまったくない。



3について


これも自分がツイッターをやめてから気がついたことだ。過去のつぶやきを見て、私基準で「この人は有用なことをつぶやく可能性が高い」と思った人のツイッターを覗くことが、私にはぴったりだと感じるようになった。

「有用なこと」とは何か。これは一概には言えないだろう。先ほどの、「お腹痛いなう」とか、「今日のお昼はイタリアン」とかは、とりあえず「有用なこと」ではないはずである。

私が思う、私にとっての「有用なこと」とは、社会批評の記事とか、書評とか、一風変わった自己啓発系のエントリーなどの紹介だ。

そういったものを、ひたすらツイッターで紹介してくれる人は、非常にありがたい。いつもいつも「今日はどんなことをツイッターで紹介してくれるのだろう」と期待しながら、その人のツイートを見てしまう。

問題は、そういう人がどのくらいいるのか、そういう人に出会えるのか、である。幸い、私はそういう人を見つけた。決して有名人ではないが(有名人でもつまらないことばかりつぶやいている人は大勢いるが)、私の基準に照らして非常に「有用なこと」をつぶやいている。素直に、ありがたいことだと思う。

以上3つ、私がツイッターをやめた理由を書いてみた。こうして見ると、ツイッターをやめたとか何とか言いながら、結局ツイッターについて色々考えている自分がいたのだなあ、と思う。つまり、なんだかんだでツイッターと「間接的に」関わっていた、ということか。そういう意味で、本当はツイッターを「やめていない」のかもしれない。

話は若干変わるが、押井守の『コミュニケーションは、要らない』(幻冬舎新書)が出版された時、その本のオビには「つぶやけばつぶやくほど、人はバカになる。」と書かれてあった。買いはしなかったが、かなり強烈な文句だったのでそこだけは覚えている。

しかし、あながちウソでもないかもしれない。言い得て妙だとも思う。先ほども言ったとおり、ツイッターは、自分の思考を「細切れ」にしそうな感がある。長時間、じっくりとものを考える、ということをおろそかにしそうだ。何かを見てすぐに反応し、何もよく考えずにツイートばかりしていれば、「バカ」になるのは間違いない。

誤解されないためにもう一度言うと、私はツイッターを使うことや、つぶやくことがダメだと言っているのではない。そうではなく、いつもいつも、大したこともないのにツイートしまくったり、じっくりと考えずに即時的にネットにものを書き込んだり、ということに危なさを感じるのだ。

とはいっても、これはブログや他のSNSにも当てはまることだろう。私も注意しなければ。


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