2013/02/02

「ひきこもり」で何が悪い ― 『ひきこもれ』

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)
(2006/12/10)
吉本 隆明

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僕はひきこもりがちな人間だ。遊ぶとなると、たいてい選択肢は、家で本を読むか、DVDを見るか、ネットをするかの3つである。

そんな性分だから、タイトルに惹かれて本書を買ってしまった。世間は一般的に「ひきこもりは良くない」とか、「ひきこもりは社会不適合者だ」とか、そういった見方をする。が、吉本隆明はそうではない。

吉本によると、ひきこもることは、自分の中に「価値」をつくることだという。誰とも会わない。誰とも話さない。ただひたすら孤独になっているだけだが、そうすることで色々なことを、ひとりで黙々と考えるようになるのだという。

ひとりで黙々と考えるようになると、人とは違った価値観を持つようになる。人とは違った物の考え方をするようになる。それが、その人の「価値」になるのだと吉本は言う。

みんなといると、どうしてもその場の、目には見えない「みんなの論理」に従いがちだ。みんながそうするから自分もそうする。というか、せざるをえない。みんながそう思っているから自分もそう思う。というか、思わざるをえない。これでは、僕の思考が「みんな」の“奴隷”になってしまう。こういうのが僕は本当に嫌で、だから大学にいた時はほとんど毎日ひとりで過ごしていた。

そのせいで、さみしい思いもした。周囲を見渡せば、美人な彼女をつれて歩くカッコイイ男がいる。別の方向に目を向ければ、5~6人の男女が集まって楽しそうにワイワイと話をしている。しばしば、そういう光景を目にしてはヤキモチを焼いたりもした。時には、「俺は孤独なんじゃない。“孤高”なんだ」などと屁理屈めいたことを自分に言い聞かせることもした。

今の言葉で言えば、いわゆる「リア充」というヤツではなかったと思う。しかし、それは傍から見ての話だ。つまり、僕の「外面」が「リア充」には見えなかった、というだけである。しかし、嫉妬やさみしい気持ちになることもあったけれども、「内面」は「リア充」であったことは今でも自負している。

ひとりの時間、僕は図書館と本屋にしかいなかった。そういうところで「ひきこもり」をしていた。サークルには入っていなかったし、バイトもまじめにやっていなかった。

授業には出た。出ないと欠席で落とされるし、試験の連絡も入ってこないからだ。けれど、所詮、大学の授業なんて教師の「趣味」みたいなものだし、僕はまじめに聞くというより、テレビ番組を暇つぶしに見ているぐらいの「娯楽」にしか考えていなかった。だから、授業がなくなったら、とにかく本屋と図書館に足を運んだ。そこで、色々なことを感じたり、考えたりしていた。そういった形の「ひきこもり」をやっていた。

この本にすごくシンパシーを抱いた理由は、おそらくこうした経験が僕の中には多かったからだと思う。だから、畏れ多くも「僕と吉本は似ている点が多いな」とも思った。どちらも、内に引きこもりがちな性格は共通している。

それから、吉本はこの本の中で「物書きを始めたのは、ひきこもりがちな性分だったからだと思う」と書いている。引きこもっていて、社交的ではないから、人にうまく口で伝えられない。だから、物を書いてそれを人に読んでもらえばいい――そう思って、物書き屋になったのだという。

彼の場合、職業として物書きをやっていたわけで、そのところ僕は趣味として物を書いているから違うのだけれど、それでも「物を書く」という点は一緒だ。

僕は、よく物を書く人というのは、根本的に世の中や他人に対して、多少なりとも何らかの不満なり不快感なりといった、「欠如感」(何か満たされていない感覚)を抱いている人だと思っている。

かく言う僕もそうである。とにかく何か書いて、言いたいことを言う。そうやって憂さを晴らさないと気が済まない。僕は大学時代、文学部にいたが、文学者は気難しい人が多かった。その理由は、文学をする(=広い意味で、色々と物を書く)人は、そもそもこうした「欠如感」を抱きがちだからなんだと思う。

そういう点で、僕はやはり物を書くという行為は「格好悪い」と感じる。見た目が地味でパッとしないから、という外面的な理由もあるけれど、さっき言ったような「欠如感」を抱いているから、という内面的な理由からそう感じる。できれば書かない方がいい。しかし、書かずにいられない、そんな自分が嫌いじゃなかったりもする。

話がだいぶ逸れてしまったが、とにかくそうやって物を書いたり、図書館にいたり、本屋にいたり、という生活を大学生の時に送った。

ここから何を得たか。それはよくわからない。はっきりとわかるのはまだ先になってからかもしれない。ただ現時点で、漠然とした感覚からではあるが、あの頃そうした生活をしていたことが、就職活動の時だったり、悩みの切り抜け方としてだったり、また今はブログを書くことだったりに生きている(生きた)なあと感じる。

「だからなんだ」と言われればそれまでかもしれないが、少なくとも、ひとりでいることをあまり苦に感じなくなった。「他人に物を考えてもらう」のではなく、「自分で物を考える」ようになった。長い文章を気軽に書けるようになった。本を読むにせよ、映画を観るにせよ、またどうということもないテレビ番組を見るにせよ、そこに隠れている「構造」というか「仕組み」というか、そういったものを読み解いて、それを何かに応用したくなる、そんな人間になった。

こうしたことがすべて、僕の「価値」になったのだと思う。無論、失ったものも少なくない(そのぶん、女ウケが悪くなったとか、外見が格好良くなれなかったとか)。しかし、それはそれでよかったかもしれないと今は思っている。

ひきこもれるのなら、ずっとひきこもっていたい。僕は本当にそう思う。でも生きていくためには働かないといけない。だからとりあえず外に出るのだけれども、それでも最低限度でいいと思う。いつもいつもコミュニケーション上手で、社交的である必要はまったくないだろう。そんなことよりも、自分の中に「価値」を醸成することのほうがずっと大事なのだから。

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