2013/06/16

やっぱり「霊」は、いる ― 『現代霊性論』

現代霊性論 (講談社文庫)現代霊性論 (講談社文庫)
(2013/04/12)
内田 樹、釈 徹宗 他

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「霊」なんて、学問的研究対象にはならないだろうと思っていたが、内田樹いわく、「霊」には「現象学的アプローチ」が可能だという。

 われわれは、「霊」に対して「これが“霊”です」と指し示すことはできない。しかし、たとえば神棚を設ける風習や、正月にたくさんの人が初詣に行く風習、民放の朝のニュース番組や週刊誌などで、「今日の運勢」などといった占いのコーナーが用意されていることなどを見ればわかるように、昔は言うまでもなく現代においても、決してわれわれは「スピリチュアルなもの」と無縁に生きているわけではない。

こうした「スピリチュアルなもの」がわれわれの中に根付いている背後には、「明確に“これ”と指し示すことのできないもの」としての「霊」、言い換えれば「万人がみな、“これが霊である”と認める確かな“霊”(=指し示せるものとしての「霊」)」はないけれど、しかし「どこかには存在すると“仮定”された霊」というものを考えているからではないか。

だとしたら、「霊」そのものを「実体」として把握しようとするのではなく、「霊」にかかわるありとあらゆる「現象」(神棚を設ける、初詣に行く、占いのコーナーがある、etc)を考察することで、「霊」という「捉えどころのないもの」の「姿」や「機能」を捉えることができる――これが、内田の言う、霊に対しての「現象学的アプローチ」である。

「霊」というものを真正面から捉えようとするのではなく、「霊」にかかわる様々な社会現象から「じゃあ、“霊”ってなんだろう?」と考えてみたらどうか――なるほど、こういう発想は今までまったくなかったね。



そんなわけで、わたしも「霊」にかかわる様々な社会現象から「じゃあ、“霊”ってなんだろう?」と考えてみた。もちろん、内田の言う「現象学的アプローチ」で。

そこで1つ気づいたのは、「霊」の「本質」って「人を縛る」ことではないか、というものだ。神棚を設けることも、初詣に行くことも、そして占いが根強く人気なのも、どれも「気分的に落ち着かない、不安定な(=安心感が得られない)“わたし”」を精神的に「縛る」ことで、「気分的に落ち着いた、安定な(=安心感を得た)“わたし”」へと変えてくれるものだからではないか。

神棚を設けようとするのは、「神様に守ってもらえる」といった「安心感」が得られるからだろうし、初詣に行こうとするのは、お賽銭箱の前で願った「こうであってほしい今年一年のわたし」を「神様」に伝えることができたという「安心感」が持てるからだろう。

また、占いコーナーが人気なのも、占ってもらうことで、今日一日を「なにがおこるのかわからない」不安感を抱えながら過ごすより、「今日一日、こんなことが起きやすいですよ(→だから、◯◯しておきなさい、☓☓は控えなさい)」という情報を仕入れたことによる「安心感」でもって過ごしたい――言い換えれば、そういった占いの言葉に「縛ら」れたい、「縛ら」れることで「心の安定」を得たいと願う人が多いからではないだろうか(こういうのを「言霊」(=言葉の霊)信仰というのだろうか?)。

つまり、「霊」の「本質」は、われわれの「なにかに縛られたい」という気持ちの「発現形態」ではないかと思う。われわれは、「霊」という、この世に存在すると確定できないものを、あえて「存在する」と仮定することで、良くも悪くも、「不安定な自分」から「安定した自分(=「縛」られた自分)」になりたいのだ。

そう考えると、人間というのはどこまでいっても自由から「逃走」する生き物なんだな~なんて思えてしまう。言葉とか情報とか、儀式といったものによって精神的に縛られたい、縛られることで安心したい――「マゾ体質」な生き物なのだと思う、人間っていうのは。

よく、「いまの人間関係がもうイヤになった」とか「他人が自分のところへ介入してくるのがうっとうしい」とかいって、そういったつながりをすべて断ち切ってみた結果、「なんかさみしいな・・・」「独りになるってけっこうツライんだな・・・」っていう気持ちになることがあるけど、これってさっきの「霊」の話と構造が似ているような気がするね。人間関係に縛られないっていうと、なんだかすっごく清々した気分になりそうだけど、実際はある程度縛られないと、不安感や孤独感に悩まされたりするんじゃないかな?

この本を読むまで、正直に告白すると「占いなんか信じるヤツって・・・」みたいに思っていたけど、決してわたしも「霊」の「呪縛」から自由ではないんだな~ってことに気づかされた。誰でも程度に差はあれ、「縛られたい」という「マゾ体質」を抱えている。まあ、真の「マゾ」になってしまうのは問題でしょうが。

2013/05/14

文章を「書ける人」になるには?

こんな記事を読んだ。いま話題らしい。

文章を「書ける人」と「書けない人」のちがい - デマこいてんじゃねえ!

↑の記事によると、文章を「書ける人」は、


1、毎日少しずつでもいいから「知識」を蓄えていく。

2、どんなふうに言葉を「配列」していくかを考える。どんな「知識」を取捨選択していくかを考える。

3、文章を論理的に書く。しかし論理的でさえあればよいかというと、そうではない。情緒ゆたかな文章になるよう意識する(ここで言う「情緒」については、上記リンク参照)。



の3点を実行できている人のことらしい。


ふ~ん。なるほど。そうかもしれない。でもなんかちょっと、引っかかる。


まず、1番目の「知識」ウンヌンだけど、確かにその通り。やっぱり、どんなことを書くにせよ、これから書こうとすることへの「知識」がないと、なかなか書けないよね。当たり前だけど。

しかし、である。じゃあ、「実際に」文章を書こうとする段になると、もう「知識」がどうのこうの、なんて言ってられないのだ。

人を引きつける文章、誰かの心に響く文章。そういう文章を書くためには、たくさんのひきだしから多彩な知識を取り出さなければいけない。そして、そういう知識は短期間では身につかないのだ。(リンク先から引用)

↑はまったくその通り。しかし、じゃあ文章が「書ける」ために必要な「知識量」とは、いったいどのくらいなのだろう? 

そりゃあ、多ければ多いに越したことはないけれど、「実際は」そんなに「知識集め」をしてられないのだ。なぜなら、「知識集め」をすることと「文章が書けるようになること」との間には、ほとんど関係性がないから。「文章を書けるようになる」ためには、「知識集め」ではなく「文章を実際に(しかもたくさん)書く」以外、よい方法はないのである。

だから、「オレはこれから文章を書くぞ!」と決めたからには、もう「知識集め」をしてもムダ。おのれがいま持っている知識の量で、「作文」という「知的バトル」に挑むしかないのである。

無論、言うまでもなく「知識集め」はすごく大事だ。しかし、「文章を書く」段階にもなって、未だに「知識集め」をしているようでは話にならない、ということである。



そんで2番目について。どんなふうに言葉を配列していくか、どんな情報を取捨選択していくか、か。

こういった意識も大事だなあ~とは思う。少なくとも、意識しないより、したほうがいいに決まっている。

でも、である。「文章を書く」とは、「脳内で起こる戦争」なのだ。ものすごくめまぐるしく、頭の中が回転しているのだ。そしてその勢いでもって文章を書くのだ。

そんなとき、一々「ええっと、ここにはこんな言葉を持ってきて、最後はこんなふうに締めて・・・あっ、ここには読点があったほうがいいかな」なんて考えていたら、まず、死ぬ。何が死ぬかって、文章を書いていくときに起きる「勢い」や「躍動」が、である。

で、こういったものは絶対に殺してはならない。なぜなら、良い文章、おもしろい文章はこうした「勢い」や「躍動」と表裏一体の関係だからだ。

わたしは小説家ではないから、多くの作家先生がどのように小説をお書きになっていらっしゃるのか、存じ上げていない。なかには一字一句、ものすごく計算して紙面上に「配列」することによって、文章を練り上げている方もいるのかもしれない。

しかし、わたしはそんなことはしない。というか、できない。とにかくサッササッサと自分のオツムの中から言葉を紡ぎ出して、文章をつくっている。そうやって文章を書くのに必要な「勢い」を殺さないようにしている。いちいち、「ええっと、ええっと」なんてやってたら、文章書きという「知的バトル」を制することは到底できない。

これは、どんな情報を取捨選択するかについても同じ。いや、というよりも、勢いでもって文章を書いていると、勝手に頭が情報を取捨選択してくれる、といったほうが正確だろうか。自分が意識的に取捨選択するのではなく、もう自分から「離れた」状態で頭が自動的に「はい、次に必要な情報はこれ」といった感じで、ポンポンと蓄えていたものが出てくるのだ。

だから当然(さっきの話とかぶるが)、「知識集め」なんてものはやってられない。やってるヒマがない。そんなことをしていたら、「勢いでもって文章を書く」ということができなくなってしまう。チンタラチンタラと文章を書くハメになる。だから、「とりあえず」現時点で頭に叩き込んだ知識でもって、作文という「知的バトル」に挑むことになる(というか、そうせざるをえない)。



最後に3番目について。「文章は論理的に書け」は、もう中学生でも言われるようなことだね。だから「いまさら?」感はあるのだけど、でも大事なことだから、わたしはこれは「ちょっとだけ」意識している程度かな。

一方、「情緒的に」のほうがあんまり言われない。これもこれで大事かもしれない。しかし、論理の重要性と比べたら、こちらの重要度は低い。というのも、「言葉の情緒面を大切に」ウンヌンなんて言われても、ほとんどの読者は「言葉の情緒面」なんか気にもとめないからだ。

でも、ロジックは気にする。なぜなら、これがズレれてしまえば、「ほこたて」な文章になってしまうから。「ほこたて」な文章というのは、当然相手に信用されません。だから、ロジックのほうが大事なのだ。

それに、である。普段わたしは大量に文章を読んでいるのだけど、言葉の「配置」だの「情緒面」だのを気にすることっていうのは、ほとんどない。気にするのは、筆者の「言い分」(文章内容)と論理だけだ(当たり前すぎるくらい当たり前だけど)。

それ以外、大して気にしない。仮に気にしたとしても、すぐに忘れる。つまり、わたしにとっては「配置」だの「情緒面」だのといった要素は、「その程度」の存在でしかない。

いや、もちろん、「言葉は大切に扱うべきだ」という意見には大いに賛成する。言葉は、鋭利な「武器」だ。言葉は、人の肉体は殺めることはできなくとも、人の精神を殺めることはいとも簡単にできてしまうからだ。その反面、些細な一言で他人を大いに元気づけることだってできる。言葉とは、そんな不思議な、そして鋭利な「武器」だとわたしは思っている。

しかし、だ。大量を文章を書いていると、そんなことなどすぐに忘れてしまう。とにかく言葉を紡ぎだすことに夢中になってしまうからだ。「そんないい加減な状態で、ほんとうに文章が書けるのか?」と言われそうだが、答えは「書ける」である。実際に、文章を「すばやく」「たくさん」書くことだけを意識してみれば、それがわかると思う。



――ということで、上記の記事の言っていることはもちろん大事なことが少なくないのだけれども、あんまりこれらに意識を囚われすぎると逆に文章が書きづらくなるんじゃないかなあとは思う。

「とにかく、書け。もし文章をうまく書きたいのであれば」――これに尽きるんじゃないかな?
2013/05/11

ビジネスマンにとって読書が大事な「本当の」理由

会社にいて仕事をしていると、大変残念ながら、「頭を使う」ということをだんだんしなくなるようである。

たとえば、なにか資料をつくるとしよう。そのとき、ExcelだのWordだのを使って数値を入力したり、文字を打ち込んだりするわけだが、実際のところ、こうした作業というのは、ほとんど「頭を使」わずに、ほぼ惰性でやれてしまう。計画書や報告書をつくったり、商談の予定を組んだり、お金の計算をしたりすることも、ほぼ同じだ。

なぜか? それはたいていの場合、もうすでに、決まりきった「やり方」(「フォーム」と言い換えてもいい)を、(程度に差はあれ)「使い回せてしまえる」からである。つまり、「頭を使わ」なくていいのだ。そして代わりに頭ではなく、体が勝手に「動いてくれる」のである。

「そんなの当たり前じゃないか」と言われれば、その通りである。しかし、それが「当たり前」であるからといって、別にそれで「よいこと」にはならない。「当たり前」というのは、どこまでいっても「当たり前」でしかなく、「当たり前“だからそれでもよい”」とか「当たり前“だから仕方がない”」といったことにはならない。

よく、自己啓発本に「ビジネスマンは読書をしなければならない」などと書いてあったりするが、これは詰まるところ、「ビジネスマンの多くは、放っておくと頭を使わなくなるから」に尽きるのだと思う。

無論、世の中は「頭を使わ」なくてもできる仕事しかないわけではない。しかし、「頭を使う」ことが「本当に」必要な仕事というのは、おそらくどんな会社においても、1~2割程度の人たちだけがしているのではないかと思う。それ以外の人たちは、「頭を使わない仕事」、いや、正確に言えば「頭を使う必要性を、ことさら感じさせない仕事」をしているのではないだろうか。

わたしも今、Excelを使って資料をつくる仕事をしているが、ときどき「オレ、たしかにExcelイジってるけど、なんら意識的に“頭を使う”ことをしてないよなぁ・・・」と思うことがある。もちろん、いまの仕事に不服があるわけでもないし、こうした資料作りがムダだとも決して思わない。

しかし、どこかで意図的に、そして自主的に「頭を使う」ということをしていかないと(つまり、なにがなんでも頭の「出力」を上げていかないと)、本当に「頭を使わ」ない人間になってしまうのではないか、と不安な気持ちになってくる。そう、まるで「家畜」のように、なにも考えないで生きる人間になってしまうのではないか。

そういう状態こそが、本当の「社畜」なのだと思う。決して、ネット上でよく言われる、「サラリーマンとして生きること」それ自体が「社畜」なのではない。(ちなみに、わたしは「サラリーマンとして生きること」は生存戦略上、極めて有効だと考えている。なぜなら、「複数の人間が集まって、会社という組織集団をつくり、その中で分業して、お金を稼ぎ、毎月決まった日にお給料がもらえる」という生き方は、「誰からも束縛されず、ひとりで仕事ができ、成功すればその手柄を自分ひとりの手中におさめることができるも、失敗したときのリスクも、当然ながらすべて自分が引き受けなければならなくなる」という生き方より、効率的だし安全性が高いから。)

そんなわけで、「ビジネスマンたるもの、読書は必須」と盛んに言われるのは、本当のところ、「ビジネスマンは教養がなくてはならないから」といった高尚な理由からでも、ましてや「読書を習慣にしていれば、年収が上がりやすくなるから」といった理由からでもない

そうではなく、読書をすることで「なかば強制的に」頭に刺激を与える、言い換えれば「頭を使わ」せるためなのではないか。で、なぜ「頭を使わ」せる必要があるのかというと、結局のところ、「頭を使わ」せる仕事(=「頭を使わ」ないといけない仕事)こそが、直接的なかたちで会社に金銭的利益をもたらすからである。そしてそのためには、いつなんどきでも「頭を使」えるようにしておく必要がある。だからそのための、ふだんから最も手軽にできる「一手段」が「読書」なのだ。それゆえ、「ビジネスマンは読書をせよ」としきりに言われるのだろう。

無論、ただ本を読んでいればよい、ということではない。読んで考える、読みながら考える。それを含めてこそ、初めて「読書」と言えるのではないか。

ということで繰り返しになるが、ビジネスマンにとって読書が必要な本当の理由は、決して「教養のため」とか「読書をしていれば年収が上がるから」といった理由からではなく(というか「教養が身につく」「年収が上がる」といったものは、所詮、読書をしていて「偶然」自分にもたらされた「副産物」でしかない)、利益追求集団である会社にとって、直接的に会社に金銭をもたらしてくれるのは「頭を使う」仕事なのであり、そのためビジネスマンはいつでも「頭を使え」る状態にしておけるよう、「読書」という「一手段」でもって、頭の「出力」を上げておかないといけないから、なのである。

話が長くなったが、要は「ビジネスマンにとって読書は大事だ」という、いままで何度も言い古されてきた、なんら新鮮味のない主張が、この記事の結論である。
2013/04/20

ネット記事の読みすぎは、自分の思考や感性を麻痺させる

暇な時間に、ネットの記事をよく読むという人は少なくないと思う。

そういう人は、そもそもなぜ、ネットの記事をよく読むのだろうか? いろいろな理由が考えられるだろう。たとえば、「タダでいろいろな情報が入手できるから」とか「スマホをいつも持ち歩いていて、いつでもネットができるから」などなど。

実はわたしも、最近まではよくネットの記事を読んでいた。が、いまはもう、ほとんど読まなくなった。理由は、以前と違って、いまはあまり読む時間がないからだ。それに、スマホも持っていないから、仕事の合間の空き時間や休み時間で、ネットの記事を読むということが、そもそもできないのである。



結果的に、わたしは「ネット記事をよく読む人間」から「ネット記事をほとんど読まない人間」へと変わってしまったわけだが、そうした行動の変化にともない、自分自身も変化したようにこのごろ感じている。

何が変わったのかというと、「大量に情報を吸収“しなくなった”ことで、(ある程度ではあるが)「自分で」さまざまな情報を吟味したり、考えたりするようになった」ところである。少々、陳腐な言葉ではあるが、このように感じている。



世間では、さまざまな情報をたくさん得ることは「絶対善」であるかのように見なす傾向があるように思う。それはそれでたしかに正しい面はある。しかし、情報をたくさん得るということは、そのぶん、たくさん得た情報について「じっくり」と吟味したり、考えたりする時間が奪われる、ということでもあるのだ。なぜなら、多すぎる情報はいちいち丁寧に検討することができないからである。

「じっくり」と吟味したり、考えたりすることができなかった情報というのは、たとえ一時的に頭のなかに入れておいても、その大半はすぐに頭から消え去る運命にある(学生のとき、一夜漬けして叩き込んだ知識の多くが、一週間もしないうちに忘れ去られるのと同じように)。つまり、皮肉かつ逆説的ではあるが、多くの情報を入手しようとすることで、結果的に多くの情報が頭から消える(=入手できなくなる)ことになるのである。



この点を踏まえたうえで、ネット記事というものを観察すると、そこにはある種の「落とし穴」があるように感じる。どんな「落とし穴」かというと、それは「手軽にたくさんの情報を仕入れることができるような仕組みに“なってしまっている”」ということだ。

そういう仕組みに「なってしまっている」以上、多くの人が多くの情報をネット記事から仕入れようとするのは当然である。というよりも、それが現状だ。だから、みんなせっせと記事を読みあさったり、記事から記事へと「サーフィング」したりするわけだが、さっきも言った通り、それは実は「自分の中に蓄えようとした多くの情報を、自分で消し去っている」にすぎないのである。



こんなことを言うと、こんな反論が来るかもしれない。「いや、そんなことはない。たとえ頭のなかに情報を蓄積できなくとも、はてなブックマークのようなサービスを使えばそれは克服できる。忘れても必要なときに情報を閲覧することができる」と。

しかし、なにかの記事をブックマークするという行為、それによって必要なときに再びその情報をいつでも見られる状態にしておくという行為は、その情報を「じっくり」と吟味したり、考えたりする行為とは別物である。



後者は、たとえるなら「濾過」である。ここに、大事な成分も不純物もいっしょに混ざり合った液体(=情報)があるとしよう。その液体を、濾紙が貼られたコップ(=自分自身)に流しこむ。すると、濾紙には不純物だけが残ったが、コップのほうには大事な成分だけがきちんと入っている。

ここでいう「濾紙」は、いわば「ある情報についてじっくりと吟味したり、考えたりするための時間」である。そうした時間という「濾紙」を、自分という「コップ」に貼りつけておき、そこへ情報という「液体」を流し入れる。こうすることで、「大事な成分」が自分のなかに残るわけだ。

一方、ブックマークするという行為、それによって必要なときに再びその情報をいつでも見られる状態にしておく行為というのは、大事な成分も不純物もいっしょに混ざり合った「液体」をそのまま「コップ」へ流し込む(あるいは、混ざり合ったまま放置しておく)感覚に近い。

その情報の真贋は定かでなくとも、とりあえずおもしろそうであれば、ひたすらブックマークしておく。そして気になったときに見る(見返す)――これでは、「たくさんの情報」を自分の外へストックできても、本当に自分の中へストックできるか(できたか)は怪しい。わたし個人の体験や感覚から言わせてもらうと、ネットの記事は9割は「読み捨て」で終わっている



「現代は情報社会だ」と言われるようになって、だいぶ経つ。しかし、いくら情報社会になっても、すなわち、いくら人間の外部に情報がたくさん出回るようになっても、ひとりの人間が情報を「じっくり」と吟味し、それについて考える時間というのは、当たり前だが昔と変わっていない

昔はいまと違い、出回る情報が少なかったため、必然的に少数の情報を「じっくり」と考察「せざるをえな」かった。しかし、そうした状態こそが結果的に多くの情報(いな、それはもはや「情報」というよりも「知識」や「知恵」や「思考の鋳型」と言えるものに近い)を頭に残すことにつながったのである。

しかし、いまは逆である。たくさんの情報があふれているため、たくさんの情報にササッと「触れる」程度の感覚になってしまったように思う。

「触れる」である。情報という代物を、「ガシっと手でつかみ、いろいろな角度から観察する」といった、そういう感覚ではない。

だから、結果的にたくさんの情報に接しているにもかかわらず、個々の情報はどうであったか、その情報から何が得られ、最終的に自分がどう変わったのか、といったことの検討については非常に希薄だったりするのである。



ということで、ネット記事は、タダで簡単にたくさん読める仕組みになっているが「ゆえに」、読みすぎてしまえば、それは自分の感性を麻痺させていく危険性がある、ということを十分に注意したほうがいいのではないか、と思う今日このごろである。

それよりもむしろ、自分がネット記事を書く側に回ってしまえば、自分のなかにある既存の情報の再確認や整理につながると思うので、ネットでなにかをするのなら、「読む」ではなく「書く」ほうがいいかもしれない。


2013/04/13

ブログを書くことも、立派な「贈与」だ ― 『評価と贈与の経済学』

評価と贈与の経済学 (徳間ポケット)評価と贈与の経済学 (徳間ポケット)
(2013/02/23)
内田樹、岡田斗司夫 FREEex 他

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話題になっているようなので購入。

不遜ながら、対談形式の本なので中身は薄っぺらいかなあ~なんて思っていたが、いらぬ心配だった。それどころか、わたしは普段二度読みをしない人間なのだが、今回は珍しく二度読みしたくなり、いま再読中である。



で、どんな本なのかというと、タイトルにもあるように、“これからは「評価」と「贈与」が、その人の所有する貨幣や地位よりもモノを言う(=大切になる)時代となり、またそれが理想の経済を築いていくじゃないか?”ということを、内田樹と岡田斗司夫が対談を通して確認し合っていく、というものだ。

昔は(といっても、いまもそういう部分はあるが)、「年収がどれだけあるか?」「職業はなにか?」「どんな会社の、どんな地位にいるのか?」などといったような、貨幣や地位が、その人間の社会的な「出来不出来」や「良し悪し」を決めていた、という側面があった。



ところが、これからはそうじゃないんだよ、と二人は言う。これ以上、著しい経済発展など期待できない日本において、生きていく上で大事になるのは、金銭の有無でも地位の高低でもない。

そうではなく大事なのは、他者からのその人自身の「評価」(=人間としての良し悪し、好かれやすいか嫌われやすいか)なのだ。そして、もし他者から良い「評価」を得たいと思うのなら、他者に何かを「贈与」しなさい、と二人はこの対談を通して唱え続けている。



ここでいう「贈与」とは、べつに特別な意味を持った言葉ではない。要するに、「人に何かをしてあげる」ということなのだ。文字どおり、なにかを無償で提供することは「贈与」だし、他人に親切なことをするのも「贈与」だ。ポイントは、「自分から」「他者へ」「無償で」「働きかける」ということである。そして、こうした「贈与」こそが、その人の真の「評価」(=良い評価)へつながるのだと言う。



実は、二人の言う「贈与」の大切さというのが、わたしには身に染みいるようにわかるのだ。「その通り! ほんと、そうなんだよなあ~」などと、本書を読んでいて何度も心のなかで首肯していた。

大学4年生のとき、就職活動が大変だった最中、とある会社がわたしを拾ってくれた。自分は文学部出身だし、もしかしたら就職できないかなあ~なんてうっすらと思っていたので、まさか内定がもらえるなんて思ってもいなかったのだ。

本当に運が良かったんだなあと今になって思う。で、その会社が、社員同士の懇親を目的としたパーティーを開くというので、新入社員となるわたしを招待してくれた。

そのとき、すごく嬉しかったのが、年上の先輩たちがみんな、わたしを親切にしてくれたことだった。その日に会ったばかりの、見ず知らずの人間に、「ここまで丁寧に接してくれるのか!」と、非常に感動した。

「これから、ビンゴゲームやるんだけど、このビンゴカード君にあげるよ」「これから若手だけで二次会やるんだけど、君も来ない?」――その晩は、至れり尽くせりといった感じで、わたしは「いい会社から内定をもらった」と強く思った。

ここまでしてもらえれば、当然ながらわたしは「この会社のために頑張ろう」という気持ちになっていった。



で、本書を読んで気づかされたのは、こういう「◯◯のために頑張りたい」という気持ちに、自然になれるときというのは、◯◯から自分へ何かが「贈与」されたときなのだ、ということだった。

わたしは、その会社から「優しさ」を「贈与」されたことによって、その会社に対する「評価」が大きく変わった。嬉しくてしかたなかったので、「この会社で一生懸命働こう」と思えた。まさしく、内田と岡田の言う「評価」と「贈与」の相互関係がいかに強いものかを、このときすでにわたしは体験できたのだ。



内田は言う。
「オレはおまえのためにこれだけの贈与をしてやる。オレに感謝しろよな」って言って渡すような贈り物はあんまりうまく回らないような気がする。あっちからパスが来たから、次の人にパスする、そうするとまた次のパスが来る。そういうふうに流れているんですよ。パス出さないで持っていると、次のパスが来ない。来たらすぐにワンタッチでパスを出すようなプレイヤーのところに選択的にパスが集まる。そういうものなんですよ。(p.149)

わたしのさっきの例で話をさせてもらうと、会社はわたしに「優しさ」という「パス」を出してくれたのであり、そういう「パス」を受けたわたしは、その「パス」に対し「一生懸命働こう」という気持ちで会社に対し「パス」を返そうとしたのである。

もしこれが、会社がなにも「パス」しなければ、わたしも会社に「パス」しなかっただろう。内田の言う、「パスを出すようなプレイヤーのところに選択的にパスが集まる」というのは、要するに「情けは人のためならず」ということであり、親切にした分(=親切という「パス」を出した分)、今度は親切にされる(=「パス」を返される)可能性がグッと高まるんだよ、ということを意味しているのだ。



そして、こうした「パス」は、もっと言うと貨幣に対しても当てはまると、内田は言う。
貨幣の本質は運動だから、貨幣は運動に惹きつけられるんです。だから、どんどんパスを出していると、「あそこはパスがよく通るところだ」って貨幣のほうから進んでやってくるんです。(p.149-150)

言い換えれば、「金は天下の回りもの」ということだ。逆説的だが、結局お金というのも使うことでしか増えないのである。それもほとんどの場合、人のために使う、ということによって。これも、理屈はさっきと一緒だ。



不思議だなあ、と思う。普通、「パス」なんかせずに、ひたすら何かを溜め込んでいさえすれば、価値のあるものは自分の手元に増えていくように考えるが、そうではないのだ。

ためこむのではなく、むしろ外へ「出す」。それも、自分のためにではなく、他人のために、である。他人のために、なにかを「出す」ことによって、そのなにかはめぐりめぐって自分のところへ返ってくるのだ。



ちなみに、ブログでものを書く、という行為も内田は「贈与」だと本書の中で言っている。というのも、ブログは普通の日記と違って他者指向の文章であり、それはその文章を読みたいと思っている人(=自分から見ての他人)への「価値」の「贈与」となるからだろう。

ということは、ブログは何らかの情報(=「価値」)を提供する(=「贈与」する)メディアだから、先の論理で考えれば、また別の何らかの情報(しかも、価値ある情報)が自分に返ってくる、ということになるではないか。

で、これは本当なのかというと、本当だと思う。少なくとも、いまブログをやっているわたしは、「そう言われてみれば、確かにそうかも」と思いあたるフシがある。



たとえば、

「ブログを書く(=他者へ「贈与」する)」



「思いの外、読者から好反響があった」



「もっともっと、おもしろいブログを書こうと思うようになる」



「そのためには、色々な情報や知識や知恵が必要だ」



「さらに色々な本やネット記事を読み漁る(=こうした行動をとるようになったのは、「読者からの好反響」という他者からの「贈与」があったため)」


といった、一連の流れがそうだと思う。


一見すると、ブログではこちらが書くだけだから、読者からの「贈与」なんて考えられないだろうが、そうではなく、読者がわたしを「色々な本を読みたい」「知識を身につけたい」という気持ちにさせてくれた、ということが、もうすでに、立派な他者(=読者)からの「贈与」となっているのだと思う。(無論、これ以外の形の「贈与」もあるだろう)



というわけで、他者への「贈与」って、想像以上に自分への恩恵として返ってくる、と考えてよい。

こういうと、「贈与への見返りを求めようとする下心がるから、それは良くない」とか「ちょっとでも見返りを期待している時点で、偽善じゃん」などと思われそうだが、重要なのは、「贈与」する動機ではなく、「贈与」するという行為そのものにある。そして、内田と岡田は「理屈は後回しでいいから、とにかく『贈与』とやらをやってみてはどうだろう?」という提案をしているだけなのだ。

「やらない善より、やる偽善」とはよく言ったもので、「まあ何でもいいから、人のために行動してみるということは、後々になって思わぬ効用が返ってくるよ」ということなのだろう。


2013/03/16

「それは価値観の押しつけだ」という押しつけ

最近(でもないかもしれないが)、ネット上であるテーマや問題について意見を言うと(たとえば、ブログのコメント欄で)、「それは価値観の押しつけだ」といった反論が返ってくることがある。

こうした反論にまた反論するということに対して、以前からわたしはなんとなく「やりづらさ」を感じていた。しかし、「なぜ反論しにくいのか?」というのが、自分でもいまいちよくわかなかった。それで先日、ようやくわかった(?)ので、今日はそのことを書こうと思う。


●「それは価値観の押しつけだ」と言われた途端、感じる「後ろめたさ」


ネット上でなにかについて意見――「◯◯はするべき」とか「◯◯はやめるべき」とか――を言う。すると、それを見た人から「それは価値観の押しつけだ」という意見が返ってきたりする。

そういう意見が来るときというのは、概して当初述べた意見が、(多かれ少なかれ)「強気」な意見だったり、ネガティブなニュアンスを含んだ意見だったり、あるいは、「一般ウケしない(しそうにない)」意見だったり、ということが多い。

だからだと思うのだが、それに異を唱えようとする一部の人にとっては、そういった意見を、意見人からの「価値観の押しつけ」と捉えるのだろう。

すると、「押しつけだ」と言われた意見人は、どことなく「後ろめたさ」のようなものを感じてしまうのではないかと思う。

無論、そんなことなど微塵も感じないという人もいるだろうが、わたしも含めて、「ああ、なにかまずいことを言ってしまったかなぁ」という気持ちが、程度に差はあれ、生まれてしまう人もいるのではないだろうか(なので、これからする話は、どちらかというと、そのように感じる人向けになる)。

しかし、なぜ、後ろめたさや気が引けるような思いになるのだろう? わたしとしては、意見を述べた際、ほとんど(あるいは、まったく)と言っていいほど、「自分の意見でもって、他人を従わせよう」などという気持ちはこれっぽっちもなかったのに、ということがほとんどである。

なぜなら、ネット上で「不特定多数の人々」に対して意見を述べたのであり、誰か「特定の個人」に対して述べたわけではないからである。つまり、単なる「意見表明」としか、わたしは考えていなかったのだ。

でも、相手が「押しつけ」と感じるのは、やはり自分の意見が良くなかった、間違っていたからではないか、だから相手はそれを「押しつけ」という言葉で表現したのではないか?――ということを後になってグルグルと頭のなかで考えてしまう。


●「それは価値観の押しつけだ」論の構造


しかしどうも、この「押しつけ」という言葉は、ネット上では「したたか」な言葉になりやすい傾向があるように思う。

というのも、意見人に対して「それは価値観の押しつけだ」と言った瞬間、反論者は「善悪の二項対立」という形に持っていけるからだ。つまり、「価値観を押しつけた悪い人(=意見人)」VS「価値観を押しつけられた悪くない人(≒善人)」という形に、である。

しかし、当の意見人には、そもそも「押しつける」つもりなどなかった(あるいは、ない場合がほとんど)のだ。なので、意見人には、「善か悪か?」という概念など初めから存在しないのである。

しかし、「押しつけだ」と言われた瞬間、意見人のほうにも、さっきの「善悪の二項対立」という構図が心のなかに生じる。だから、彼(女)は「ああ、なにかまずいことを言ってしまったかなぁ」という罪悪感に陥るのだと思う。

すると、なんとなくこれ以上、意見人は意見を言いづらい感じになる。意見人の「意見内容」が吟味・批評されるべきところを、それが「強気」な意見だったり、ネガティブなニュアンスを含んだ意見だったり、あるいは、「一般ウケしない(しそうにない)」意見だったりというせいで、意見内容そのものよりも、むしろ「そういったたぐいの意見を述べた」という事実ばかりが批判対象にされるからである。


●ネット上で、価値観を「押しつけ」ることはできない


しかし、である。リアルの世界で、特定の個人に対して「べき論」を述べ、それを「価値観の押しつけだ」と反論されるならまだしも、意見を述べた場所はネット上なのである。

つまり、不特定多数の人々に対して述べたのだ(もちろん、ネット上でも特定の個人に対して述べる場合もあるが、それはリアルの世界の場合と同じになるので、ここでは考慮しない)。

ということは、そもそも「押しつけ」ようがないのである。なぜなら「押しつけ」られる「明確な対象」としての個人が存在しないからだ。なので、ネット上でなにか意見を言うことに対し、「それは価値観の押しつけだ」と反論するのは、筋違いなのだと思う。

この「それは価値観の押しつけだ」という反論の仕方は、ブログのコメント欄などでよく観察される。たとえそれが、「つぶやき」のような些細な主張であっても、である。

こういう反論をしてくる人というのは、おそらく「価値観というのは人それぞれだ」「誰にも他人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」といった思いがあるのだろう。現に、そういうコメントをしてくる人もしばしば見受けられる。確かに、それはそのとおりだと思う。

しかし、「価値観というのは人それぞれだ」とか「誰にも人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」といった考えもまた、ひとつの価値観にすぎない。そのことを、この手の意見を強調してくる人たちはあまり認識していないように感じる。

にもかかわらず、そうした価値観を意見人に対して「強く」言い立てる(見方を変えれば、これも「押しつけ」である)というのは、さっきの「価値観というのは人それぞれだ」「誰にも他人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」→「だから価値観の押しつけは良くない」とする論理と矛盾しているのではないか?


●己の価値観を自由に言えるのがネットのメリット


もしかしたら、「押しつけ」批判論者は、「強気」な意見やネガティブな意見、「一般ウケしない(しそうにない)」意見を見たときに感じた個人的な不快感や不満を、「それは価値観の押しつけだ」というセリフに変えることで、ある種の「自己防衛」をしようとしているのかもしれない。

しかし、今まで述べてきた通り、こうした反論は、ネット上という不特定多数の人間が自由にページからページを行き来する空間においては、無意味だと思う。

そして、意見人もたとえ「押しつけだ」と言われても、自分の意見を再考する必要は特段ない。なぜならさっきも言ったように、当人は「押しつけ」るつもりなんてないだろうし、そもそも「押しつけ」ようがないからである。

だから、ブログでは堂々と「自分語り」をしたり、己の価値観や信条をズバズバと主張すればいいのだ。そもそもネットとは、リアルではなかなかできないようなことを、させてくれる「場」なのだから。


――とはいってもまあ、これもひとつの「価値観」ではありますが。。。


2013/03/06

『イエスマン』 ― 「イエス」と言ってはいけない

イエスマン “YES”は人生のパスワード 特別版 [DVD]イエスマン “YES”は人生のパスワード 特別版 [DVD]
(2010/04/21)
ジム・キャリー、ゾーイ・デシャネル 他

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内容紹介(Amazonより引用)

もしも、全てに“YES”と答えたら?
ジム・キャリー最新作
実話に基づく愛と笑いのポジティブ・ストーリー

仕事にもプライベートにも「ノー」「嫌だ」「パス」と答える極めて後ろ向きの男、カール・アレン(ジム・キャリー)。 親友の婚約パーティーまですっぽかし、「生き方を変えない限り、お前はひとりぼっちになる」と脅されたカールは、勇気を振り絞り、とあるセミナーに参加。“意味のある人生を送るための、唯一のルール”は、全てのことに、それがどんな事であっても「イエス」と言うだけ。何事も否定せず「イエス」を連発、偶然知り合ったアリソン(ゾーイ・デシャネル)は、彼の積極的でユーモアのある人柄に惚れ込む。人が変わったように運気をどんどん上げていくカール。 だが全てが好転し始めたとき、思わぬどんでん返しが待っていた・・・?

全てに“YES”と言ったらどうなるか、を実際に試してみたBBCラジオディレクターの体験実話が原作の『イエスマン “YES”は人生のパスワード』。

こんな時代だからこそ・・・笑って、ぐっと来て、とことん前向きに。

コメディー映画はあまり見ないタチなのだが、ゲオで本作が何本も置いてあったので、気になって借りてみた。

おもしろかった。思わず、なんども笑ってしまった。あらためて、ジム・キャリー(主人公)は、こういったコメディーものにはメッポウ強いな、ということを感じさせられた。


で、どんなストーリーかというと、上にも引用したように、とある冴えない銀行マンが、有名な自己啓発家に出会い、自分の人生を変えていく、というもの。変えていくやり方というのが、ただひたすら、あらゆることに対して肯定する(“Yes”と言っていく)、という簡単なものだ。


ところで、この映画のタイトルは「イエスマン」(原題も“Yes Man”)だが、周知のとおり、この言葉は、

人の言うことに何でも「はい、はい」と言って、無批判に従う人。「―ばかり登用するワンマン社長」(『大辞泉』)

という、あの「イエスマン」を思い起こさせる。で、これは和製英語ではなく、

a person who always agrees with people in authority in order to gain their approval (Oxford ADVANCED LEARNER’S Dictionary 7th edition)

と、本家本元の英語にも、この“yes-man”という言葉(概念)はあるのだ。


それで、わたしは映画を見終わったあとに、ふと気づいたのだが、この映画に隠された「本当」のメッセージとは、「イエスと言う(=現状を肯定する)ことで、人は人生を幸せに送れる」ということではなく、むしろ「“イエスマン”をやめることで、人は人生を幸せに送れる」ということだったのではないだろうか?

つまり、タイトルの「イエスマン」は、本当は「皮肉」であり「逆説」なのではないか? というのがわたしの考えである。


こんなふうに考えられる根拠というのが、映画の最後のほうに出てくる、ワン・シーンだ。

主人公はそれまで、あらゆるコトや人に対し、「イエス」と言ってきたのだが、それが裏目に出てしまう「事件」(=主人公が恋人と喧嘩してしまう)に遭遇する。主人公は「イエス」と言い続ける人生において、はじめて「挫折」を味わったのだ。

そんなとき、彼は、例の自己啓発家にまた出会う。自己啓発家は、「たしかに、わたしは“イエス”を言いなさいとは言ったが、それはあくまでも“自分が心の底から納得したものや、肯定したいものに対して”という条件付きだ。だから君は、勘違いしていたのだ」と、主人公の誤解を指摘する。


このことに気付かされた彼は考えを改め、ふたたび元気を取り戻し、みごとに恋人との仲直りに成功するのである。


ここで、物語の筋をもう少し簡潔に書き直すと、


ネガティブ思考だった主人公は、仕事も恋愛も失敗続き。

自己啓発家に出会い、あらゆることに「イエス」と言い続けることを決意。

これにより、一時のあいだは、順調な人生を歩む。

ところが、「イエスマン」になったことで、それまでうまくいっていた彼女と、ひょんなことから喧嘩してしまう。

「“イエス”と言うときは、本当に、心の底から納得したものや、信用できるものに対して、するべきだ」と考えを改める。

みごとに、恋人との仲を復活させる。


つまるところ、恋人との喧嘩をきっかけに、主人公は、それまでの「イエスマン」としての自分を「やめた」のだ(だからといって、もとのネガティブ思考に戻った、というわけではないが)。それによって、彼がもっとも望んでいた本当の恋を、成就させることができたのである。

そんなわけで、この映画は、単なる「ポジティブ・シンキングを始めた男のサクセスストーリー」などではなく、実は「ポジティブ・シンキングを“やめた”男のサクセスストーリー」だった、とも読めるのだ。

要するに、前者と後者、どちらの「読み」を取るかで、この映画は「意味」がまったく変わってしまうのである。なので、わたしは見終わって少しした後、「あっ、なるほど。これはうまいな~」と、改めて本作の「意味」に気付かされ、その「秀逸さ」に舌を巻いた次第だ。


ところで、この映画の主人公にかぎらず、現代日本においても、こうした「ポジティブ・シンキング神話」は根強いように感じる。なにかこう、「常に前向きに生きることこそ絶対善」であるかのような「信仰」が強いのではないか。

わたしは、どちらかと言うと、ポジティブ・シンキングをする人間ではない。というか、できないといったほうが正確だ。先のことには、なにかと不安になって、後向きに考えてしまうことが少なくない。そんなものだから、以前、知人から「お前はどんだけネガティブなんだよっ!」とツッコまれたことがある。

でも、わたしはそのほうがストレスが溜まらないので、むしろ「気楽」だ。「ポジティブに考えよう」→「ポジティブに考えなければ」という、無自覚的な「強制」がないからである。


それに、「ポジティブ・シンキング」というのは、見方によっては「現実逃避」のようにも思える

ポジティブ・シンキングは、本当は納得できないし、肯定もできないような現実を、なかば無理やりに「良く」捉えようとする考え方だ。だから、「『良く』捉えることで、本当は『良くはない』現実から、目を背ける」という思惑が、少なからず見え隠れしているように感じる。

イヤなものは、やっぱりイヤだ、ツライものは、やっぱりツライ、というのが生物感情の「原則」ではないだろうか? イヤなものは、はっきりイヤだと、ツライものははっきりツライと認めることのほうが、イヤなもの、ツライものをポジティブに捉えようとする態度より、よほど「負担」がないように思う。(このことについては、心理学的にも事実なようである。詳しくはこちら


このことは、この映画についても言える。

「イエスマン」という偽りの仮面を取り去ることで、主人公は、己が「本当に」望んでいた恋愛を実らせることができたのだ。おそらく、あのままずっと「イエスマン」を続けていたら、他人に「イエス」を言うことはできても、自分、そして自分が本当に愛する人に対しては、真の「イエス」を言うことはできなかったのではないか。だから、この映画の副題「“YES”は人生のパスワード」は、正確には、「本当の“YES”は人生のパスワード」なのだと思う。

ということで、この映画、けっこう「意味深」な、自己啓発映画だった。


2013/03/05

『最高の人生の見つけ方』 ― 最後/最期は、しんみりと終える方が、ぼくは好きです。

最高の人生の見つけ方 [DVD]最高の人生の見つけ方 [DVD]
(2010/04/21)
ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン 他

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内容(「Oricon」データベースより)

勤勉実直な自動車整備工と大金持ちの豪腕実業家。病院で出逢い人生の期限を言い渡された二人の男性が、棺おけに入る前にしておきたいこととして“バケット・リスト”に書き出したことを叶えるため旅行に出かける様を描いたハートフル・ストーリー。ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマンほか出演。


それなりに有名な映画だったらしいので、鑑賞。

Amazonのレビューを見ると、かなり絶賛されていたが、わたしには正直なところ、あまり印象に残らなかった。が、アメリカ人の「死」に対する考え方には「ああ、なるほどなあ」と感じた

なにが「なるほど」なのかというと、この映画では、アメリカ人が「死」を、目には見えない「敵」と見なしているところだ。

そして、アメリカ人の大好きな「ファイティング・スピリット」(アメリカ映画はジャンルを問わず、「悪と徹底抗戦する」映画というのが非常に多い)でもって、主人公2人の老人(ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマン)が、もうじき訪れる「死」に「抗し」ようするのである。



どんなふうに「抗する」のか? それが、「棺おけリスト」だ。これは、「自分が死ぬまでにやっておきたいこと」のリストである。2人はこれを作って、そこに書かれた「やりたいこと」を一個一個、一緒にこなしていく。

つまるところ2人は、「生」を思いっきり、まっとうする(=遊びつくす)ことで、きたるべき「死」に「反抗する」のだ。これが、わたしにはいかにもアメリカ人らしくて、「ああ、なるほどなあ」と思えたのである。



日本人だったら、たぶんこうはしないと思う。日本人なら、最初はただただ死への恐怖に耐えるも、ある日突然、ふと、

「これはもう宿命なのだ。どうしようもないことなのだ。死とはそういうものなのだ」

などと悟り、死を「敵」とは考えず、「天からの遣い」かなにかのように考えるのではないか(事実、「お迎え」という言葉がまさにそれである)。

つまり、「死」に対して「徹底抗戦」しようなどとは思わないし、死ぬまでのあいだの「To doリスト」なんてものは作らないだろうし、ましてやそれを一個一個こなして、遊びつくそうなどとも、考えつかないだろう。



要は、「あがく」ということを悪く捉える、ということだ。「悪あがき」という熟語があるように(「あがく」も、どちらかと言えばネガティブな言葉だが)。

それから、「往生際が悪い」なんて言い方もあるが、これも「日本的」ではないか。「往生」は死ぬことだが、要するに、いつまでも死なないでいる(=過ぎ去らないでいる)ことは見苦しいことだ、といった価値観が、この言葉には見え隠れしている。

昔から日本人は、死に対して、そういう見方をしてきたような気がする。

なんというか、「かげり」のあるものを愛でたり、さっと過ぎ去っていくようなもの、またはそういった様子を良しとする――そんな感性が根強いように思う。しばしば、「日本人のこころ」として引用される『徒然草』も、まさにそういった感性ゆえの産物である。



それに、映画のなかで、2人がやっていた遊びというのも、これまたアメリカ人らしい奢侈贅沢なものばかりである。

まるで、「生きるとは、贅沢しつくすこと」とでも言わんばかりに。そして、そういった贅沢を奪い去っていくものこそが「死」なのだ、だからわれわれは遊びつくすことで、死に対し「徹底抗戦」するのだ、とでも言わんばかりに。

そんなメッセージが、この映画から垣間見える。



もちろん、こんな「冷めた」見方をしなくとも、たとえば「ある日突然出会った男2人の友情物語」だとか「家族がいるということの大切さを伝えてくれる物語」とか、そういった見方もできよう。現に、わたしもそう感じられるシーンがいくつかあった。

ただ、それらは映画の「表層」に流れるメッセージであって、わたしには、それらが「深層」にあるもののようには思えなかった。「深層」――すなわち、アメリカ人が「生」と「死」とを、それぞれどのように捉えているのか、ということである。



アメリカ人にとって、生きることも死ぬことも、どちらも「必死」なことのようである。生きる以上は、徹底的に生きる。というか、遊ぶ/遊びつくす。

一方、死ぬときは、徹底的に死に「反抗」する。無論、死は誰にでもやってくるものだから、結局は受け入れざるをえないわけだが、それでも生きているうちは、なにがなんでも生き続けようとする。こうした精神が、さっきわたしが言った「ファイティングスピリット」である。



一方、日本人には、生へのこうした「執着心」や、死に対し、なにがなんでも抗しようという気持ちは、ない(あるいは、希薄な)ように感じられる。サッと生きて、サッと死んでいくことに美を見出しているように思う。

生や死に「ガツガツしない」「ガッつかない」と言い換えればいいだろうか。要するに、さっきの意味での「ファイティングスピリット」が乏しいのである。



だからだろうか? わたしが、この映画にピンと来なかったのは。わたしは、こういった、生のみに「執着」しないことに美を見出す「日本的な価値観」のほうがなんとなく惹かれるのである。

この映画がAmazonでは高評価だった理由というのは、もしかしたら多くの人が、この映画を、さっきの「ある日突然出会った男2人の友情物語」とか「家族がいるということの大切さを伝えてくれる物語」とかいったふうに捉えたから、かもしれない。

つまり、わたしのように、この2人の生き方を、生への「執着」=死への「抵抗」とは捉えずに、「友情で最期を生ききる」とか「家族のありがたみを感じながら生きる」とか、そのように捉える人が多かったのかもしれない。



もし、わたしが大金持ちでも、あと余命半年などと宣告されたら、おそらく2人のような「余生」を過ごしはしないと思う。それなりに体力があったとしても、である。

たぶん、毎日毎日、不安にはなるのだろうけれど、同時に、きっと、

「ああ、もうこれで最期なのか……」

という、どこかポツンとしたさみしさや、しんみりした感じを、なんとなく味わい、でもそんな気持ちになるのも一方では悪くないなぁ、などと思いつつ……といった、非常に複雑な心境で毎日を過ごすのではないかと思う。



たぶん、2人のように奢侈贅沢を極めようとすればするほど、それに増して悲しさと寂しさが募っていくような気がするのだ。

嫌なことがあって、ツライことがあって、それを忘れよう忘れようと思い、遊びに夢中になろうとすればするほど、逆に、嫌なこと、ツライことが吹き出てきて、どうしようもなくなるといったような、そんな感覚と似ている。そんな感覚が、死ぬときにも、自分には起きるのではないかと思うのだ。

そういう感覚が心のどこかにあるせいでもあるのか、だからわたしはこの2人の「余生」の過ごし方に共感できなかったのかもしれない。

もうじき死ぬとわかっているのに、なにかこう、

「オレは遊び尽くしてやるぞ!」
「死なんか怖くないぞ!」

みたいに振る舞ってしまっているように見えて、それが強がっているように見えて(つまり「悪あがき」「往生際の悪さ」に見えて)、逆に彼らのことが切なく思えてしまうのだ。



無論、そういったものも嫌いではない。元気があって、それはそれでいいと思う。しかし、たぶん自分は、そうはなれないと思う。憧れのような気持ちもあるにはあるが、だからといって、彼らのような「不屈の精神」を真似ようとは思っても、自分だったら所詮は猿真似で終わってしまうのではないか。

そんなわけで、わたしは、ものごとの最後/最後というは、しんみりした気持ちで終える、というのが好きだったりする。なにかそういった感覚に、「美しさ」があるような気がして


2013/03/02

『14歳からの社会学』 ― 「コイツすげえ!」な人に、「感染」せよ

14歳からの社会学: これからの社会を生きる君に (ちくま文庫)14歳からの社会学: これからの社会を生きる君に (ちくま文庫)
(2013/01/09)
宮台 真司

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以前、母校の大学で、宮台真司(著者/社会学者)の特別講義(?)に参加したことがある。事前に「誰でも参加可」と知らされていたので、興味本位で彼の講義に出てみた。

いや~、とにかくスゴかった。「なんでも」知っている、という言葉がピッタリな人だった。

とにかくまあ、彼は色々な本を読んでおり、講義中は「◯◯(欧米の学者)によれば――」「××という本には、――とあったがウンヌン」「その学説は、すでに□□(欧米の学者)によって証明されていて――」という感じで、話がアッチコッチに進んでいった(で、わたしには、結局彼がなにをいいたかったのか、よくわからなかったのだけども)。

ただ、「宮台自身のことば(意見)」というものは、あまり感じられなかった。そこがかなり残念だったという印象がある。「学者の◯◯が~っていうのはいいからさ、宮台先生、『あなた』はどう考えるのかを教えてくれよっ!」と、心の中でツッコミながら、わたしは彼の話を聞いていた。

で、本書はうれしい(?)ことに、きちんと「宮台真司のことば」が記されている。しかも、とりあえず子供向けという設定で書かれた本なので、わかりやすい。


本書は子どもに「社会学とはなにか?」を説くという点に主眼がおかれているわけだが、個人的には「社会学のカタチをとった宮台真司の人生論(自己啓発本?)」だと思っている。

で、「人生論」というと、いかにもゾクっぽくてオジサンたちの愛読書、といったイメージがあるのだが、もちろんそうではない。社会学という学問を基盤に、彼は論を組み立てているので、無根拠に読者(とくに若者に対して)を肯定して、甘い幻想を抱かせるような、そのへんのアヤシイ人生論とは違う

この本には一貫したテーマというのがなく、章ごとにそれぞれのテーマが設けられている。だから、「この本は何が言いたいのか?」というのは、一言では言えない。なので、例によって、わたし個人が気になった点を書くことにしたい。


いいなあと思ったのは、5章「〈本物〉と〈ニセ物〉」だ。で、宮台は、そのなかで「感染動機」の大切さを説いている。

ぼくたちがものを学ぼうとするときに、どういう理由があるだろう。(中略)それが「自分もこういうスゴイ人になってみたい」と思う「感染動機」だ。直感で「スゴイ」と思う人がいて、その人のそばに行くと「感染」してしまい、身ぶりや手ぶりやしゃべり方までまねしてしまう――そうやって学んだことが一番身になるとぼくは思う。(p.136)

ちなみに、宮台を「感染」させた人というのは、廣松渉(哲学者)、小室直樹(社会学者)、チョムスキー(言語学者・哲学者)、カント(哲学者)などだと言っている。

廣松渉は、わたしもちょっとだけだが、著書をかじったことがある。『もの・こと・ことば』(絶版)という本で、これは日本語を哲学した本なのだが、正直、中身はあまり覚えていない。

それから廣松は、言い方にかなりのクセがあり(漢語や難語を多用している)、そこが好きだという人もいれば、嫌いだという人もいるようで、わたしはあまり気にならなかったが、まあちょっと変わった人だな、くらいには思っていた。

チョムスキーは、言わずと知れたアメリカの学者で、最近は政治へ積極的に発言をしていて有名だが、もともとは生成文法理論を提唱した言語学者である。

いま、ちょうどわたしも『新・自然科学としての言語学』(福井直樹/ちくま学芸文庫)という、生成文法理論を概説した本を読んでいるところだが、この本に書かれてあることのベースを築いたのが、チョムスキーその人である。


それで、宮台はこういった人たちに影響されたのだという(たしかに、宮台の書いたものを見ていると、そのことがなんとなくだが伝わってくる)。

彼らの知識ひとつひとつは、問題じゃない。書かれた書物をふくめた「たたずまい」を見ていると、突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間が訪れる。それが訪れてからは、「その人だったら世界をどう見るのか」をひたすらシミュレーションするだけだ。(中略)感染動機だけが知識を本当に血肉化できる。(p.141)

う~ん、この気持はよくわかる。とくに、「突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間が訪れる」という部分は非常に納得できる

わたしも「この人、すげえな......」「コイツはいったい何者なんだ?」といった感覚を持った人がいる。それが、丸山眞男(政治学者)だった。そして「丸山眞男の視点」というのは、いまのわたしにとって、ひとつの「思考軸」となっている。

わたしが丸山に「感染」したきっかけは、『日本の思想』(岩波新書)を読んでだった。この本はたしかに難解で、色々と批判の的ともなったのだが、それでもここに書かれてあることは、いまでも色あせていない。

彼に「感染」してからというもの、わたしのなかで「丸山眞男ブーム」が起きた。『日本の思想』の次に、『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)、『忠誠と反逆』(ちくま学芸文庫)、『戦中と戦後の間』(みすず書房)を買っていった。

「積ん読」もあって、全部は読んでいないが、とりわけ『忠誠と反逆』に収められている「歴史意識の古層」という論考を読んでいたときは、「この人はいったい何者なんだろう?」という思いでいっぱいになった。同時に、「自分にはよくわからない部分が多いけど、でもなんかスゴイな......」という感覚にもなった。

丸山からは、自分の知の卑小さというものを、ガツンと思い知らされた。「オレは一生、この人には知的な面で勝てない……」と感じ、暗くミジメな気持ちにもなった。

そんなわけで、よくも悪くも(?)、わたしは丸山眞男という、ひとりの男に魅せられた。だから宮台のいう、「突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間」というのがよくわかるし、共感できる。


ところが、彼によると、最近はこの「感染」する機会というのが、(とくに若者の間で)失われているそうだ。

大学では授業開始から30分たって教員がこなかったら自然休講ということになっている。それでもぼくの学生時代、30分以上おくれてくる先生がザラにいた。廣松渉もそうだし、小室直樹もアルコールのにおいがぷんぷんすることがあった。だからどうだってんだ。
 実際、授業はどんな先生よりもおもしろくて深かった。そこで学んだことがいまのぼくの血となり肉となっている。いまはそんな「名物教員」がいなくなった。(中略)「形だけちゃんとしていればいい」というセンスが広がる中、「名物教員」と呼ばれる「中身がつまった人間」がどんどん減ってきている。
(p.149-150)

いやいや、「形」も大事でしょう? いくらカッコイイこと言ったって、「形」が悪ければ、そりゃ説得力もなくなるしなぁ。正直、この手の「中身さえよければすべて良し」的な考えは、いただけない。わたしは「形」も含めての「中身」だと思っているので。

それはさておき、大学の先生にかぎらず(中学や高校の先生とか)、「中身がつまった名物教員」が減ってきているというのは、そのとおりかもしれない。書物のなかで「この人すげえ!」と感動するのも悪くないが、やはりリアルタイムにはリアルタイムなりの「感動」が詰まっている。だから、「授業がおもしろい名物教員」が減ってきているというのは、かなり危ない傾向だ。

しかしながら、リアルタイムで「この人すげえ!」と心底、知的に感服した人というのは、わたしもほとんど会ったことがない。

大学生のときも、手元のレジュメとニラメッコしながらずっとボソボソしゃべり続ける教師や、教科書に書いてあることをなぜかそのまま板書する教師、概説書を読めばすぐにわかるようなことを延々とつぶやく教師など、ゴマンといた。

今後もこういう教師は一定数、居続けるのだろうけど、これは、かなり危惧すべきことなんじゃなかろうか?


で、宮台はこうした知的現場の現況を嘆きつつ、こう述べる。

「感染動機」が大切なら、教える側が「スゴイ」人間じゃないといけない。少なくとも子どもから「そう見える」ことが大事だ。そんな人はどこにいるか。公教育じゃなくて予備校の現場に多くいる。(p.151)

ここも納得。とりわけ「予備校の現場に多くいる」という意見は的を射ている。実際、予備校の先生というのは、大学教師よりもずっと「スゴイ」人が多いと思う。教え方はもちろん、冴えたトークに、おもしろい人生経験を持っている人がたくさんいる。

いま、巷で話題の「いつやるか? 今でしょ!」の先生も、東進予備校の先生だ。わたしも高校生のとき、代ゼミの授業に参加していたが、学校の先生の授業よりもずっとおもしろかった(いまでも、当時教わっていた先生の授業を受けたいと思えるくらいだ)。

そしてわたし個人のことを振り返ってみても感じることは、「子ども」(若者も含む)というのは、案外すぐに「コイツは本物かニセ物か?」を見分けられるものだということ。これは、とくにオトナに対して、という意味で。

だから、「子ども」から知的な面でバカにされるというのは、その「子ども」から「コイツは本物じゃない」という烙印を押されてしまったことと同義だ。

オトナになると、どうしても周りの人の様子で、理屈的にものごとを決めてしまうことが増えてくる。「誰々が◯◯は良いと言っていたから」「彼は××で有名だから」といったふうに。しかし、「子ども」は素直だ。わからない、ピンと来ない、つまらないと思ったら、すぐにそれを態度に表す。それはそれでたしかに幼い。

しかし、だからとて、それが必ずしも「真贋を見ぬくことができない」ことにはならないと思う。オトナは理性で真贋を見抜こうとするが、「子ども」は直感で見抜こうとする傾向がある。

直感は、時として無根拠であり、自分の知的レベルを棚に上げた「勝手な判断」である場合もあるが、また時として理性以上にモノを言うこともある。そしてそれは、「なんかよくわからないけどすごい!」と言いたくなるときの、この「なんかよくわからないけど」という形に集約されている。

いまは、小説にしても映画にしても「わかる」ものばかりが世の中に受け入れられる。「よくわからないけどスゴイ」という感じ方がすたれてしまっている。(p.136)

宮台は、「「感染動機」が大切なら、教える側が「スゴイ」人間じゃないといけない。少なくとも子どもから「そう見える」ことが大事だ」と言う。

しかし、「そう見える」とあるが、それは「子ども」の直感が、「子ども」に「そうさせている」ということでもある。いくら教える側が「そう見える」ように装っても、教わる側が「そう感じ」なかったら、そこに「コイツすげえ!」の感動は生まれないはずだからだ。


そんなわけで、「子ども」特有の直感ってのは、大事なのだろうし、オトナにとっては、その直感を維持していくこともまた大事なのだろう。そして、そういった直感こそが、自分を「感染」させてくれる動力となるのだろうなあ。



2013/02/26

『ひとはなぜ服を着るのか』 ― ファッションも、イケメンも、美人も、みんな「制服」だ

ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)
(2012/10/10)
鷲田 清一

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この本の背表紙には、「ファッションやモードを素材として、アイデンティティや自分らしさの問題を現象学的視線から分析する」という本書の説明が付されている。

ずっと前からわたしは、この「現象学」というのがどういう哲学なのか知りたいと思っていた。が、いつも、辞書辞典で調べてみても、わかったような、わからないような、そんな感じになる。

で、本書を読んでみて、とりあえず「現象学」というのが、どんなことをする学問なのか、なんとなくだが伝わった(気がする)。「ある特定の現象を丹念に観察することによって、その現象の“背後”にあるもの(なぜそのような現象が起きるのか、どのような経緯で起きるのか、など)を考察する学問」といったところだろうか?

とはいっても上の説明は、わたし一個人の、かなり大ざっぱで暫定的な定義だから、「現象学とは何か?」という本格的な問いについては、後日また、ゆっくりと調べることにしたい。

さて、本書の中身だが、ファッション(服装はもちろん、化粧や髪型、ピアスなどのアクセサリーといった、広い意味での「ファッション」)についての興味深い考察がいたるところに散りばめられている。

とはいっても、べつに難しい学術用語が出てくるわけではない。著者(鷲田清一)が純粋に、巷にあふれる「ファッション」という「現象」の奥底にあるものはいったい何なのか? ということを問うていっていくだけだ。「ファッションの冒険」と見立てることもできよう。

いつもどおり、本書の中身すべてを取り上げることはできないので、わたし個人が特に気になったところを論じてみたい。


●身体とは、ある種の「自然」である


なんの手入れもされていない山や空き地というのは、地面が「汚れ」ている。草がボウボウだったり、落ち葉であふれていたり、泥ばかりで歩こうにも歩けなかったり、そんな状態になっていることが多い。

人の体も、これと似ている。身体も放っておけば、アカが出る。臭いが出る。ムダな毛も生えてくる。つまり、放っておけば「汚れ」てくるのだ。そういう意味で、身体はある種の「自然」だ

そんな「自然」を、日々われわれは「耕し」ている。顔や体を洗う。歯を磨く。毛を切ったり、剃ったりする――こうした行為は、身体という「自然」を「耕す」ことに他ならない。

しかし、それだけではない。服を着ること、化粧をすることも、その「自然」に変化を与える(=耕す)ことになるのではないか?

そしてそのなかでも、特にオシャレをすること――髪を染める、ピアスやイアリングをつける、かっこいい(かわいい)服を着る――は、なおさら身体を「耕す」ことを意味するのではないか?

つまるところ、これは「ファッションに身を包む」ということだ。「ファッションに身を包む」というのは、身体を「加工」する、ということなのである。ではなぜわれわれは、こうも身体を「加工」するのだろうか?


●なぜわれわれは、オシャレをするのか?


その理由のひとつが「不満だから」であると、鷲田は言う。単純な理屈だが、ここがオモシロイとわたしは思った。

不満――そう、不満だから「自然」を耕すのだ。体は放っておけば汚くなる。これは人にとって不快因子であり、不満の原因になる。だから、手入れをする――至極、当たり前なことである。

しかし、不満になる理由は、まだもうひとつある。人間にとって、こちらの不満のほうが深刻なのであり、これはさきほどの、オシャレをする理由の根本でもある。


●「不満」の背後にあるもの


では、不満になるもうひとつの理由とはなにか?

それは、なんの「加工」もされていない、そのままの身体だと、「他とは違う、自分という個がはっきりしていないから」、すなわち、「“わたし”が他の誰でもない、唯一の“わたし”になっていないから」である。つまり、ちょっと難しく言えば、アイデンティティを確立できない(できた気がしない)ために、不満を持つのだ。

――なるほど。自分という「自然」を、いわば「文化」(=手入れをした状態)にすることで、その他大勢の「自然」から抜け出したい。抜け出すことで「自分」が確立できる、という理屈か。

J=L・べドゥアンが『仮面の民俗学』(斎藤正二訳、白水社、1963年)のなかで述べているように、着衣は化粧は「存在のもっている像を変形させることによって、存在そのものを修正しようとする」試みにほかなりません。じぶんの存在の物理的な形態を変えることでじぶんの実質を変容させたい、じぶんの限界を超え出たいという欲望で、わたしたちはいつも疼いているようです。(p.34)

わたしの観察するかぎり、べドゥアンの言う「じぶんの実質を変容させたい、じぶんの限界を超え出たいという欲望」というのは、とくに女の子(若い女性)たちに見受けられる。まあ、ネットを見ていると、男の子たちも昔と比べてその「欲望」は強まっているようだが。

ただ、「自分を変える」ことは、必ずしも「自分の身体をイジったり、なにかを体につけたりする」こととイコールにはならない、というのがわたしの考え。人と話し合ったり、読書したり、映画見たり、旅行に行ったりすることでも、「自分を変える」(=自分の中身を変える)ことはできるだろう。昔であれば、「教養主義」というのが、まさにそうすることを良しとしていたのだが(もっとも、もっぱら読書に限られていたようだが)。

しかし、なかなかそうならないのが、現代という時代なのだろう。現代は、中身を変えるのではなく、「外観」を変えることにこそ、高い価値が置かれるのだ。わたしが以前から、このブログでたびたび触れてきた「イケメン(美人)というイメージの氾濫」が、まさにそれを示している。


●ファッション、イケメン、美人という名の「制服」

こうやって、みんながファッションにこだわっていく。こだわることで、「その他大勢」とは違う「自分」を確立できる、と思うようになる。しかし、実はファッションという現象には「不文律」(目には見えないルール)が存在する

ひとりひとり違う格好をしているつもりでも、その現象を俯瞰してみれば、どれもこれも「なんとなく似通っている」ということに気がつく。つまり、部分ぶぶんは違っていようとも、ファッション現象全体として見れば、大した「違い」はないのだ。

ファッション雑誌を見てみれば、そのことがすぐにわかる。モデルの服装はそれぞれ違ってはいる。が、何人も観察していると「なんかどこかで見たことがある」ような格好をしている。

要するに、「なんかどこかで見たことがあるような格好をすること」こそが、実はファッションに潜む「不文律」なのだ。この「掟」を破った者、それがすなわち「奇抜」だとか「派手」とか「浮いた格好」などと言われるのである。

こう見ると、ファッションというのはある種の「制服」なのだ、と思えてくる。「個を出したい」「他とは違う自分になりたい」と思ってしていたはずのファッションが、実はファッション現象全体を見たとき、個を出さない、他とは違わない「制服」へと変貌しているのである。

これは、服装だけにかぎった話ではない。顔もそうだ。

このように、ひとびとを本質的に個性化し、多様化するはずのコスメティックという装置は、逆説的にもひとびとの存在を同質化し、平準化してしまうのです。近代社会では、顔もまたまるで制服のように標準化されてきたわけです。(p.65-66)

最近のテレビを見ていると、「アイドルの大安売り」とでもいうべきような状況が起きている。昔は、アイドルというと「なんだかんだ言っても、やっぱり“この人”!」というような、そんな「特別な地位にいる人」といった感じがしたが、いまはまったくしない。「ネコも杓子も」感がハンパじゃない。

そしてみんな(特に若い人たち)、「なんかどこかで見たような」顔をしている。いわゆる「イケメン」も「美人」も。

そして、インターネットが普及し、ファッション雑誌も昔とは比にならないくらい充実した情報を提供してくれるようになった結果、みんなが同じことをするようになり、芸能人ではない一般人(特に若い人たち)までもが、「イケメン」になり、「美人」になれるようになった。

しかし、それらは「なんかどこかで見たような」感が強いのも確かである。つまり、現代においては、顔もまた、ある種の「制服」と化している、と言えるのである。


●ファッションで個性は出せない

こう考えると、外見をかっこよくして「個性」を出す、という作戦は、残念ながら頓挫しそうだ。というのも、もうすでに、みんなが同じようなことをしているからだ。みんなと同じなのであれば、それは「個性」ではない。

べつにわたしは、だからファッションにこだわることは無意味だ、などとは少しも思っていない。むしろ、みんながファッションにこだわるようになれば、街を歩いていて、それを見ることにワクワクできるから、みんなそうしてくれたらなあ、と思っているくらいだ。現に、そうなっている自分がいる(美人ならなおさらワクワクだ)。

それに「見てくれ」は大事だ。他人に好印象を与えてくれる。相手からの、自分への待遇も良くなるという「特典」も期待できるだろう。そういう意味で、ボクはファッションが好きだ。しかし、である。たぶん、「個性を出す」ことは期待できない。ファッション現象という「波」に乗ることはできても、その波を超えることはできない。

もし、「個性を出したい」とか「自分を変えたい」といった欲が、強くて強くてしょうがない人がいれば、まずは、「ファッションでは個性を出せない」ということ、と、「ファッションにこだわることで自分が変わったような気がしても、それはむしろ“みんなと同じになっただけ”であって(つまり、ファッションという「制服」を着るようになっただけであって)、実際のところ、“自分”は何ひとつ変わっていない」ということを、知ったほうがいいのではないか?――ボクは本書を読んで、そして感想を書いていて、そう考えるようになった。


●「個性」は幻想なのか?

では、「個性」は幻想なのだろうか?いや、幻想ではないと思う。「個性」というのは、そのひとの、その振る舞い、考え方、生き方、ふだんの有り様などなど、そういったものすべてを含んだ概念である。つまり、「そのまま」でいることこそが、実はもうすでに「個性」を体現しているのだと思う。

少なくとも、ヘンに自分という「自然」をイジくって、結果的にみんなと同じ「制服」を着るよりも、そっちのほうがずっと「個性」と呼べるにふさわしい状態ではないだろうか?

「自分探し」についても、同じことが言える。自分探しの「自分」とは、要するに「個性」のことだ。つまり、自分探しとは、「個性探し」なのである。であるならば、話は早い。「そのまま」でいることが「個性」なのだ。「個性」は探さずとも「もうすでに、そこにある」のである。
2013/02/25

ブログをやっていてよかったなあ、と思うこと

わたしはこうやってブログを書いているのが好きだ。以前、ブログを書くことにはある種の「格好悪さ」がつきまとうのではないかと述べたが、しかしそうであってもやはり好きなものは好きだし、でなければブログなんて絶対に続かない。



それはさておき、ブログをやっていてよかったなあ、と思うことがある。それは、匿名で経歴や素性を明かさずにブログをやれば、純粋にブログでの発言内容のみが評価の対象となるところだ。言い換えれば、リアルの世界のように、発言内容とその発言者の身分とが「一緒くた」になって評価されることはない、ということである。この特性が、ボクはすごくいいなあと感じている。

こう言うと、「なにをいまさら?」「そんなの当たり前だ」などと思われそうだ。しかし、実は全然「当たり前」ではない。これは、多くの人にとって、かなり大きな恩恵になっているのではないか、とボクは思っている。



インターネット、そしてブログやツイッターなどがなかった時代は、社会(あるいは家族や知人、自分よりも年上の人たち)に向けてなにか発言したいことがあって、しかも発言できる機会があったとしても、発言しづらかった。というのも、「多くの人が発言者の素性や身分や経歴でもって、その人の発言内容を評価してしまう」という厳然たる事実が存在していたからだ。

たとえば現実の世界において、20代(または30代)の若者が政治のことや、社会のこと、仕事のことを論じようとすると、それがどんなに有用で的を射た意見であっても、その若者より年上の人たちは「まあ、君はまだ若いから......」とか「そういうことはもっと人生経験(社会経験)を積んでから言いなさい」などといって、まともに取り合おうとはしないことが、圧倒的に多い。

つまりリアルの世界では、発言者の発言内容自体が純粋に評価されることはなく(あるいは少なく)、その発言をした人の素性や身分、経歴も含めて、「総合的」に発言内容が評価されるのである。これは、発言する場が本や雑誌、テレビといったメディアに置き変わっても基本的には同じだ。なぜなら、もうすでに、発言者の素性や経歴がわかってしまっている(ことが多い)からである。

要するに長い間、リアルの世界においては、「言いたいことがあっても言えない」状況、「仮に言ってみたとしても、年配者から全力で否定・非難・批判される」状況というのが、インターネット、そしてブログやツイッターなどが普及するまでは、ずっと続いていたのである。



ぼくは長い間、こうした状況に、いつも不満を持っていた。なにか言っても取り合ってくれない。所詮は若者のザレゴトであり、素人のザレゴトである――そんなふうにあしらわれることが、おもしろくなかったのである。

たぶん、ボクと同じ思いを抱いたことのある人は多いのではないだろうか。討論の場であっても、会議の場であっても、必ずと言っていいほど、「まあ、確かにお前の意見は正しいかもしれないけど、でもまだまだ若いからな~」みたいな目を向けられ、あるいはそんなふうな空気にされる。そんな体験を、もう何度も味わってきた。

以前、どこかのブログで、「日本の若者が何も発言しない(しようとしない)のは、“発言してもムダである”という事実をよく知っているからだ」と書かれてあったのを目にした。まったくその通りだと思う。



しかし、べつにこうした状況は若者だけに限った話ではない

たとえばリアルの世界では、40代、50代の男が、若い女性アイドル(グループ)について、大好きなぬいぐるみについて、好きなアニメキャラクターのコスプレをすることについて熱く語りたい、しゃべりたいと思っても、多くの人はそうすることにかなり引け目に感じてしまうと思う。仮にやってみたとしても、すぐに「良識あるオトナ」がやって来て、ほぼ必ず「いい年して......」とか「大の男が......」云々という、紋切り型のセリフを使って批判する。最近の言葉を使うのであれば、「キモい」になるだろうか。

つまり、若者にせよ年配者にせよ、言いたいことや熱く語りたいことがあっても、発言内容そのもので良し悪しが純粋に評価されることはない(あるいは少ない)、ということである。現実の世界では、ほとんどの場合、言ったことと言った人の身分や素性とが、「セット」で評価され、吟味されるのである。そしてこうした状況は、いまもなお、リアルの世界においては「当たり前」のこととなっている。



しかし、である。ネットはそれを一気に変えてくれたのだ。リアルの世界のように、素性や身分や経歴が明確である必要などまったくない。実名や身分を伏せたまま、匿名でモノを言えるのだ。これこそが、ネットの最大のメリットなのである。

言いたいこと、語りたいことが特にない人には、ピンと来ない話かもしれない。しかし、言いたいこと、語りたいことが大いにあった人たちからすれば、いまの時代は大変ありがたい時代なのだ。長年くすぶっていた気持ちを、思いっきり、あらわにすることできるのだから。

しかも、ブログやツイッターを開設するのは非常に簡単だ。誰にでもできる。これはすなわち、「誰でも自由にモノが言える」ということであり、同時に「発言内容そのもので、評価される」ということである。



いい時代になったな、と感じる。もちろん、すぐに自分の言ったことを聞いてもらえる、評価してもらえるわけではないが、根気強くずっと発信し続けていれば、必ず誰かがそれを目にする。場合によっては、ふとしたきっかけで、たくさんの人たちから共感してもらえることだってあるだろう。そしてその意見が、いずれ「次代の常識」になりさえするかもしれないのだ。こう考えると、インターネットの力、ブログやツイッターの力というのは、本当にバカにできない。

――と、そんな思いもあり、また文章を書くのが好きだということもあって、ボクはこれからもブログを続けていこうと思っている。ときには更新しまくり、ときにはのんびりと。


2013/02/23

『フォト・リテラシー』 ― 写真は現実を写さない

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)
(2008/05)
今橋 映子

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最近のわたしのなかでのブームは、ヴィジュアル文化についての本(写真論、映像論、ファッション論などの本)を読みあさることなので、今回も同様の本の感想を書こうと思う。

本書のタイトル「フォト・リテラシー」というのは、あんまり聞かない言葉だ。「メディア・リテラシー」ならよく聞く。もっとも、フォト・リテラシーはメディア・リテラシーのうちに入るのだが。




で、フォト・リテラシーとはなにか?

ずばり「写真を“きちんと”読む・分析する能力」のことだ。写真というのは、字のごとく「真実を写す(もの)」である、と考えられている。

が、それは果たして本当なのだろうか?むしろ、実はそうではなく、撮る者(=写真をつくる者)とそれを見る者とが、(無)意識的に現実を「ゆがめ」ているのではないか?――こういった問いが本書のテーマである。




よく、メディアなどで「決定的瞬間」と冠された写真が紹介されたりする。「決定的瞬間」というと、あたかも「“ヤラセ”も“加工”もしていない、その時その場の状態を、一瞬でカメラにおさめた写真」という感じを受ける。

本書では、「決定的瞬間」という言葉が生まれるもととなった写真集が出てくるのだが、実はその写真集は、全然「“ヤラセ”も“加工”もしていない、その時その場の状態を、一瞬でカメラにおさめた写真」ではなかった、という事実を暴露することから始まっている。

この話から著者は、「世間的には“決定的瞬間”と思われている、ジャーナリズムに出てくる報道写真」も、雑誌や本に掲載されるまでの間、実は様々な「細工」が施されていることを指摘する。

ここでいう「細工」とは、決して写真画質の修正のことだけではない。撮影者の「意図」(これは写したい、これは写したくない、写すと報道者側の具合が悪くなるから「あえて」写さない、など)や、商業上の都合によってなされる(身勝手な)編集、場合によっては誤解を与えるような写真の見出しやキャプションなど、メディアに載るまでのありとあらゆる「行程」が、「細工」たりえるのだ。

著者は、そうした「細工」がいかに「巧妙」で、写真を見る者に気づかれないよう「編集」されてあるか、様々な写真を俎上にのせて論じている。




本書からひとつ、例を挙げよう。




上は、ロベール・ドアノーというフランスの写真家が撮った、「市庁舎前のキス」という写真である。この作品は1950年に、アメリカのある雑誌に載った。しかし、大した反響はなかった。

ところが80年代に入ると、フランスやパリ市は対外文化政策の一環として、自国を魅力的にPRするため、この写真を「利用」したのである。それは、あたかも「パリではいつも恋人たちがこのようにキスしています」と言わんばかりに。

キスシーンというのは、どの国においても魅惑に満ちたものである。甘い雰囲気が漂っている。すなわち、誰にとっても「好印象」に映ってしまう。

しかし、これを撮ったドアノーの当初の目的は、こんなロマンチックな想いからではなかった。むしろ、「パリ郊外のうらぶれた日常と人々のしたたかな明るさ」(p.74)を写真にしたかったからなのだ。

しかも、この写真は実は「ヤラセ」だったのである。いわゆる「決定的瞬間」というものではない。すべて作りこまれた「虚構の世界」だったのである。

だが、そんなことはつゆも知られず、ただただ「パリは魅力的」「フランスはオシャレな国」「ロマンあふれる場所」といった、ステレオタイプ化されたイメージだけが先行していった。その原因を作ったのが80年代の文化政策によって起きた、この写真の絵はがきやポスターの大量流通・大量消費だったのである。




これが、さきほど言った「撮る者(=写真をつくる者)とそれを見る者とが、(無)意識的に現実を「ゆがめ」ている」ということだ。

ヴィジュアルに訴えるものは、影響力が非常に強い。特に写真というと、無意識に「現実を写したもの」とか、「現実そのもの」などと思い込んでしまう。しかし、実はそうではないのだということを、著者は本書で数々の事例を挙げて説明しているのである。



話は若干変わるが、広告に出てくる写真というのも、そこに写っている商品が魅力的に見えるようになっている。

当たり前といえば当たり前だが、これも結局は「細工」なのだ。しかし、とりあえずでも「細工」だとわかっているのに、なぜこうも簡単に「ダマされ」てしまうのだろう?

いや、物の広告写真ならまだ良い。これがたとえば、美容系の広告写真となるとヤッカイである

なぜなら、たいていの場合、写真に写っているイケメンな/美人なモデルさんと、実際にそんなふうに装ってみたときの自分との間に、あまりにも大きな「落差」が生まれてしまい、自分がミジメに思えてくるからだ。

モデルの写真のキャプションに「※写真はイメージです」とかあっても、なかなかその「真意」を理解できず、理想と現実とのギャップに苦しまされる人が後を絶たないように思う。




いや、「頭」ではわかっているのだ、「頭」では。しかし、「体」ではわかっていないのである。というよりも、「わかってくれない」といったほうが正確だろうか?

要するに、写真というのは時として真実や現実を写さずに、「理想」を写してしまう、ということなのだろう。

そしてそれを見る者は、その「理想」を真実であり現実だと(無)意識的に解釈してしまうのだろう。ここに、「写真の悲劇」があるようにわたしは思う。




では、どうしたらその「悲劇」を見ずに済ませられるか?

それが、著者の言う「フォト・リテラシー」を身につけることにあるのだ。インターネットを使うのにリテラシーが必要なのと同様、写真を見ることにも「リテラシー」が必要なのである

いやいや、イメージの肥大化というのは実に恐ろしい。あるものに対していらぬイメージを持ってしまうことにより、そのイメージと乖離した現実に対して、いらぬ不満まで抱かねばならなくなってしまうのだから。

そう思うと、あの「※写真はイメージです」という注意書きは、けっこう意味深なんじゃなかろうか?

「いいですか?みなさん、“写真はイメージ”なんですよ?“写真は現実”ではないんですよ?」と、セツナイ声でつぶやいているみたいで。



2013/02/21

ジャッキー・チェンの映画も、これでもっと楽しめる ― 『批評理論入門』

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)
(2005/03)
廣野 由美子

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文学部にいた時、「文学講読」という授業があって、まあ、たいしておもしろくない古典的な小説を読まされた。わたしのいた学科では、この講読の授業が必修だったので、とりあえず色々と読んだ。

で、その時、きちんとではなかったが、本書のタイトルにある「批評理論」というのも多少やった。これはどういうものかというと、文学作品や映画、文化現象(広告、CM、テレビ番組など)を「それなりに」「違った角度で」読み解くための「道具」である。



たとえば、批評理論のひとつに、「フェミニズム批評」というものがある。これは簡単にいうと、フェミニズムという「思想の枠」から、ある小文学作品や文化現象を覗き込んでみたとき、そこにどんな女性差別だの、女性蔑視だの、女性に対する偏見だのがあるかを分析し論じる(=批評する)というものだ。



例をひとつ挙げよう。川端康成の小説に、『伊豆の踊り子』という作品がある。かつて、わたしが読んだ「フェミニズム批評」で、この作品を論じたものがあった。

その論者(女性)によると、『伊豆の踊り子』にあらわれる恋愛というのは、旧制一校のエリート高校生(男)が、たまたま旅先で出会った踊り子(芸者)に恋をするというものだが、川端のその恋愛描写は「男が上で、女は下」といった、いわゆる男性中心主義的な描写になっており、そこには女性に対する歪んだイメージや蔑視がある、と述べていた。要するに彼女は、この作品は「健全」な恋愛小説ではない、というのである。

詳しくは、こちらの本を読んでもらうとして、とりあえずフェミニズム批評というのは、こんな感じのものである。



それから、「ポストコロニアル批評」というものもある(略称「ポスコロ」)。「ポスト」は「―の後」、「コロニアル」は「コロニアリズム」すなわち「植民地主義」という意味である。

第二次大戦後、西欧の植民地主義によって被害を受けた国々の文化・文学作品を研究するというのが盛んになった。植民地主義を実行していたのは主に西欧だが、その西欧の、植民地国(主に東洋)に対する歪んだイメージや蔑視、偏見など(いわゆる「オリエンタリズム」)が、文学作品にどのようにあらわれているか、また逆に、被植民地国だった国の文学作品は、西欧や西欧人(に対するイメージ)をどのように描いたのか、などを分析して論じるのが、この「ポスコロ」である。



「ポスコロ」という「メガネ」を使って覗きこんでみると個人的に興味深く映るのが、ジャッキー・チェンのアクション映画だ



ジャッキーの映画には、敵役としての「西欧人(≒白人)」(あるいは、西欧人サイドにつく東洋人)がよく出てくる。で、アクションシーンが始まると、彼は(だいたい前半戦はやられがちだが)手足で、あるいは武器を使いこなして「西欧人」を倒す。

この「西欧人」というのは、ジャッキー・チェンのアクション映画において象徴的な存在である。身体的にも、文明的にも、そして外交的にも「勝てなかった」歴史をもつ中国人(≒東洋人)が、映画では「西欧人」に「勝つ」のだ。ここに、「ヒーローとしての中国人(東洋人)」/「悪者としての西欧人」という(やや単純だが)構図が垣間見える



本書では、他にも「精神分析批評」(フロイトやユングの唱えた理論をもとにして、文学作品を分析する批評)とか「マルクス主義批評」(文学作品を「歴史的産物」と見なし、その作品と現実における政治・経済・社会との関係を分析して論じる批評)など、色々な批評理論が出てくる。

で、本書は二部構成になっており、前半は小説が書かれる時の技法(「語り手」とは何かや、ストーリーのプロットはどうなっているか、など)の解説、後半が以上述べた批評理論の解説である。

わたしとしては、後半の批評理論のほうが特に気になっていたので、今回買ってみたという次第である。おそらく、類書のなかでは非常にコンパクトにまとまっていると思う。批評理論の書では、他にテリー・イーグルトンの『文学とは何か』(大橋洋一訳/岩波書店、残念ながら今は絶版)があるが、こちらはかなり本格的なので、批評理論を大ざっぱに知りたければ、まずは本書がオススメだ。



批評理論を知っておくと、小説だけでなく、ふつうのテレビ番組にせよ、映画にせよ、あるいは写真や何気ない広告にせよ、事物を(それなりに、ではあるが)おもしろく眺めることができる。前回、わたしは「女でよかった、とな?――ある広告に対する一考察」という記事を書いたが、これは批評理論でいうところの「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」にあたる(+「記号論」という視点も含む)。

ちなみに、色々ある批評理論のなかで個人的に「使いやすい」と思うのが、この「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」である。というのも、世の中にある文化現象には「性」という概念が、いたるところに見え隠れしているからだ。特に、テレビ番組やCM、広告などは、「性」の視点から観察してみると、意外なものが見えてきたりする。

たとえば、台所用品やトイレ用品、除菌剤などのCMを見ていると、それらを使っている人(使いこなしている人)は、女性であることが多い。もちろん、男性も出てこないわけではないが、明らかに女性のほうが多い印象を受ける。こうしたところに、いわゆる「男は仕事(=外)、女は家庭(=内)」といった、古くからある性役割の(無)意識がまだまだ残っていることを見て取れるのではないか。

一方、そうした旧来の価値観を覆そうという動きなのか、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重(綾瀬はるか)は、そういった古い「女性像」とはまったく異なる人物だ。敵に怖気づかず、戦場に出て銃を使いこなす「ハンサム・ウーマン」の姿は、いわゆる「やまとなでしこ」とは一線を画すものである。わたしはこうしたテレビ番組に、ジェンダーの「壁」を取り除こうとする意図を、うすうす感じている



ところで批評理論は学問の一ジャンルをなしているが、さっきも言ったように、わたし個人としては、こうした批評理論は、どれも世の中を「他とは違った角度」から見るための「道具」だと思っている。「道具」というと、あまりにも身も蓋もない「安っぽい」印象を与えてしまいそうだし、冷めた見方だが、わたしはそう考えている。

批評はあくまでも「批評」でしかない。批評理論を知った(あるいは「研究」した)からといって、べつに世の中が変わるわけではない。それに、「◯◯批評の視点から××を分析すると――」などと言ったところで、多少は知的な感じもするが、「ふつうの人」からは「なるほど、そうですか」「ちょっとおもしろい見方ですね」くらいの感想しか抱かれないだろう。

理論は「理論」であって、そこに「絶対性」はない。あまり「批評理論」にこだわると、理論という「型通りの見方」しかできなくなるし、いわゆる口だけの「批評家」になってしまうのがオチである(そう、つまり、わたしとこのブログのこと)。だから、批評理論はせいぜい「知的な娯楽」として「嗜む」のがいいのではないか



本書は、『フランケンシュタイン』を題材に、小説の技法と批評理論、そしてそれらが実際にどのように運用されているのかをセットで手軽に知ることができるが、決して「小説」にしか使えないものではない。文学作品、そして文化現象であれば、基本的に色々と「あてはめる」ことができる。それから、批評理論と批評理論との「組み合わせ」も可能である。

批評理論を小説以外に「応用」したものとして(「応用」している感じはあまりしないが)、他に『戦闘美少女の精神分析』(斎藤環/ちくま文庫)『フォト・リテラシー』(今橋映子/中公新書)『イメージ』(ジョン・バージャー/ちくま学芸文庫)、エッセイでは『愛という病』(中村うさぎ/新潮文庫)などがある。どれもオススメだ。

2013/02/19

女でよかった? ―― ある広告に対する一考察

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先日だが、電車で(それから薬局で)上の広告を見かけた。資生堂「ザ・コラーゲン」(美容ドリンク剤)の広告である。



で、一見なんということもない広告だが、わたしはこの「女でよかった!」の部分が妙にひっかかった。

「女でよかった!」である。「女っていいね!」とか「女は最高!」ではない。つまり、現在形ではなく、過去形――「よかった」――なのである。

この言い方だと、「なにかもうすでに、女でいて得したことが起きた」かのように受け取れる。それが何なのかはわからないが、重要なのはそこではない。重要なのは、この広告(に写っている2人)が、見る人たち(とくに女性)に対し、あたかも「わたしたち2人はもうすでに、“女でいて”良かったことが起きましたけど?」といった、「言外のメッセージ」を発している点だ。

この「わたしたち2人はもうすでに、“女でいて”良かったことが起きましたけど?」というメッセージは、さらに、

――この広告を見ている「あなたたち女性」は、女でいて良かったことって起きた(起きている)かしら?(え、まだ起きてないの?)――

というふうに解釈をすすめることができる。

つまり、何が言いたいのかというと、この広告は、それを見る女性たちに、多かれ少なかれ、ある種の「不満」を抱かせる「装置」となっているのでは?ということだ。



広告に写っている彼女たちは非常に「幸せそう」である。こちらを向き、そして笑顔に満ちている。光り輝いている。背景にある花も、咲き乱れている。

では、なぜ「幸せそう」なのか?それは、自分たちが「女でいた」からだ。だから、彼女たちは「女でよかった!」というメッセージを発しているのである。

しかし、である。これらのメッセージは、「女」になりきれていない女性たち(いわゆる「女らしくない」女性たち)への「自慢」でもある。


「わたしたちって、“女でいた”から、こんなに幸せになれたのよね~」
「やっぱり、“女でいる”ことって得するのね~」
「そう思うと、“女でいない(いられない)”女って、かわいそう~。だって、こんなに得することを、味わえないんだから」


そして、この広告は、彼女たち2人にここまで「言わせて」おいて、最後に「隠されたメッセージ」を、「女」になりきれていない女性たちに送る。

――このドリンク(「ザ・コラーゲン」)を飲めば、わたしたちみたいに「女」になれて、「幸せ」になれるけど?(さあ、どうする?)――

話は若干変わるが、こうやって「ジェンダー」というものが徐々に形成されていくのだと思う。



さて、わたしのこの広告に対する「読み方」は、「行きすぎ」であろうか?イジワルであろうか?

この広告の「読み方」は、ほかにも色々とあるだろう。わたしの「読み方」だけが、絶対、ということはない。

しかし、わたしにはどうしても「そう読めてしまう」のである。

ここで、美術評論家のジョン・バージャーの次のセリフを思い出す(太字はわたし)。

広告を見る人=購買者は、その商品を買えば変わるであろう自分自身の姿をうらやむように仕向けられている。購買者は、その商品によって変身し、他人の羨望の的となった自分の姿を夢見る。その羨望が自己愛を正当化するのだ。別の言い方をすれば、広告イメージは、ありのままの自分に対する自分の愛情を奪い、かわりに商品の値段でもって自分に返すのである。(ジョン・バージャー『イメージ』(ちくま学芸文庫)p.187)

本当にそう感じる。人はみな、他人が欲しがるものを欲しがるのだ。欲望は、人から人へと「感染」するのだ。広告の役目は、まさにこの「感染」装置として、にある

なので、この広告を見てしばらく考え込んでしまった。「あ~、なるほどね。この広告つくった人、頭いいな~」と。なんというか無意識のうちに、「美(=女らしさ)への欲望」が「感染」しそうだ。そういう「迫力」が、わたしには感じられる。べつにわたしは女じゃないけど、実際、この広告を見た女性たちはどう感じるのだろうか?


とはいってもまあ、広告なんて、あんまりじっと見るもんじゃないかもね。


2013/02/18

大学生は「勉強」するな ― 『ペーパー・チェイス』

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「日本の大学生は勉強しない」と言われて久しい。

具体的にいつ頃から言われ始めたのかはわからないが、インターネットが登場して、ブログやらツイッターやらが普及した近年、こうした批判をつとにたくさん聞くようになったと感じる。それだけ、多くの人が大学教育に興味関心があるということの証左なのだろう。



それで先日、映画『ペーパー・チェイス』(1973年)を観た。

主人公は、超一流の名門校ハーバード法科大学院に通う学生・ハート(ティモシー・ボトムズ)。優秀な成績で卒業すれば、アメリカの競争社会でエリート街道を歩めることが約束されているこの大学で、ハートは毎日、何時間も法律の勉強に時間を注いでいる。

そんなある日、彼はふとした機会に、美女スーザン(リンゼイ・ワグナー)に出会う。そのまま2人は付き合いはじめるも、ハートは毎日の勉強に追われることで、スーザンとはなかなか会えない日々が続く。

しだいに、自分のやっていることにむなしさを感じはじめてきたハート。スーザンと会っても、つまらないことで喧嘩をしてしまうことが続く。結局、彼は最終的に彼女との恋愛を取ることに決めたのである。



「ハーバード大学は超名門校」というのは誰もが知っていることだが、実際どのような授業をしているのか、学生はどんな感じなのかといったことは、あまり知られていないと思う。ちょっと前に話題になった『ハーバード白熱教室』のサンデル教授のような授業は例外として。

だからこの映画は、そういったアメリカの大学がどのようなものなのか、その雰囲気を教えてくれる。

今回観た映画は、ハーバード大学のなかでもとりわけ難しい学部を取り上げている。だから、それ以外の他学部の勉強風景や学生の様子は正直わからない。しかし、明らかに日本の大学よりはずっとずっと厳しいはずである。

映画に出てくる学生たちは、とにかくみんな、勉強、勉強、勉強である。講義に出る際は、しっかり予習をしなければ、教授から来る質問にまず答えられない。だからみんな、毎日毎日、徹夜で勉強する。試験前となると、缶詰め状態である(実際、主人公が友人とホテルの一室を借り上げ、三日間ずっとそのなかで勉強する、というシーンが出てくる)。

で、優秀な成績で卒業できれば、政府でも超有名大企業でもウォール街でも、好きなところに幹部候補生として就職できるのだが、そういったものを目指すことに、ハートはむなしさを感じて、最終的には恋愛をとる。

映画最後のシーンで、大学から来た成績通知の手紙を紙ひこうきにしてしまい、それを大海原へと飛ばすハートの後ろ姿は、なんとも言えない清々しさと哀愁とが、絶妙に溶け合っていた。「ペーパー」(教科書、ノート、参考書、試験用紙、成績通知書――つまり、ありとあらゆる「紙」)から「チェイス」(追っかけまわす)されていたのを、ついに最後は突き放すのだ。



それで、見ていて何度も感じたことは、「大学(教育)とは何だろうか?」ということ。

正直なところ、先生から課題を与えられる→それをこなす、というサイクルは、高校までで十分だとぼくは思っている。では、大学では何をするのか(するべきなのか)?

それは徹底的に「知的な遊び」にふけることなんじゃないのか、と思う。逆説的な言い方をすれば、「大学生は“勉強”するな」である。

ぼくの思う「勉強」とは、「決められた答えがすでにあって、それをきちんと提示する作業」のことだ。こうした「勉強」は、たしかに一定の「知識」は身につく。でも、その「知識」は、基本的に応用が利かない。その「学問業界」という箱庭のなかだけでしか通用しないことが多い。

また、こうした「勉強」にも「考える」という動作は必要になることはあるが、「決まりきったもの」であることがほとんどである。思考に、独自性とか着眼点とか発想性とか、そういった要素はない。というか、そもそも重視されない。

高校(長くとも大学1年生)までは、こうした「勉強」でいいと思う。しかし、大学でまで、これを続けるのはいかがなものだろう。大学は、問題もその答えも、自分で作って自分で解くところではないのか、というのがぼくの考えだ。

この「問題もその答えも、自分で作って自分で解く」サイクルにおいて、大学教員ができることは、学生への「手助け」程度のものでしかない。というのも、問題設定は、「コレコレこうすればよい」とか「こうしておけば間違いない」といった教授法のようなものはないからである。教員ができることは、学生へ「こんな学問分野がある」「こんな文献がある」くらいのものだ。



そこで必要になるのが、「知的な遊び」である。具体的には読書だ。もっと具体的に言えば、新書と文庫の読み漁りである。

このとき重要なのが、決して読書を「勉強」にしないことだと思う。「この本を読んで、◯◯を身につける」とか「これを読めば、××はマスターできる」などと意気込まないことだ。大事なのは「遊ぶ」ことであり、「おもしろがる」ことである。

おもしろそうなタイトルの本があったら、目次を見てみる。それで気になる項目がひとつでもあれば、そこだけ読んでみる。もうこれだけで、立派な読書である。もちろん、一冊まるまる読むのもアリだ。こんな調子で読書をする。それが「知的な遊び」だとぼくは思う。

いまはカンタンに映画やDVDが見られる時代になった。こうしたものを、同じように見てみることも「現代の読書」だろう。できれば、アクションものとかラブストーリーものではなく、社会派がいい。

こうしたことを続けていけば、おのずと興味関心も広がるし、自分で考えることも始めるだろう。またレポートや卒論を書くとき、こうした「雑食的な読書」が後々モノを言ったりするものだ。



映画のなかでは、学生たちのこうした「知的な遊び」がまったく見られない。みな、「勉強」ばかりしている。無論、「勉強」というものが必要な場であり、それをしてでも目指したいものがあるのだろう。が、なんというか、見ているこっちも息が詰まりそうだった。「ガリ勉」という言葉が、まさにピッタリな人たちばかりだった。

主人公のハートが、結局こうした「勉強」に疑問を持ったのも、それが自分を「支配」してしまっているからだろう。現に彼は、映画のなかで何度も「ぼくは教授に支配されている」というセリフを吐いていた。そして、「支配」されておかしくなってしまった友人のひとりが、自殺未遂までしてしまうのである。「支配」――イヤなことばだ。



こういうものを見ていると、「案外、日本の大学の“いい加減さ”も悪くないな」と思えてくる。アメリカの大学のように、「勉強」を押し付けてくることがない(あるいは、少ない)からだ。見方を変えれば、「知的な遊び」に思う存分ふけることができる、ということでもある。つまり、「支配」がないのだ。

ただひとつ、残念なことといえば、あまりにもユルい環境だから、かえって「知的な遊び」すらもしなくなる、ということだろうか。「本なんて、いつでも読めるじゃないか」という思いが、多くの日本の大学生の根底にあるのだろう。そして始めることというのが、「知的でない遊び」である。バイト、サークル、飲み会、etc……。「コミュ力」を磨き、「人脈」をつくり、「リア充」になるために。

もちろん、これらに意味がない、無駄だ、とはこれっぽっちも思わない。でも、うつつを抜かすのはマズい。うつつを抜かすのなら「知的な遊び」のほうが絶対にいい。ぼくの経験から、自信を持ってそう言える。就職はもちろん、生きる上で大いに役立つはずだ。それに、こんな「遊び」にたくさん浸っていられる時期なんて、大学時代以外ないだろう。「老後にでもやれるだろう」なんて、遅すぎる。



例によって、映画をダシに「自分語り」をしてみたが、そうしたものを抜きにしても、この映画は見ていて楽しかった。理想の青春時代と言える。ぼくも大学時代、美人な女の子とこんな生活をしてみたかったなあ。はあ~。

ところで、リンゼイ・ワグナーの美貌は見ものだ。いまでも、昔の面影は消えていない。かなりどうでもいいが、ボク好みの白人女性だった。


2013/02/16

「ヌード写真」を哲学する ― 『ヌード写真』

ヌード写真 (岩波新書)ヌード写真 (岩波新書)
(1992/01/21)
多木 浩二

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少々、いかがわしいタイトルの新書だが、中身はべつにいかがわしくない。岩波が出版しているから、内容は学術的論考である。



著者の多木浩二は、ヌード写真に、まずこんな問いを投げかける。


「なぜ、ヌード写真はこんなにも過剰に氾濫しているのか?」
「この、ヌード写真の過剰な氾濫をどのように考えたらよいのか?」



この2つの問いを考えるため、多木ははじめに、ヌード写真の成立過程を振り返っている。



ヌード写真が成立するためには、当たり前だが、まずは写真機がなくてはならない。その先陣を切ったのが、ダゲレオタイプの写真だという。ダゲレオタイプの写真というのは、いまの写真と違い、粗悪で現像にも時間がかかる。

しかし、それまで「写真」というものを知らなかった人たちは、写真のもつリアリティや精巧さに大きく魅了された。しかも、現像に時間がかかるとはいえ、絵画とは比較にならないくらい、大量に複写することが可能である。これにより、秘密裏にではあるが、ヌード写真が徐々に出回るようになった

ところで、ヌード写真に写っているのは、その大半が女である。なぜ、男ではなく女なのか?それは多くの女たちが、「性的な身体」を売春でもって「売り物」としてきた、という長い性愛の歴史や、それによってでき上がった社会制度に由来する。

「売り物」としての身体は、主体にはなりえない。常に客体的な存在だ。このことが、「見る主体としての男」/「見られる客体としての女」という対立構造をつくる結果となった。そしてこの対立構造は、そのまま「ヌード写真」という領域にも及んだのである。ここに、それまで延々と続いてきた、男女間の支配/被支配の関係が色濃く反映されている。



しかし、当初は秘密裏に出回っていたヌード写真が、なぜ現代では大量に出回るようになったのか?その謎を解くカギが「女というイメージ」にあると多木は言う。

ただの「女」ではない。そうではなく、「女というイメージ」である。つまり、実体ではなく虚構や妄想、ファンタジーとでもいうべきもの――そういった「魔力」が、ヌード写真が大量に出回るためのキッカケをつくったのである。

「女というイメージ」は、必ずしも現実を忠実に反映したものではない。むしろ、しばしば「誤解」に富んだものでさえある。それは、男たちの「理想の女像」とでも言えるものだ。20世紀は、様々なメディアが発達した時代だった。

こうしたメディア(その中心が成人男性向けの雑誌『ペントハウス』や『プレイボーイ』など)を通して、「女というイメージ」が大量に出回るようになったのである。

つまり、男たちは実体としての「女」に欲望を抱いたのではなく、イメージとしての「女」に欲望を抱いたのである。この「女というイメージ」は、あまりにも強烈なものであったから、男たちからしてみれば実体以上に「現実」的なもののように感じられた。

こうした実感を支えることができたのは「写真」だからであって、「絵画」だからではない。絵画は、誰もがそれを虚構であると見抜ける。しかし、「写真」は違う。「実体」であるかのように思える。しかし、そこに写された女は、あくまでも男の理想像にそって意図的につくられた、イメージとしての「女」である。必ずしも実体としての「女」ではないのだ。



多木はこう述べる(太字はわたし)。

こうしてイメージの上で性的な現象がよくもあしくも生起してしまうのである。このイメージの世界こそ、性の政治学が現に実践されている場であり、それが現実の人間の存在の仕方にも影響してくるのである。ヌード写真を性の政治学のテクストとして読むことができる理由でもある。(p.116)

ここにおいて、多木の当初の問い、すなわち「この、ヌード写真の過剰な氾濫をどのように考えたらよいのか?」という問いは、「実体」というものに対しての再考をせまるものなのではないか。

イメージは実体から発するものである。だから、実体がなければ、そのイメージもうまれない。しかし、ヌード写真の例でわかるように、われわれ(男)は実体ではなく、イメージを見ていたのである。

そして皮肉なことに、そうしたイメージが氾濫していくにつれ、イメージは実体以上に「実体化」していくのである。つまり、イメージを「実体」だと思い込むようになるのだ。



ここでわたしは、政治学者・丸山眞男の、ある講演会でのこんなセリフを思い出した(太字はわたし)。

いわんや今日のように、世界のコミュニケーションというものが非常に発展してきた時代にありましては、大小無数の原物は、とうてい自分についてのイメージが、自分から離れてひとり歩きし、現物よりもずっとリアリティーを具えるようになる現象を阻止することができないわけであります。むしろ或る場合には、原物の方であきらめて、あるいは都合がいいということからして、自分についてのイメージに逆に自分の言動を合わせていくという事態がおこる。こうして何が本物だか何が化けものだかますます分からなくなります。(丸山眞男『日本の思想』「思想のあり方について」p.128)


さきほどの性についての話に戻ろう。

イメージであったものが、実体以上に「実体化」していく、という現象は、ヌード写真において顕著に見られることだ。しかし、実はこうやってヌード写真によってつくり上げられてきた「女というイメージ」は、今では「ヌード写真」だけから発せられるものではなくなってきているのではないか、というのがわたしの考えである。

言い換えれば、「女というイメージ」が生産される場所は、そこが「ヌード写真」であるかどうかは、もはや問われない、ということだ。「ヌード写真」であるから「女というイメージ」が生まれる、のではなく、「ヌード写真」から“も”「女というイメージ」が生産される、と言ったほうが、いまは正しいように思える。

その最たる例が、エロ漫画や二次元エロ画像などだ。これらは、「ヌード写真」から生まれ、一般に広まった「女というイメージ」を、より「虚構化」した(=男の欲望をもっと強力化した)ものではないだろうか。

エロ漫画や二次元エロ画像は、明らかに「ヌード写真」よりも強烈に、男の思う「理想の女像」を絵で体現化したものである。つまりそこは、より歪んだ「女というイメージ」が詰め合わさった場所なのだ。この時点で、もはや実体としての「女」は、完全にいなくなっているのがわかる。二次元画像については、「イメージのほうが、実体よりも完全に先行している(=男たちの頭を支配している)」といっても差し支えはないだろう。

ちなみに、昨今のAKBブームも、たぶんこれと同じ構造だ。AKBに大金を注ぐ一部のファン(というよりもオタク)は、AKBそのものが好きというよりも、メディアによって流布された「イメージとしてのAKB」

――それは、「自分に優しくしてくれるカワイイ女の子」とか、「自分のことはよくわかっているカワイイ女の子」とか、「自分が支持してあげなければ、生きていけない。そんな女の子なのだ、彼女は」とかいった、各人にとって都合のいい「イメージとしてのAKB」――

が好きなのではないだろうか。そして、こうした「イメージとしてのAKB」が他のアーティストたちのイメージ戦略よりも強く作用しているのは、「AKBとは気軽に握手ができる」という事実に由来しているように思われる。つまり、「握手する」という行為(そしてそこでの、彼女たちの「笑顔」)が、より「イメージとしてのAKB」を強化していっているのである。

話を戻そう。

そして、こうした現象に拍車をかけているのが、言うまでもなくネットである。『ペントハウス』や『プレイボーイ』といった雑誌媒体よりも、手軽に且つ気軽に、「女というイメージ」を入手することができるからだ。



こうした状況にいる今、何が起きているのか?

思うに、それは「現実(実体)へのショック」である。あまりにもイメージばかりが先行しすぎてしまったので、もはや現実に納得できないのである。イメージしか愛せなくなるのである。そういう男たちが現れてきた時代が、いまという時代なのだ。そのことはすべて、「◯◯(女性アニメキャラの名前)は俺の嫁」という、あの定型フレーズに集約されているのではないか。

よく、こういう女性アニメキャラに夢中になる男たちというのは、現実の女性たちにもてないからそうなるのだ、と言われる。それはそれで確かだろう。しかし、そうした見方は一面的なものでもある。

本当はそれだけではなく、イメージとしての「女」しか愛せなくなったから(=「女というイメージ」があまりにも「魅力的」になりすぎたから)、現実の女たちにもてなくなった、とも言えるのだ。この場合、因果関係は必ずしも明確ではないのである。



「女というイメージ」の氾濫は、なにもヌード写真と二次元画像だけではない。AVの浸透も一役買っている。それも二次元画像のときと同様、ネットというバックボーンを支えとして。

そういう意味で、ネットは「女というイメージ」をより「虚構化」(=強力化)し、それを普及させたという点で、かつてからあったメディアとは比較にもならないくらい、「強大」な存在なのだと言える。

多木の言う「性の政治学」はもはや、ヌード絵画やヌード写真だけで語り得るものではなくなっているのではないか。エロ漫画・二次元エロ画像、そしてAVと、「性の政治学」は以前にもまして広大な範囲を対象としなくてはならなくなっていると思う。

そして新たに加わったこれらの範囲は、「見る主体としての男」/「見られる客体としての女」という対立構造、そこから生じる男女間の支配/被支配の関係という視点だけでは論じられないはずである。

なぜなら、もはやその範囲では、実体としての「女」が、限りなく透明な存在へと変化していっているからである。以前までは、「見られる客体としての女」も、「被支配者としての女」も、どれも実体としての「女」を想定していたはずだ。

であるならば、これから「性の政治学」を語る際には、以前のこうした二項対立に、さらに第三項「イメージとしての女」を導入しなければならないのではないか、とわたしは考える。



最後になるが、本書はなかなか難しい読み物となっている。一読では少々理解しがたいところが多い。それは、「写真とは何か?」「イメージとは何か?」という哲学的な問いが、本書の根底にあるからだと思う。

本書は、以前に紹介した『イメージ』(ジョン・バージャー著/ちくま学芸文庫)とも通ずる、視覚文化論・視覚表象論である。

この次は、『フォト・リテラシー』(今橋映子著/中公新書)を読もうとわたしは考えている。というのも、いま、こうした視覚文化論・視覚表象論の本が自分のなかでブームになっているからだ。まだ読んでないので今度、感想を書こうと思う。



2013/02/15

映画『ダイ・ハード/ラスト・デイ』を見に行ってきた。

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公式サイトはこちら


今回のダイ・ハードの副題「ラスト・デイ」を見る限り、これでシリーズ最後となるようだが……

残念ながら、わたしはイマイチに感じた。最終作になるから、けっこう期待していたのだが、ストーリー展開といい、登場人物といい、どうも物足りなかった。



まず、残念だった点の1つめが、主人公マクレーン(ブルース・ウィリス)の戦い方。ダイ・ハード4までの「伝統」だった、「いま、そこにある些細なものを使って敵を倒す」という彼の戦闘流儀がほとんど見られなかったのだ。

武器ではないが「使いようによっては武器になりえる物」でもって相手を殺す、というマクレーンの手法が、わたしは大好きだったのだが、残念ながら今作ではそれがほとんど見られなかった。普通に銃で戦うだけだった。

この、「いま、そこにある些細なものを使って敵を倒す」というやり方で、わたしが一番好きだったのは、ダイ・ハード4に出てくる、消火栓を車で引き倒して水を大噴出させ、それを上空にいる敵ヘリの射撃手にめがけて当てる、というシーン

ダイ・ハード4のコンセプトは、ずばり「アナログ人間VSデジタル人間」だった。敵はコンピュータを使いこなすインテリハッカーたち。そんな「デジタル人間」な彼らを、機械オンチな「アナログ人間」マクレーンが、原始的な攻撃方法で敵を倒す、というところに、わたしはすごく魅力を感じていた。

そういう演出が、残念ながらほとんどなかった。今作では、あの「伝統」が受け継がれなかったのである。



それで、2つめに残念だったのが、ラストの戦闘シーン

敵の飛行機がマクレーンの息子・ジャック(ジェイ・コートニー)を射撃している時、機内に忍び込んでいたマクレーンが、中に積んであった車を鎖で飛行機につなぎ留め、その状態で車に乗って地上めがけてアクセルを踏む場面があった。車は飛行機の「お尻」から飛び出し、そのまま車は「お尻」とつながった状態で宙吊りになる。一気に重心が後ろに傾いたその飛行機はバランスを崩すのだ。

ここまでは良かった。ここでは、「いま、そこにある些細なものを使って敵を倒す」の「伝統」がちゃんと受け継がれている。

しかし、ここから先がダメだった。そのままバランスを崩した飛行機は、なぜかジャックめがけて体当たりしてきたのである。ジャックにやられた敵・コマロフ(セバスチャン・コッホ)の「敵討ち」と称して。

べつにバランスを崩した段階では、まだ飛行機は致命傷を負ったわけではなかったのに、なぜか「意図的」にジャックのいる建物へと突っ込んでいくのだ。正直、理由がわからなかった。

いくら「敵討ち」とはいえ、「自分の命をみすみす捨ててまでこんなことするかぁ?」という疑問のほうが、映像のインパクトよりも、わたしには強く残った。なんか非現実的というか、「リアリティ」が欠けているような気がして



以上の2つが、わたしとしては残念だった。

ただ、どの戦闘シーンも迫力が凄まじかったので、十二分に惹き込まれる。ブッ飛んだカーチェイスや、弾丸のフッ飛ばし方、物やガラスが砕けてその破片が飛び散っていく演出などは、シリーズのなかでは今作がもっとも良かったと思う(明らかにCGだな、とわかってしまう部分も少なくなかったが)。



で、今作でシリーズ最後、ということらしいが、「もしかしたら続編があったりして」ともわたしは思っている。

というのも、今回はじめて「マクレーンとその息子・ジャック」が「一緒に戦う」という設定になっているので、ブルース・ウィリス引退後(彼はもう年だろう)、ジャック役を演じたジェイ・コートニーが、新たに「ダイ・ハード」シリーズを引き継ぐのではないか、と考えられなくもないからだ。

しかし、「ダイ・ハード」=ブルース・ウィルス、という等式の魅力があまりにも強いから、やはりこれで最後、ということになるのかもしれない。仮に続編があったとしたら、「ダイ・ハード・リターン」とか、「ダイ・ハード・アゲイン」とか、「ダイ・ハード・ザ・レジェンド」とか、そんな感じになりそうである。

ところで番宣で、マクレーンは「世界で最もツイてない男」などという不名誉な異名を与えられていたが、25年もの間、超ハイパー危険な戦闘に何度も巻き込まれ、何度も殺されそうになりながら、それでもなお死ななかった(文字どおり、「ダイ・ハード」=「なかなか死なない」である)のだから、ある意味「世界で最もツイてる男」でもあるじゃないのか、と思う。



ということで、ダイ・ハードファン必見の映画だった。ダイ・ハードファンじゃなくてもそこそこ楽しめます。

2013/02/13

散歩散歩散歩

2013年2月13日現在。

わたしはいま、事情あって働いていない。毎日がホリデーである。


毎日がホリデー、というと、きっと現役社会人の方たちから羨ましがられるだろう。ところが毎日を「日曜日」として過ごす、というのは、けっこうキツかったりもする。特にすることがないのだ。

つまるところ、暇である。おまけに金もないから旅行にも行けない。「さて、今日は何をしようか?」などと、途方に暮れることのほうが多い。エーリッヒ・フロム言うところの、「自由からの逃走」というヤツである。

そんな理由もあり、また、家にこもることが多いわたしは、なにかと運動不足になりがちだ。なので、少し前から「散歩」というものを始めてみた。

散歩――とはいっても、毎回毎回、同じコースを歩くだけである。「ウォーキング」といったほうがふさわしいかもしれない。



それはともかく、ここ最近は、この「散歩」というのがマイブームになっている。

出かけるときは、少し薄着をする。けっこう汗をかくからだ。靴は普段から使っているもの。そして欠かせないのが、「ウォークマン」である。いつもこのウォークマンで好きな曲を聞きながら、散歩する。ウォークマン――歩く人。文字どおり、わたしのことである。



歩くところは森林公園や植物公園である。

なぜ、そういったところを歩くのか?

静かだからだ。休日はともかく、平日は人がいない。あるのは、植物と土と砂利。ときどき、老人を見かける。それだけである。つまり、わずらわしさがないのだ。

そういったところをひたすら歩く。歩く。歩く。「パフューム」の曲“Hurly Burly”を聞きながら。わたしはパフュームが好きだ。ファンである。女の子3人とも美人である。かわいい。そんな彼女たちの歌声を聞きながら、ただただ、歩く。歩く。歩く。



歩きながら、どんなものを目にするか?

よく見かけるのがハトである。公園に行き着くまでの道、下り坂があるのだが、その坂の道路の端っこで、よく彼らを見かける。いつもなんか、ツンツン突っついている。餌を探しているのだろう。いつも夢中で、ツンツンしている。

こちらが彼らのそばを歩いてみても、あまり警戒しない。飛び去ることもない。どうやら人間に慣れているようだ。わたしだったら、そばに見知らぬ人が近づいてくるだけで「んんっ?」と落ち着かなくなるのに、彼らはそうならない。対人能力とかいうものを、きちんと持っている。えらい。


アヒルもよく見かける。いつも川にプカプカ浮かんでいる。眠そうな顔もしている。あせり、という概念がなさそうである。

すばらしいことだと思う。現代人がいつも抱えて生きているものを、アヒルはこれっぽっちも抱えていない。抱えていないどころか、いつも余裕そうな顔つきである。自分もいつもああであったらなあ、と感じる。


老人は、わりと見かける。老人。やや、ぶっきらぼうな言い方ではある。しかし、そうとしか呼びようがない。まさか「老いて去る者」とか、「人生の下り坂」とか、とは言えまい。「あっ、あんなところに“人生の下り坂”がいる!」なんて、失礼にも程があろう。

「(お)年寄り」というのはどうか?これは、いつも眉間にシワ寄せた人、というイメージしかない。だから、老人、がいい。老人。そう、老人。



歩くときは、腕を振るように意識している。散歩は、足だけでするものではない。腕でもするものだ。ぼくはそう思っている。だから、腕を振る。振るときは、いつもよりも、すこしだけオーバーな感じがいい。そうやって、歩く。すると、だんだん、体が温まってくる。汗も出はじめる。「全身運動」というヤツだ。

歩きはじめると、自然と考えごとをしてしまう。パフュームの曲を聞いているのに、である。「どんな記事を次は書こうか?」「あの映画、たしかこんな場面があったな」「お昼ごはんはどうしようか?」などなどなど。

歩いていると、こうやって黙々と、考えることが常である。歩きながら考える。考えながら歩く。どちらが主なのかわからなくなる。パフュームの曲を聞いているからかもしれない。



散歩というのは、孤独人や一匹狼には、もってこいの趣味だと最近気がついた。まず、仲間がいらない。テニスやサッカーのように、他人が必要でない。ひとりで、しかも好きな日に、好きな時に、できる。

それから、ランニングのように、苦しくない。ただひたすら、歩いていればいいのだから、足も故障しにくい。つまり、続けることができるのである。三日坊主にならない、ということだ。

「運動不足解消のため」という理由で始めた運動は、だいたい、三日坊主へ一直線である。それは、「苦しくて続かないから」「メンバーが集まらないから」の2つに尽きる。でも散歩には、その2つがない。



歩く時間はだいたい50分。50分と聞くと、長く感じる。しかし、案外すぐに終わる。パフュームの曲を聞いているからだと思う。そして終わる頃には汗もかいている。気分もスッキリする。いい運動をしたな、と感じる。

こんな感じで、わたしはここ毎日、散歩している。とはいっても、これは「何もすることがない」ということの、裏返しでもある。まさにわたしは、「自由」から「歩いて逃走」しているのである。



2013/02/11

「イケメン」は「捏造」されている ― 『イメージ』

イメージ: 視覚とメディア (ちくま学芸文庫)イメージ: 視覚とメディア (ちくま学芸文庫)
(2013/01/09)
ジョン バージャー

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昨年の12月、出版された日にすぐこの本を買った。
いつか感想を書こうと思っていたのだが、ずっと後回しになってしまったので、今日書こうと思う。

翻訳者のあとがきと、ネットで調べた情報によると、この本は、その手の業界内ではかなり有名なものらしい。初版(原書)が1972年で、以来ずっと版を重ねているベストセラーだという。



ところで、どんなことを論じている本なのか?


一言でいうと「人間の“見る”という行為は、われわれの意識しない、いろいろなものから“制約”を受けているのだ」である。

われわれは、街中にある商品とか広告とか、テレビ番組で流されているもの、ネット上で見る動画など、そういったありとあらゆるものを、「自由に見ている」ようで、実は「自由に見ていない」のである、というのだ。このことを、著者は有名な美術絵画から、エロ、グロ、ナンセンスな広告までを例に挙げながら説明している。

ものを「自由に見ている」ようで、実は「自由に見ていない」例をひとつ挙げてみると、たとえば「美術館の中にある作品」がそれだ。

われわれは、「美術館に飾られている作品は、どれも“芸術”である」と無意識に思っている。いや、「信じ込まされている」といったほうが正しいかもしれない。



こんな思考実験をしてみよう。

仮に、わたしが「現代アート好きな一介の人間」だとする。そこで、新進気鋭の若手芸術家たちによる現代アートが、たくさん飾られた美術館に行ったとする。しかしそのなかに、何枚かはまったくのド素人の描いた絵が掲げられてある。

そして、わたしがそれらド素人の絵を見たとする。で、たぶん、わたしはこう感じるだろう――「おお、これが“現代アート”というものか、すごいなあ(でも、正直なんかよくわからないけど、でもきっとすごいんだろうなあ)」と。

ここでもし、そのときわたしが見た絵が、美術館でもなんでもない、「ふつうの場所」にあったら、今度はたぶん、こんなふうに感じるだろう――「えっ、なにこれ? 変な絵だ。ぜんぜん美しくないな」と。


つまり、である。

ものを「見る」という行為は、そのものがある「場所」であったり、そのものを見るために必要な「装置」(美術館も、ものを「美しく感じさせる」という意味では、一種の「装置」だ)であったりによって、カンタンに「変形」されてしまっている(あるいは、「歪められている」)、ということだ。しかも、われわれがまったく気づかぬうちに、である。



――なるほど。確かにそのとおりかもしれない。自分の「見る」という動作が、「場所」にかぎらず、「常識」だの「歴史」だの「知識」だのに「制約」されている、という意見は、的を射ていると思う。

ところで、この意見でピンと来たことがひとつある。近頃のテレビで頻繁に耳にする「イケメンの◯◯さん」とかいう宣伝だ。もしかしたらこれも、テレビという「装置」に、「見る」という動作を制約されて成り立っていることなんじゃないだろうか?

テレビやネットで頻繁に、「“イケメン俳優の”◯◯さん」とアナウンスされれば、それまではなんか「イケメン」に見えなかった人も、次第に「イケメン化」していく気がするのだ。べつに誰とは言わないが、わたしからしてみれば「う~ん、この人、本当に“イケメン”か?」と言いたくなる有名人が、イケメン扱いされていたりするのである。

これは、わたしがイケメンじゃないから嫉妬している、ということではなく、「どうがんばっても」「ひいき目に見ても」“イケメン”とは言いがたい人が、事実、「イケメン」ということになっているのだ。



これだけじゃない。ほかにもたとえば、メンズのヘアスタイルを紹介したムックを見ていると、「モデル」とは言いがたい容姿の人が、なぜかモデルをやっていたりするのである(どういう事情なのかは知らないが)。しかし、なんか見ているうちに、だんだんと「ああ、でもたしかに、イケメン(?)かもなあ……」とも思えてきたりする。

それはもしかすると、そのモデルさんの「整えられた髪型」や「ヘアスタイルのムック」、加えてそこに載っている人たちが、みな「読者“モデル”」であるという「前提」などによって、わたしの「見る」という行為が、無意識のうちに「歪め」られているから、かもしれない(きっとそうだ、きっとそうに違いない)。

これは逆に考えれば、「“見る”という行為は、カンタンに“歪める”ことが可能だ」ということでもある。事実、最近は「雰囲気イケメン」という言葉があって、顔はイマイチでも、その人の雰囲気を「イケメンな感じ」風にすれば、不思議と、しかもだんだんと「イケメン」に見えてくる、なんてことを説く記事があったりするくらいだ。それもお手軽な方法で実行できるのである。だから、ボクもその気になってガンバれば……



――それはともかくとして、「見る」という行為について考え直してみた本書には、一読の価値がある。多少難しいところもあるが、予備知識がないと読めない、というものではない。スラスラ読めてしまう本だ。

ちなみに、この本に出てくる「ものを見ること」について考え方というのは、いまや人文学では主流となっている。難しくいうと、「視覚表象論」とか「文化表象論」とか、そんなジャンルで確立している。で、わたしは本書の次に、『視覚論』(ハル・フォスター編/平凡社ライブラリー)を読んでみようと思っている。



2013/02/09

ブログにおける「自分語り」の素晴らしさ

「自分語り」というのは、おそらく「ネット上で嫌われる行為」ベスト5にランクインするのではないかと思う。べつにこちらから聞いてもいないのに、自分のことを語るというのは、確かにウザい面もあるだろう。

しかしそれは、「リアルにおいては」という条件付きだと思う。ネット上では、むしろ「自分語り」をしてくれるブログの方が、僕は好きだったりする。

「自分語り」というのは、「自分史」の一部分を語ることだ、と僕は思っている。自分のそれまでの体験、そしてそこから得られた、自分なりのものごとに対する考え方――

こういったものがなければ、「自分」を語ることはできない。つまり、「自分」を語るとは、自分の歴史(=自分史)を語ることと、ほとんど同じなのだ。

そういった「個人的な歴史」というのは、一見すると「その人だけの歴史」のように思えるが、実はけっこう、他の人にも当てはまるような、「普遍的」なことだったりする。

実際、僕の経験からの話だが、「自分語り」を積極的にしているブログを読んでいると、そのブログを書いた人のみならず、僕個人にも当てはまることを多々発見できるのだ。




話は若干変わるが、僕は新聞の書評欄やネット上の書評サイトをもとにして、本を買ったことがあまりない。このことに自分で気づいたのは、わりと最近である。しかし、僕自身、本が好きで、こうして本の感想を中心にしたブログを立ちあげている。

にもかかわらず、なぜ、他の書評から刺激を受けないのだろうか。その理由は、そういった書評には、書いた人の「自分」が表れていないことがほとんどで、読んでもおもしろくないからだ。つまり、取り上げた本をダシにして自分語りをするということが、ほとんどされていないのである。

その本を読んで、その人が思ったことや感じたことをそのまま書いてくれればいいのに、と思うところを、わざわざ衒学的に書かれてあったり、無理に小難しく言い回してあったり、というのが、新聞の書評や書評専門サイトには多い気がする。

もっと気楽に、本をダシにして「自分語り」をすればいいのではないか、と思うことがしばしばだ。それに、わざわざその本にどんなことが書かれてあるのか、詳しく説明しなくとも、その本の目次を見れば、何が言いたいのかはすぐに見当がつく。




ネット上で「自分語り」をすることは、必ずしもリアルの世界と同じように、マイナスに働くわけではない。なぜなら、そういった「自分語り」している人が嫌いな人は、そもそもそういったブログを見ないからである。

リアルの世界のように、ネット上では「人付き合いで仕方なく、その人の“自分語り”を聞かないといけない」といった状況になることはない。「嫌なら見なくていい/やらなくていい」が、ネット上では簡単に成り立つのだ。

つまり、ネット上での「自分語り」はマイナスに作用しないのである。むしろ、プラスに働くことのほうが多いと僕は思う。にもかかわらず、「自分語り」をためらう人が、わりと多いように見受けられる。

これは、日本流の「個を出さない」という教育のタマモノだろうが、それに加えて考えられるのが「客観的」というものに対する、ある種の「信仰」である。

学校の時の作文や論文を書くときなど、ぼくたちは「“客観的に”ものごとを述べなさい」とよく言われてきた。特に、高校生以降になると、こうしたことをよく言われるようになる。とにかく「客観的」であることが、なにか「良いこと」のように吹き込まれてきた感が、僕には強い。

一方、「自分語り」とは、そういった「客観的」なるものとは対極に位置するものだ。「自分」のことは、一見すると、どれも「主観的」なもののように感じるから、その人にしか当てはまらない、その人にしか役立たない――そういった見方というか信仰というか、そんな考えが「自分語り」という行為には向けられているように感じる。

しかし、さきほども言ったように、僕の経験からすると、ある人の「自分語り」にも、他の人に通じる「普遍性」があるのだ。決して、「その人のなかだけで終わる話」ではないのだ。そこに書かれてある「自分語り」は、読み方を変えれば、いくらでも「私個人」のものにすることができるのである。




僕が、「自分語り」のブログだけに限らず、身辺雑記的なエッセイが好きなのも、そういった理由からである。

特に好きなのは、中村うさぎさんのエッセイ(『愛という病』など)だが、彼女の個人的な話には、笑えるおもしろさも、「普遍性」も含まれている。決して、「中村うさぎ個人のなかだけで完結する話」ではない。うさぎさんの「自分語り」を、そのまま僕の「疑似体験」として、変化させることができるのである。

無論、彼女はプロの物書きだから、素人の書くブログと同列に語るのは無理があるだろうし、うさぎさんにも失礼なことだろう。しかし、プロのエッセイにせよ、素人のブログにせよ、「“自分語り”には“普遍性”がある」という点においてはどちらも共通している。違うのは、「自分」というものの「語り方」である。

そんなわけで、いま僕自身の、あらゆるブログに対する願望は、「みんなもっと、自分語りをしてくれたらいいのに」である。リアルではしづらいからこそ、ネット上ではやれるのだし、やる価値があるのではないかと思う。「自分語り」というものは。



2013/02/07

「みんな」という“暴力” ― 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]
(2009/02/27)
坂井真紀、ARATA 他

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レンタルショップで発見。

私は、あの有名な「あさま山荘事件」をリアルタイムで見ていた人間ではない。だから当時、世間を大きくにぎわせたこの事件が、どんなものだったかを知りたいという欲求から、レンタルしてみた。



映画はだいたい3時間。

最初の30分ぐらいまでは、「日本の学生運動とは何だったのか?」という説明。

そこからおおよそ2時間、いわゆる「連合赤軍」(あさま山荘事件を起こした学生主体による軍隊)がどのようにでき上がっていったのか、どんなことをしていたのかという描写が続く。ここがこの映画のメイン。

そして最後の30分。あさま山荘での連合赤軍と警察との攻防戦。学生たちは結局逮捕される。


そして感想は?というと、いつもどおり、問答無用ですごくおもしろかった

さっきいった2時間の部分で、あの事件を起こすまでに、連合赤軍がどんなことをしていたのかが、映画のなかに出てくるのだが、一言でその内容をいってしまえば「リンチ・オンリー」である。そしてそれがすごく「イヤらしい」のだ。

まず、連合赤軍のトップ2人(森恒夫と永田洋子)が、「共産主義化」というのができていない軍のメンバーを見つける。

共産主義化――かなり簡単にいうと、連合赤軍の「考え方」に染まることだ。この「共産主義化」が“徹底”されていないヤツは、トップにイジられたり、ほかのメンバーからトップに密告されたりするのだ。

そして、吊るし上げられた者は「総括」という名のもと、メンバー全員から殴られ、蹴られ、引っ叩かれる。そして、最後は死んでしまう(男女問わず、殴打されたあとの顔がグロかった)。

それで、こうしたリンチのなにが「イヤらしい」のかというと、リンチそのものが徐々に「自己目的化」していくところ。日本に「革命」を起こすという、軍の本来の目的がだんだんと遠のいていき、目的のための「手段」にすぎなかった「非・共産主義者」へのリンチが、「真の目的」のようになっていくのである。

そしてさらに「イヤらしい」のが、メンバー全員が互いに「非・共産主義者」でないか、監視しあっているということ。べつに誰からも「監視しろ」とは命令されていないにもかかわらず、だ。


ところで、こういう状況、つまり、


1:「恐怖政治」が組織内で自己目的化していくこと。

2:誰かから命令されたわけでもないのに、メンバー全員がお互いを怪しい者でないかどうか監視しあうこと。


というのは、なにかこう、日本社会において全体的に見られることなんじゃないのか、と私は思う。

こういう構造の「イヤらしさ」は、最初、「お上」に当たるような人が「恐怖政治」をやっていたのに、それをいつしか「みんな」が「みんな」にやるようになってしまっている点だ。

たぶんこうやって、いわゆる「みんないっしょじゃないといけない空気」みたいなものが蔓延し始めるのだろう。しかも不幸なことに、こうした「束縛感」をそもそも作ったのは「お上」なのだ、ということに、もうこうなってしまった時点で誰も「気づけない」のだ。

矢印を使って言い直すと、


「お上」が「恐怖政治」を始める。

「みんな」がそれを恐れる。

「お上」の怒りを買う者がでてこないか、「みんな」が「みんな」を相互に監視しはじめる(みんな恐怖を味わいたくないし、恐怖政治の現場にも立ちあいたくないから)。

「みんないっしょじゃないといけない空気」が徐々につくられていく。

「みんな」が「みんな」を相互に監視しあっているから、この「みんないっしょじゃないといけない空気」を壊した者は、「みんな」から制裁される。

「みんないっしょじゃないといけない空気」が、より「強化」される。

こうして「お上」による「恐怖政治」は、いつの間にか「みんな」による「恐怖政治」へとすりかわっていく。



だいたい、こんな感じだろうか。

そう考えると、この映画の中で連合赤軍がやったことというのは、僕たちの日常のなかにもそれと似たようなことが見られるのではないか、と感じる。つまり、こうした事例というのは、連合赤軍だけの問題ではないと思うのだ。

殴る蹴るの肉体的な暴力ではない、「恐怖」という精神的な暴力。そしてそれを引き起こしているのが「お上」だけではなく、「みんな」であるということ――つまり、「みんな」という存在も、「みんないっしょ」という「空気」も、ひとつの「暴力」たりえる、ということだ。

ちなみに映画では、こうしたリンチされるシーンが、ほかのシーンよりも圧倒的に多く描かれている。もしかしたら、若松孝二監督は、こういうシーンを多く撮ることで、「みんな」という「罠」がいかに根の深いものかを、表現しようとしたのかもしれない。

そういう意味で、すごく示唆に富む映画だった。
2013/02/04

モノ作りは、行き当たりばったりでいい ― 『映画道楽』

映画道楽 (角川文庫)映画道楽 (角川文庫)
(2012/11/22)
鈴木 敏夫

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ジブリ映画が大好きなので、手にとった一冊。

ジブリプロデューサーで著者の鈴木敏夫が、ジブリ映画の魅力と苦労話、企画の裏側、若いころに影響された作品、現代アニメ論、プロデューサーとしての哲学、「そもそも創作とは何か?」などを存分に語っている。

この中で特に気になったのは、日本と西欧のモノづくりの違い(太字は私)。

海外の場合、例えば教会を作るとして最初は空から見た視点で全体の形を考えるんです。教会だったら、十字架ですね。その全体を考えてから、部分を作っていく。ところが、日本では江戸時代の武家屋敷がいい例なんだけど、全体の設計図はないんです。まず、一つの部屋から考え始める。床の間を最初に作るとします。すると、その床柱をどうするか。棚はどう付けるかといった部分的な装飾やデザインから始めるんですよ。それを作っているときには、全体のことなんて何も考えていない。(中略)つまり、海外が「全体から部分へ」だとしたら、日本は「部分から全体へ」であると加藤さんは言っているんですね。(p.221-222)

注:「加藤さん」・・・加藤周一(評論家)のこと。

こうした違いは、アニメ制作の現場でも見られると鈴木はいう。

たとえば、まずはひとり、キャラクターを作る。男か女か。どんな服を着せるか。髪型やその色はどうなっているかetc etc etc……。そういった細かい部分から、まずは考えるらしい。物語の構成や仕掛けなどはそっちのけで。

そして、キャラクターが決まると、ようやく本題の物語はどうするか、という話に入っていくそうだ。一方、西欧はまったく逆で、最初はストーリー作りから始めるという。

いやいや、こんな違いがあったなんて知らなかった。僕はてっきり、ストーリーから練っていって、それからキャラクターとか配色とか、そういった細部へと進めていくものだと思っていた(とはいっても、そういう場合もあるのだろうけれど)。

でもこうした日本の作り方、なんとなくだが、読んでいて「確かにこっちのほうが作りやすそうだし、楽しそうだなあ」と感じた。日本流の「部分から全体へ」方式のほうが、僕はピンと来るのだ。

というのも、アニメや建築ではないけれど、自分が文章を書くときも、この「部分から全体へ」といった感じだからである。

僕は文章を書くとき、「いまからコレとコレとコレについて書こう、それで最後はこんな感じで締めよう」などと考えていない。むしろ、「なんか書きたい気持ちはあるんだけれど、なにをどんなふうに書こうか?」ぐらいの状態で始まるのがほとんどだ。

本の感想だったら、「この本のココが面白かった。だからココを取り上げて書くか」といった感じで書き始める。決して、「こうして、ああして、こうやって、ああやって・・・」というふうには頭は回らないし、やっても僕なら失敗する。だから、書くときは行き当たりばったりで、ただただ指にまかせてキーボードを叩くだけ。

映画の感想ならもっとテキトーで、「ああ、この映画、最高だった。さて、どんな感想書こうか。イマイチ思いつかないけど、パソコンの前に座ればなんか思いつくか・・・」ぐらいの気持ちで書いている。

そういえば、大学時代の卒論もそんな感じで書いていた。

とりあえず、かなり漠然と「◯◯について書きたい」という気持ちはあったけど、だからといって、きちんと「まずはアウトラインをしっかり決めて、次に××について調べて、それから・・・」などとはやらなかった。第1章から、ではなく、だいたい第3章あたりから始まりそうなこととかをいきなり書き始めた。とにかく全体像とか章立てとか、そんな「こまけえこたあいいんだよ!!」といわんばかりの感じだったなあ。

こんな超個人的事例から、無理やり日本人全体へと一般化させてもらうと、なぜ日本人の間で「合理精神」とか「論理的思考」とか、そういった概念が歴史的に見て乏しかったのか納得できる

要するに、みんな「フラフラっとやる」「チマチマとやる」のが好きというか、得意というか、そういう国民性なのだと思う。昔から「形から入る」という言葉があるように。

他方、きちんと計画を立ててから行動に移す人がよくいる。

最近見た何冊かの自己啓発書(ビジネス書?)の中で、「キャリアプランはしっかり作るべき」みたいなページがけっこうあった。「1年後には◯◯の資格を取得し、5年後までには××へ留学して、10年後までには独立して・・・」といった感じだった。

すごいな、熱心だなと感じる。でも、僕には疲れそうだ。なんかこう、ガッチリと予定や目標を組んでしまうと、自分だったら息が詰まってしまうからだ。

その都度その都度、部分的に対処していくっていうやり方でもいいのではないか。僕はそう思っている。そういう「手法」じゃマズイ場合や、通用しない分野ももちろんあるけれど、少なくとも「人生」という分野は、そういうやり方でやっていってもいいのではないだろうか。「人生像」とか「ライフプラン」とかいう「全体」から考えるのではなく、とりあえず「今日は何しようか?」とか「1ヶ月はこんな感じになってたらいいな」ぐらいの、「部分」的な発想で

と、気づいたら最後はどうでもいい人生論になってしまった。これも「部分から全体へ」方式を取ってこその仕上がり、というものだろう。

とにかく、この本は面白かった。



2013/02/02

「ひきこもり」で何が悪い ― 『ひきこもれ』

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)
(2006/12/10)
吉本 隆明

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僕はひきこもりがちな人間だ。遊ぶとなると、たいてい選択肢は、家で本を読むか、DVDを見るか、ネットをするかの3つである。

そんな性分だから、タイトルに惹かれて本書を買ってしまった。世間は一般的に「ひきこもりは良くない」とか、「ひきこもりは社会不適合者だ」とか、そういった見方をする。が、吉本隆明はそうではない。

吉本によると、ひきこもることは、自分の中に「価値」をつくることだという。誰とも会わない。誰とも話さない。ただひたすら孤独になっているだけだが、そうすることで色々なことを、ひとりで黙々と考えるようになるのだという。

ひとりで黙々と考えるようになると、人とは違った価値観を持つようになる。人とは違った物の考え方をするようになる。それが、その人の「価値」になるのだと吉本は言う。

みんなといると、どうしてもその場の、目には見えない「みんなの論理」に従いがちだ。みんながそうするから自分もそうする。というか、せざるをえない。みんながそう思っているから自分もそう思う。というか、思わざるをえない。これでは、僕の思考が「みんな」の“奴隷”になってしまう。こういうのが僕は本当に嫌で、だから大学にいた時はほとんど毎日ひとりで過ごしていた。

そのせいで、さみしい思いもした。周囲を見渡せば、美人な彼女をつれて歩くカッコイイ男がいる。別の方向に目を向ければ、5~6人の男女が集まって楽しそうにワイワイと話をしている。しばしば、そういう光景を目にしてはヤキモチを焼いたりもした。時には、「俺は孤独なんじゃない。“孤高”なんだ」などと屁理屈めいたことを自分に言い聞かせることもした。

今の言葉で言えば、いわゆる「リア充」というヤツではなかったと思う。しかし、それは傍から見ての話だ。つまり、僕の「外面」が「リア充」には見えなかった、というだけである。しかし、嫉妬やさみしい気持ちになることもあったけれども、「内面」は「リア充」であったことは今でも自負している。

ひとりの時間、僕は図書館と本屋にしかいなかった。そういうところで「ひきこもり」をしていた。サークルには入っていなかったし、バイトもまじめにやっていなかった。

授業には出た。出ないと欠席で落とされるし、試験の連絡も入ってこないからだ。けれど、所詮、大学の授業なんて教師の「趣味」みたいなものだし、僕はまじめに聞くというより、テレビ番組を暇つぶしに見ているぐらいの「娯楽」にしか考えていなかった。だから、授業がなくなったら、とにかく本屋と図書館に足を運んだ。そこで、色々なことを感じたり、考えたりしていた。そういった形の「ひきこもり」をやっていた。

この本にすごくシンパシーを抱いた理由は、おそらくこうした経験が僕の中には多かったからだと思う。だから、畏れ多くも「僕と吉本は似ている点が多いな」とも思った。どちらも、内に引きこもりがちな性格は共通している。

それから、吉本はこの本の中で「物書きを始めたのは、ひきこもりがちな性分だったからだと思う」と書いている。引きこもっていて、社交的ではないから、人にうまく口で伝えられない。だから、物を書いてそれを人に読んでもらえばいい――そう思って、物書き屋になったのだという。

彼の場合、職業として物書きをやっていたわけで、そのところ僕は趣味として物を書いているから違うのだけれど、それでも「物を書く」という点は一緒だ。

僕は、よく物を書く人というのは、根本的に世の中や他人に対して、多少なりとも何らかの不満なり不快感なりといった、「欠如感」(何か満たされていない感覚)を抱いている人だと思っている。

かく言う僕もそうである。とにかく何か書いて、言いたいことを言う。そうやって憂さを晴らさないと気が済まない。僕は大学時代、文学部にいたが、文学者は気難しい人が多かった。その理由は、文学をする(=広い意味で、色々と物を書く)人は、そもそもこうした「欠如感」を抱きがちだからなんだと思う。

そういう点で、僕はやはり物を書くという行為は「格好悪い」と感じる。見た目が地味でパッとしないから、という外面的な理由もあるけれど、さっき言ったような「欠如感」を抱いているから、という内面的な理由からそう感じる。できれば書かない方がいい。しかし、書かずにいられない、そんな自分が嫌いじゃなかったりもする。

話がだいぶ逸れてしまったが、とにかくそうやって物を書いたり、図書館にいたり、本屋にいたり、という生活を大学生の時に送った。

ここから何を得たか。それはよくわからない。はっきりとわかるのはまだ先になってからかもしれない。ただ現時点で、漠然とした感覚からではあるが、あの頃そうした生活をしていたことが、就職活動の時だったり、悩みの切り抜け方としてだったり、また今はブログを書くことだったりに生きている(生きた)なあと感じる。

「だからなんだ」と言われればそれまでかもしれないが、少なくとも、ひとりでいることをあまり苦に感じなくなった。「他人に物を考えてもらう」のではなく、「自分で物を考える」ようになった。長い文章を気軽に書けるようになった。本を読むにせよ、映画を観るにせよ、またどうということもないテレビ番組を見るにせよ、そこに隠れている「構造」というか「仕組み」というか、そういったものを読み解いて、それを何かに応用したくなる、そんな人間になった。

こうしたことがすべて、僕の「価値」になったのだと思う。無論、失ったものも少なくない(そのぶん、女ウケが悪くなったとか、外見が格好良くなれなかったとか)。しかし、それはそれでよかったかもしれないと今は思っている。

ひきこもれるのなら、ずっとひきこもっていたい。僕は本当にそう思う。でも生きていくためには働かないといけない。だからとりあえず外に出るのだけれども、それでも最低限度でいいと思う。いつもいつもコミュニケーション上手で、社交的である必要はまったくないだろう。そんなことよりも、自分の中に「価値」を醸成することのほうがずっと大事なのだから。

2013/01/31

承認欲求地獄 ― 映画『ユダ』の感想

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公式サイトはこちら

日曜の朝にやっているテレビ番組「サンデー・ジャポン」で宣伝されていたので観に行った。原作は『ユダ』(幻冬舎文庫)という同名の本だ。

マイナーな映画らしく、公開している劇場が限られている。私は「新宿ミラノ」で鑑賞した。散漫なところも多少あったが、役者も良く、すごく面白かった。いい映画だったと思う。

内容は、元歌舞伎町ナンバーワン・キャバクラ嬢、立花胡桃の半生を描いたものだ。


高校生だったその冴えない少女は、ある晩、とある男からキャバクラ嬢をやらないかと誘われる。短期間、好きな時だけ働けばよく、金に困ってもいたため、胡桃はその仕事に踏み込むことにした。

しかし、気がつけば歌舞伎町で、しかもナンバーワンの指名率を勝ち取るまでになる。だが、それも長くは続かなかった。金と欲望、一時の友情と裏切り、そして偽善が徐々に彼女を狂わせていく。


私はキャバクラという所に行ったことがない。昔、あるバイト先の上司に、そこへ連れて行ってもらえそうにはなったが、その時は時間が時間で、結局行きそびれてしまった(今もけっこう後悔している)。

そんなわけで、キャバクラそのものへの関心と、キャバクラ嬢をやる女の子たちの心理とはどのようなものかを知りたいという理由から、この映画を観に行った。

キャバ嬢という仕事は、相手の男に、「しばらく会えなくて寂しかった」とか「今度はいつ来てくれるの?」とか「今日は誕生日だね、おめでとう!」とか言って「営業」するものの、それはすべては男の承認欲求(相手に「認められたい」「好かれたい」といった気持ち)を満たしてリピーターにするためなのだと鑑賞前は思っていた。

つまり、「相手(男)の承認欲求を満たしてあげる」ことが最も重要視される仕事なのだとわたしは考えていた。

ところが、映画を観ていて気づかされた。実はキャバ嬢の女の子たちも、男たちによって承認欲求を満た「され」ているのだ。たくさんの男たちから指名される。徐々に位が上がっていく。それは紛れもなく自尊心(承認欲求)が満たされることを意味する。

映画では、キャバ嬢たちが休み時間中のお喋りで、「男なんておだててナンボ。笑顔も好意も全部“営業”」という赤裸々な話をするシーンが出てくる。それはそれで確かだろう。

しかし、そんな彼女たちであっても、笑顔も好意も全部「営業」で、おだててナンボの野郎たちがいなければ、自らの承認欲求を満たすことはできないのだ。



鑑賞途中でこのことに気づかされ、すごく切ない気持ちなった

お互い、多かれ少なかれ相手を見下す感情がそこにはあると思う。一方は他方を金ヅルと見なす。その他方は相手を、肉体的にも精神的にも征服したい欲を持つ。そんな両者を結びつけるのは金銭のみ。

そしてその金銭を媒介に、彼・彼女たちは自らの自尊心・虚栄心を満たそうとし続けるのである。

しかし当たり前ながら、そのような方法で承認欲求を満たし続けるやり方は、いずれ破綻する。胡桃と親しくしていた男たちは借金や警察に追われるハメになり、彼女も昔から接待していた冴えない客に本気にされ、襲われてしまう。昔の勤め先の先輩からの助言もあり、最終的に胡桃はこの仕事を辞める決意をする。

当初、胡桃と接待客との“win-win”だった関係は、次第に“lose-lose”の関係へと転落していくのだ。

結局、金で「認められたい」「好かれたい」という気持ちは、完全には満たされない、満たされた気にはなっても、それは一時的なものにすぎない、というシンプルな結論に落ち着く。シンプルではあるけれど、どこかで何かを間違うと、この「事実」を忘れるのだろう。

そういう意味で、キャバクラは「怖い」ところだ。ヤーさんが運営しているかもしれないから怖い、という意味ではなく、キャバクラにハマりすぎてこの単純な「事実」を忘れるかもしれないから怖い、という意味で。

以前ネットで、「女の子が就きたい職業」にキャバ嬢がトップテン入りしていたとかいうニュースが話題になった。しかし、この映画のことを考えてみて、改めて感じた。

無理もないかもしれない。だってなんだか、自分の自尊心や、「私はこの店に必要とされている」という感覚が満たされそうな雰囲気がするのだから。しかも高給取りだ。危なそうな感じもするけど、「おいしそうな」匂いもする。

もし、そう感じている子が近くにいたら(実際はいない)、私はこの映画を観ることを薦めようと思う。キャバ嬢の世界は「けっこう大変」だということを知らせるためには、格好の「教材」だから。



ところで、タイトルについてだが、「ユダ」とは、新約聖書に出てくるあの「ユダ」のことである。十二使徒の一人だが、彼はイエスを敵に売った背信の徒だ。

つまり、裏切り者である。そんな彼に、作者の立花は自分をなぞらえてタイトルを『ユダ』にしたのだろう。別に、この物語はキリスト教とは一切関係ない。そんなわけでこの映画(本も)は、かつての自分が「ユダ」であったという告白、そしてそんな自分を描くことで今の自分を戒めるための、立花胡桃による「懺悔録」とも読めそうである。


ユダ〈上〉―伝説のキャバ嬢「胡桃」、掟破りの8年間 (幻冬舎文庫)ユダ〈上〉―伝説のキャバ嬢「胡桃」、掟破りの8年間 (幻冬舎文庫)
(2010/11)
立花 胡桃

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ユダ〈下〉―伝説のキャバ嬢「胡桃」、掟破りの8年間 (幻冬舎文庫)ユダ〈下〉―伝説のキャバ嬢「胡桃」、掟破りの8年間 (幻冬舎文庫)
(2010/11)
立花 胡桃

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2013/01/28

私がツイッターをやめた理由

昔、私もツイッターをやっていた。
動機は、大したものではない。なんか流行っているし、ブログの宣伝にもなりそうだし、個人的な興味もあったので始めたのだ。

実はツイッターもブログと同様、私は3回ほど、始めてはやめ、始めてはやめ、を繰り返した。そして今は“きっぱり”やめることにした。

なぜツイッターを“きっぱり”やめることにしたのか。理由は3つある。


1:「普通の生活」をしている自分には、ツイートすることが何もないから。

2:考えていること(考えたこと)は、「一度に」「まとめて」文章にした方がいいと思うから。

3:自分が何かをツイートするよりも、人のツイートを見ている方が楽しくて楽だから。




1について


ツイッターをやめた理由の70%は、1の理由からである。ツイッターを色々とイジってみた挙句、結局普通に生活をし、普通にインターネットをする私にとっては、何かを見てつぶやく(べき)ことが何もなかったのだ。

本当に、何もない。例えば、2chのまとめサイトを見てつぶやくことは、過去に何度もあった。が、そのうち「別に自分がつぶやかなくても、他の大勢の人がつぶやいているのだから、わざわざ自分がそうする必要などないじゃないか」と思うようになった。

別に2chのまとめサイトに限らず、他のブログ記事についても同じである。私がつぶやこうと思う記事は、決まってもうすでに誰かが(しかもたくさんの人たちが)ツイートした後なので、つぶやく必要性がまったくと言っていいほど感じられないのである。

こうなってくると、「じゃあ、自分の身辺のことでもつぶやくか」となってくるかもしれない。しかし、どこの誰かも分からない人の身辺についてのつぶやきに、何の価値があるのだろう。「お腹が痛いなう。電車なう。ピンチなう」とか、「今日のお昼はイタリアン!デザートは別腹。旦那には内緒」とかつぶやかれても、フォロワーにとっては迷惑だろう。

というわけで、ネットの記事にせよ、身辺情報にせよ、私には何らつぶやくことや、つぶやく必要性が、何ひとつなかったのである。



2について


これは、ツイッターを“きっぱり”やめて、ちょっとしてから気がついたことだ。

自分が考えていることは、(自分だけの秘密にするにせよ、他人に見せるにせよ)ある程度まとまってから、ある程度分量のある文章にした方がいいのではないか、と私は思っている。だからツイッターはやめても、ブログはやめないのだ。

というのも、ツイッターでその都度その都度、つぶやくという行為は、自分の思考を途中で「裁断」してしまうことに気づいたからである。つぶやけばつぶやくほど、自分の頭の中でおこなわれることが「思考」ではなく、「細切れ」にされた、ただの「思いつき」ばかりになっていきそうだからだ。

「ツイッターに限らず、ブログだって所詮、思いつきの垂れ流しのようなものじゃないか」という意見もあるだろう。確かに、場合によってはそういう面もあると思う。しかし、ブログはツイッターと違い、字数制限がない。とにかくキーボードを叩いて、たくさんの文字が打ち込めるのだ。この「たくさんの文字が打ち込める」というのは、思考がよどみなく動き続けていることの表れである。

そしてこうした動きは、非常に自然なものだ。思ったこと、考えていることがどんどん膨らみ、溢れるように出てくる。途中でその「勢い」を終わらせてしまうことが、非常にもったいなく感じる。おそらく、文章を大量に書いている人には同じ体験があるのではないだろうか。

つまるところ、これが「思考」なのだと思う。一方、「思いつき」というのは、パッと現れ、パッと消えていくような、そういった刹那的なものだ。“断”続的、といってもいい。

ツイッターは、こうしたよどみなく続く思考の流れや発展していく状態を、「字数制限」という装置によってストップさせてしまう。「だったら、連続ツイートすればいい」ということになるが、なぜ140字の時点になったら、自分の思考の流れをストップさせるような媒体を、「わざわざ」使わなければならないのか。それなら始めから、ブログの方が便利ではないだろうか。

別に、私はツイッターがブログよりも劣った道具である、などとはこれっぽっちも思っていない。そうではなく、絶え間なく続く思考の流れをわざわざ止めてしまう性質がツイッターにはあるのだから、少なくとも、その「絶え間なく続く思考の流れ」を重視したい“私にとって”は、ツイッターよりもブログの方が合っている、というだけの話である。決して、ツイッターには何の価値もない、ということではまったくない。



3について


これも自分がツイッターをやめてから気がついたことだ。過去のつぶやきを見て、私基準で「この人は有用なことをつぶやく可能性が高い」と思った人のツイッターを覗くことが、私にはぴったりだと感じるようになった。

「有用なこと」とは何か。これは一概には言えないだろう。先ほどの、「お腹痛いなう」とか、「今日のお昼はイタリアン」とかは、とりあえず「有用なこと」ではないはずである。

私が思う、私にとっての「有用なこと」とは、社会批評の記事とか、書評とか、一風変わった自己啓発系のエントリーなどの紹介だ。

そういったものを、ひたすらツイッターで紹介してくれる人は、非常にありがたい。いつもいつも「今日はどんなことをツイッターで紹介してくれるのだろう」と期待しながら、その人のツイートを見てしまう。

問題は、そういう人がどのくらいいるのか、そういう人に出会えるのか、である。幸い、私はそういう人を見つけた。決して有名人ではないが(有名人でもつまらないことばかりつぶやいている人は大勢いるが)、私の基準に照らして非常に「有用なこと」をつぶやいている。素直に、ありがたいことだと思う。

以上3つ、私がツイッターをやめた理由を書いてみた。こうして見ると、ツイッターをやめたとか何とか言いながら、結局ツイッターについて色々考えている自分がいたのだなあ、と思う。つまり、なんだかんだでツイッターと「間接的に」関わっていた、ということか。そういう意味で、本当はツイッターを「やめていない」のかもしれない。

話は若干変わるが、押井守の『コミュニケーションは、要らない』(幻冬舎新書)が出版された時、その本のオビには「つぶやけばつぶやくほど、人はバカになる。」と書かれてあった。買いはしなかったが、かなり強烈な文句だったのでそこだけは覚えている。

しかし、あながちウソでもないかもしれない。言い得て妙だとも思う。先ほども言ったとおり、ツイッターは、自分の思考を「細切れ」にしそうな感がある。長時間、じっくりとものを考える、ということをおろそかにしそうだ。何かを見てすぐに反応し、何もよく考えずにツイートばかりしていれば、「バカ」になるのは間違いない。

誤解されないためにもう一度言うと、私はツイッターを使うことや、つぶやくことがダメだと言っているのではない。そうではなく、いつもいつも、大したこともないのにツイートしまくったり、じっくりと考えずに即時的にネットにものを書き込んだり、ということに危なさを感じるのだ。

とはいっても、これはブログや他のSNSにも当てはまることだろう。私も注意しなければ。


2013/01/26

私は、本とDVDに「選ばれ」る ― 『選ぶ力』

選ぶ力 (文春新書 886)選ぶ力 (文春新書 886)
(2012/11/30)
五木 寛之

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近頃、五木寛之の健康観に関心がある。きっかけは、『養生の実技』を読んでだった。

おもしろい本だ。いま手持ちの本のオビには、「つよい心身(カラダ)が折れるのだ。」とある。五木によると、心や体は屈すること、萎えること、曲がることが大事なのだという。

嫌なことはイヤこととして捉えろ、無理にポジティブに捉えようとするな、それよりもグッタリして、ゲンナリして、またそこから徐々に起き上がればいい、ということだ。

本書も五木流の健康観や養生法が出てくる。しかし、基本的に前著と中身は同じ。それよりも、私にとっておもしろかったのは「本とDVDを選ぶ」の章だった(引用部分太字は私)。

そして現在では、DVDをみる時間が、ほぼ活字を読む時間に拮抗している。(中略)DVDといっても、最近は驚くほど幅がひろい。AVからドキュメント、専門的な学問の講義から宗教儀式まで、あらゆる分野の映像が揃っている。DVDをみることは、現代の読書であると思うようになった。(p.61-62)

最近になり、私もDVD(主に映画)をよく観るようになった。中でも社会派の映画が好きだが、今はなるべく色々なジャンルのものを観るようにしている。

ギャンブル映画やヤクザものなどもいい。自分の知らない世界や、裏社会がどういうものなのかを手頃に知ることができる。そういう疑似体験は大切なのだと、今は考えるようになった。

そういう意味で、五木の「DVDをみることは、現代の読書である」という意見は、ものすごくうなずける。本を読むのも、もちろんよい。だが、今はいまでDVDという便利な「本」がある。

それに、従来の本と違って「映像」があるのだから、インパクトは圧倒的にこちらの方が強い。頭に焼き付きやすい(=記憶しやすい)のは、確かだろう。

そして本章の最後に、こんな一節が来る。

私たちは、本にせよDVDにせよ、それを選ぶときに一定の基準などないのである。それはノウハウではなく、出会ったということなのだ。世の中、偶然や気まぐれして面白味があるだろうか。私たちは選んでいるようにみえて、じつは見えない何かに選ばれているのではあるまいか。(p.68)

本書のタイトル『選ぶ力』の「選ぶ」と結びつけた締めの文だ。

自分が何かを選んでいるようで、実は自分もそのものに「選ばれ」ている、か。確かにそうかもしれない。どんなものにせよ、人は自分の知的レベルに合ったものしか選べないのだと思う。

逆に、その選んだものから、「あなたは知的レベルはコレコレですよ」と言われている、という見方もできよう。そう考えると、知的レベルを上げたければ、いままで選ばなかった(選ぼうとしなかった)ものを選べばよい、ということになる。

とはいっても、それが結構難しい。

選ぶことは買うことが前提になっている。お金をかけるわけだから、失敗したくないという意識が働くのだ。DVDはレンタルすればいいとして、本となると高額だ。学術書や専門的な本は、2000円以上なんてザラである。

新書一冊も最近は(内容に見合わず)800円前後が相場である。少ない小遣いでやりくりしている人間にとって、なかなか痛い出費だ。

それでも、知的レベルを上げたければ、金を出すことは必要である。失敗は「授業料」だと思えばいいのだ。そうやって「選ぶ力」が段々とついてくるのだろう。

ところで、本書のタイトルは『選ぶ力』よりも、むしろ『選ぶ』だけの方が良かったのではないか。こっちの方が強烈だ。私だったら、すぐに手に取ってしまう。
2013/01/14

最高のストレス解消法 ― 『仕事日記をつけよう』

仕事日記をつけよう仕事日記をつけよう
(2012/04/04)
海保 博之

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日記の書き方についてだったら、本書を買っていなかった。では、どうして本書を買ったのかというと、日記を書くことの効用を認知心理学の観点から説いていたからだ。

著者の説明によると、心のなかにあるモヤモヤとした感情は、書くことで明瞭化されるのだという。感情を文字にするということは、感情を知性が扱えるようにしてやることだそうだ。それによって、自分自身を客観的に分析できるようになるという。

この効果は、ストレスの対処法に応用することができる。嫌なこと、腹の立つこと、納得のいかないことなど、自分にとってストレスとなっている出来事を書き記し、「なぜ」そう感じるのか、その原因は何なのかなども書いていくことで、そのストレスが発散されていくのだ。

実は私は、このことを以前からなんとなく経験的に知っていた。そこで、なぜそんなことが起きるのかという理由が本格的に知りたくなり、それで本書に行き着いたという次第である。この本以外にも類書がいくつかあったので(今では「筆記療法」なる一分野として確立されている)、どうやらここに書かれてあることは学術的な裏付けもあるようだ。

ブログとは別に、私も日記を書いている。Wordを使い、一ヶ月分書き溜めたらそれをPDF化して後で見返せるようにしている。

日記の良いところは、誰にも見られないから、どんなにひどい鬱憤や悪口を書いてもまったく大丈夫な点だ。いくらネガティブなことを書いても、誰からも文句を言われないし、ブログのように「炎上」することもない。当たり前と言えばその通りだが、この「当たり前」はかなり貴重である。

もし、こうした愚痴を実際の対人場面でこぼしたらどうなるだろうか。仮に相手が黙って聞いてくれても、内心ウンザリしているに違いない。自分の印象も悪くなるかもしれない。そう考えると、トラブルも起きず、何も「反論」されない日記という「秘密の告白の場」は、何かと人間関係に悩みがちな現代人にとって、最高のオアシスではないだろうか。

ところで、よく、日記というと「毎日書かなければ」といった強迫観念のようなものを抱いている人がいる。実は本書も毎日書くよう説いている。しかし、私は別にそんな必要はないと思う。不満を抱えている時、無性にイライラしている時、感動した時、何か書きとめておきたいことがある時など、そういう場合のみ書けば良いのではないだろうか。毎日毎日書くこと(書きたいこと)なんて、そんなにあるものではないだろう。疲れた時や忙しい時ならなおさらである。

最近は、ブログを日記にしている人も多いようだが、個人的にそれはオススメしない。「炎上」の恐れや、人の目を気にしてしまうがゆえに、本当に書きたいことが書けなくなってしまうからだ。なんでもかんでも人に見せればよい(あるいは、見てほしい)と考えるのも、どこか危険な感じがする。プライベートなことは、やはりプライベートな空間の内に留めておく方がよい。

色々と思うままに書いてきたが、とにかく日記を書くことはオススメだ。自分自身をよく見つめたい時、日記を書くことは自己反省の最高の場となるからである。
2013/01/06

「常に戦う」「絶対に負けない」「正義のために」というファンタジー ― 『フェア・ゲーム』

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(2012/03/02)
ナオミ・ワッツ、ショーン・ペン 他

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普段、映画を二度見することはないのだが、この映画は例外だった。かなり楽しませてもらった。

以下、本映画のあらすじ。

CIAの諜報員であるヴァレリー(女性)と、元アメリカ大使の夫のジョーは、9・11後、イラクの核開発を調査するも、そこでは核開発はなされていないという結論に至った。しかし、アメリカ政府は彼らの報告を信じず(「信じたがらず」と言った方が正確だろうか)、結局イラク戦争に踏み切ってしまう。「真実」を知っているジョーは、アメリカ政府を厳しく批判。ところが、これに腹を立てた政府上層部はヴァレリーがCIAの諜報員であることを世間に暴露してしまうのだ。見知らぬ人間たちから数々の嫌がらせを受けながらも、彼女たちは屈せずに政府と戦う――おおよそ、こんなストーリーである。ちなみにこの作品は実話に基づいているらしく、ヴァレリーもジョーも実在の人物である。

それにしても、アメリカのエリートは優秀だと私は思っていたのだが、どうやらそうでもないようである。「平和を守るため」なんていうのは、(全くのウソではないにせよ)所詮はタテマエなのであって、本音は「攻撃されたのが悔しくてたまらないから」「徹底的に相手を潰したいから」なのだ。CIAが調べ上げて出した事実がどうであれ、それを理性にもとづいていかに対処するかという考えは、微塵も頭になかったのだろう。

つまり、アメリカは己の「ファンタジー」に固執したかったのである。現実が嫌になると、みな「ファンタジー」に逃げたくなるのは同じかもしれないが、それを国家規模でやってしまったというのは、本当に信じがたい。

ところで映画を観ていて、こうしたアメリカ政府のイラクに対する措置と、ヴァレリーやジョーの行動とには共通点があることに気がついた。それは「常に何者かと戦う(戦いたがる)」という点である。例えば、ヴァレリーの身元がバラされたことを理由に、ジョーが「政府と徹底的に戦ってやる」と彼女に宣言するシーンが出てくる。さらに映画の最後の方で、彼は「自分がおかしいと思うこと、疑問に思ったことは口にしろ、大きな声で叫べ」と、とある講演会で演説するのだ。

ここに、アメリカ人の1つの気質が垣間見られると思う。絶対に敵には屈服しない。何が何でも負けない。勝つまで常に戦い続ける。そういったファイティングスピリットが、日本人に比べて非常に強いように感じられる。さすがは訴訟大国である。

無論、日本人にだって昔は「大和魂」とか「欲しがりません、勝つまでは」みたいなことを叫んでいた時期はあった。「大和魂」は今でもスポーツの試合などで耳にする。しかし見ていると、どうも本当は戦々恐々としていて、でも敵にそのことを悟られたくないから、とりあえず「形」だけ、言葉の上だけ強そうに見せておけばいいや、というのが事実なのではないか。アメリカみたいに、本気で敵が憎くて、何が何でも相手を負かさないと気が済まないといった、執念や怨念のようなものはほとんど感じられない。

強烈なファイティングスピリットに加えて、「正義」(justice)という言葉も、アメリカ映画やアメリカ人の口からよく見聞きする。「正義を守る」とか「正義のために戦う」とかいった形でだ。一昨年流行ったサンデル教授の本も、そのコアには「正義」があった。「正義」とは何か、どうすれば「正義」であり続けることができるのか、それが「サンデル本」のメインテーマだった。一方、日本で「正義」「正義」と言うと、かなり気取った感じが否めない。

総じて、アメリカでは「ファンタジー」が非常に好まれるのだろう。「アメリカンヒーロー」というお決まりの言葉がそれを象徴している。きっと彼の国では、みんなが「ヒーロー」になりたがっているのではないだろうか(あるいは、「ヒーロー」であると“錯覚”しているのではないか)。「ヒーロー」は敵に負けないし、「正義」の味方だし、平和も守ってくれる。そして常に何者かと戦い続けている。そういう「ファンタジー」が、どうもアメリカという国には強く根を張っているようだ。

私は、そういったアメリカの国民性(?)というものが結構好きである。日本にそういったものはない(あっても希薄だ)し、また彼らを見ていると時々元気づけられるからだ。

しかし、である。いかんせん、いつもいつもこんな調子では次第に「疲れる」のではないだろうか。いや、確実に「疲れる」。身がもたないのは間違いない(だからアメリカ人はジムに行ってよく体を鍛えるのだろうか)。

つまるところ、常に「ファンタジー」に浸っていると、「体の調子」をおかしくするということだ。最悪な時には「暴走」してしまう(イラク戦争を始めたように)。そして最も厄介なのは、ほとんど全ての人が「ファンタジー」の中にいるから、誰かが現実を見せつけても容易に信じようとしない、あるいは信じたがらない点だ。

以前のエントリーにも書いたが、こういうことに陥らないためにも、普段から「生の現実」をよくよく観察しておく必要があると思う。現実を直視するというのは確かにつらく難しいことだが、あらぬ方向へと「暴走」する時というのは、総じて「ファンタジー」に入り浸っている時である。
2012/12/27

なぜ私は文章を書くのか

今年(2012年)も残すところ、わずかとなった。そして同時に、このブログも、始まってからおよそ2年が経とうとしている。実は、このブログ以前にも別のブログをやっていたのだが、ほとんど続かず、すぐに潰してしまった。だから今、このブログが奇跡的に「生存」していることに、嬉しさを感じている。

ところで今、私はこのブログにアクセス解析を取り付けていない。理由は、たぶん誰も読みに来ないだろうと思っているからだ。別に自虐でも謙遜でもない。面白いことなど何一つ書いていないし、いつも何だか中途半端な「読書感想文」で終わってしまっているなと反省している。

それに、仮に取り付けたとしても、訪問者数のあまりの少なさに、きっとめげてしまうであろうことも自覚している。こういう理由から、私はアクセス解析を取り付けないことにしている。

それなら、「日記」で物を書けば良いではないか、という話になってくる。なぜ、「日記」ではなく「ブログ」という形式で物を書き続けているのか――それが実のところ、自分でもよく分かっていないところがある。無論、ぼんやりとした理由として、「何だかんだ言っても、やっぱり誰かに自分の書いたものや、自分の考えを読んでもらいたい」という子供じみた自己顕示欲から、というものと、「奇跡的に、何十年後かまでにもこのブログが残っていたとして、その時それを自分の“思い出”として読みたい」という淡い想いから、というものがある。

しかし、“本当に”こうした動機でブログをやっているのだとしたら、もっと積極的にブログの更新をしているんじゃないか、また、もっと積極的に他の人たちと交流しているんじゃないか(ツイッターを使ったり、相互リンクしたり、など)と思っている。

にもかかわらず、ツイッターは(昔はやっていたが)今はやっていないし、以前、自分の書いたものを投稿していた書評サイトにも、今は投稿するのをやめている。つまり、一方で人と簡単にコミュニケーションが取れるネットの世界で物を発表しつつも、人と交流することは“意図的に”避けてしまっている自分がいたりするのだ。そのくせ、「誰かに自分の書いたものや、自分の考えを読んでもらいたい」などという感情を持っていたりして、色々な「矛盾」が私の中にはある。

このことについて、少し考えてみた。なぜ私は文章を書くのか。それは、結局「物を書くことで、そこに“私”が存在しているということを、無意識的に確認したがっているから」なのだと思う。

しかも、それがなぜ「ブログ」で、なのかというと、「誰かに自分の書いたものや、自分の考えを読んでもらいたい」という気持ちもあるものの、「“もしかしたら”誰かに自分の書いた文章が読まれているのかもしれないが、その“文章”を作ったのは、他の誰でもない、この“私”であり、それを“他人”が読んでいる。だとしたら、“私”はやはりこの世の中に“きちんと”存在しているのだ」といった、非常に回りくどい「自己確認」をしたがっているからなのだと思う。

こうしたことは、別にブログに限った話ではないだろう。自作の音楽をネットにアップしたり、小説を発表したり、絵を公開したりすることも、どれも先の意味での「自己確認」に繋がると思う。自分の作ったものを人に見せるということは、同時に自分の作ったものを自分で確認している、ということでもある。

そして、自分の作ったものは、どれもすべて「自分のこと」として関わってくる。物を作り、それを他者に見せるのは、どんな場合でも「自己表現」になるのであり、「自己表現」とはすなわち「自己確認」なのだと感じる。つまり、何かを作ることでしか、「自分」とか「私」といったものを確認できない自分が、そこにいるのだ。

そう考えると、文章を書くこと、とりわけそれをブログでやるということは、ある意味「格好悪い」ことかもしれない。また、「精神的に弱い」ことかもしれない。別にわざわざ物を作らなくとも、楽しいことなどこの世にいくらでもある。しかし時々、「自分」の存在(=「自分」がこの世にきちんと「いる」のだということ)を確認したくなる時というのが、私には訪れる。

それで文章を書く、ブログをやる(また時には「日記」という形で)といったことをしているわけだが、そんなことでもしない限り、「自分」を確認することができないことに、やはりどうしても「格好悪さ」「精神的な脆さ」といったものが付きまとってくるのではないかと思うのだ。

文章を書くことで、「何者でもない私」から「文章を書く私」、言い換えれば「何者かである私」に(一時的にではあるが)なれるのだろう。結局、「何者かである」ということによってしか、安心というか満足感というか、そういったものは得られないのだと感じる。だからこそ、そこに拘ってしまう自分の中に「格好悪さ」を見つけてしまうのだ。

しかし、何だかんだ言っても、やはり書くことは私にとって必要なことだし、また書き終えた時の達成感も好きだ(「書いている時」というよりも、「書き終えた時」といった方が正確だ)。だから今後も、ブログを続けていくと思う。ブログ開始から2年目を迎える者にとって、過去に自分の作ってきたものが貯まっていくという感覚は、何ものにも代えがたい。

また、このブログが“最終的に”どのような形で「幕を閉じる」のか(それは自分が突然死んだことによってなのか、それとも単に飽きてやめてしまってなのか、など)も、何となく興味がある(そんな日が来るのは、ずっと先で良いのだが)。

また例のごとく、言い足りたことよりも、言い足りなかったことの方が多かったかもしれない。しかし、自分で言うのも変だが、何が言い足りなかったのかがはっきりしない(「覚えていない」という感じもする)。こうした言葉による「表現不足」は、文章を書く、とりわけ自分のことを書く時には付き物だ(私はもう何度もこのことを経験している)。それでも、物を書くのは書きたい衝動に駆られるからである。

ということで、あまりうまくまとまらなかったが、以上で今年の締めとしたい。
2012/12/26

「生の現実」をよく「観察」せよ ― 『方法序説』

方法序説 (岩波文庫)方法序説 (岩波文庫)
(1997/07/16)
デカルト

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ここ最近、私は社会科学(=社会や社会現象を「分析」する学問)というものに対し、不信感を抱いていた。どのような点においてかというと、その「もっともらしさ」にである。ある社会において、ある特別な事態や状況が生じた時、その原因が何に由来するものかを分析・調査するのが社会科学の仕事だが、その「分析」やら「調査」やらに、胡散臭さを感じていた。

「分析」だの「調査」だの言うけれど、実はどれも「言葉の持つ曖昧さ」を無自覚に「利用」をしているのであり、なんとなく「そうだ」と言えそうな言葉、つまりその現象を言い当てられそうな、「もっともらしい」言葉でもって、その社会現象を「説明」している(否、「したことにしている」)だけなんじゃないのか――こういった不信感である。

例えば、よく耳にする「日本人は集団主義だ」とか「日本人は“和”を重んじる」とかいった言説など、私には非常に怪しく見える。こういったことを最初に唱えたのは、『菊と刀』で有名なベネディクトらしいが、彼女は一度も来日したことがない。しかし今でも、この本は「日本(人)論」の代表的位置にあり、何かと話題になる。

つまり、こういった学問は、実はいかようにでも解釈できる事柄を、「もっともらしい」言葉でもって、「もっともらしい」説明をしているだけで、何一つ真実を言い当ててなどおらず、結局「印象批評」にとどまっているだけなのではないか――こうした不信感を、どうしても拭い去れないでいた。

そんな時、たまたまふと手にとったのが、この『方法序説』である。世間では、一応「哲学書」ということになっているらしいのだが、私には、デカルトの「“俺ならこう考える”論集」に思える。

それはともかく、なぜこの本に惹かれたのかというと、デカルトが非常に「実体験」を重視しているからだ。そして私が彼を見習いたい点は、こうした「実体験」を通しての、事物の「観察」を重んじているところである。本書の「第一部」でデカルトは、ただひたすら書斎にこもって「文字の学問」(主に文献をもとにした研究)に耽ってなどいたところで、所詮それは空疎な思弁であると言う。

そんなことをしているよりも、外に出て色々なものを見たり、人と交わったりすること(もちろん、ただ「する」のではなく、じっくりとその状態や状況を「観察」する、という意味合いで)の方が大事だと思うようになる。そして実際に、彼自身が見たものや、その時思ったことなどを、彼自身の中で「消化」していく。そうやってできたのが、この『方法序説』なのだ。

つまり、この本はデカルトが自身の「肉体」で書いたものなのである。「肉体」で書いた以上、書斎(研究室)にこもって本だのテレビだのネットだのの情報をもとに、社会(現象)を「分析」した本などより、よほど価値もあるだろう――読んでいて、そう思い始めた。

もちろん、だからといって、そうした本にいつも「正しいこと」「価値あること」が書かれているわけではない。また、先の「言葉の曖昧性」の問題も、「肉体」で書いたからといって解決するわけでもない。しかし、自らの体をその現象の中に投じ、そこからその現象を観察したのだから、信憑性や説得力は大いにあるのではないか。また、社会科学の本を読むにしても、このことがきちんとできているものを読むべきなのだと思う。

「生の現実」に忠実であれ。そしてそれをよく「観察」せよ――デカルトのこの本から学ぶべきことは、「我思う、故に我あり」ではなく、ただこの一点だと思う。
2012/12/18

リーダーは、「サディスト」であれ ― 『マーガレット・サッチャー』

マーガレット・サッチャー 鉄の女の素顔 [DVD]マーガレット・サッチャー 鉄の女の素顔 [DVD]
(2012/09/04)
マーガレット・サッチャー、メリル・ストリープ 他

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この映画は、サッチャーの政治家人生を「大まかに」描いたものなので、全体としては今ひとつという感想が拭えない。しかし、彼女の持つタフネスはよく伝わった。「鉄の女」という異名は、(これを見た限り)伊達ではなかったようである。

映画の後半で、サッチャー自身が、政治家が「人気者」になろうとすることを強く批判するシーンが何度か出てくるのだが、それが個人的に印象に残った。国民に媚びへつらう政治をするのはいけない。今その時は苦渋の決断であっても、そして国民に負担を強いることになっても、それが後々にはきっと高く評価される、そういう決断をすべきだ――おおよそ、こんなセリフを彼女は口にしていた。

「おもしろい」ことに、今の日本ではこの逆の状態が起きている(いや、「誰か」が「起こしている」と言った方が正確だろうか)。例えば、それは「国民の“みなさま”」とか「“国民に優しい”政治」とか、政治家が国民に対し「~“させていただきます”」といった定型句として表れている。これらに共通しているのは、政治家は「商人」であり、国民は「お客さま」という構図だ。もっと「いやらしく」言い直せば、政治という目には見えない「サービス」を施す者と、それを「享受」する者という図式である(このような点から見て、政治家を俗に「政治屋」などと言うのは、「二重の皮肉」なのではないか)。

さて、映画後半、サッチャーに挫折が訪れる。あまりにも独断的になりすぎたために、周りから反発を食らうのだ。結果、ライバルに敗れ、10年ほどに渡った首相の座を明け渡すことになる。10年! かなりの長期政権である。しかも、家柄と男性性が重視される政治という場で、である。これは大変な「偉業」ではないか(サッチャーのやった「内容」が「偉業」であるかは、この際問わないことにする)。

なぜここまで続いたのか、という詳密な分析は政治学者に譲るべきだが、私が思うその理由は、サッチャーが国民に「優しくなかった」から、に尽きる。もっと刺激的な言葉で表現すれば、国民という「マゾヒスト」に対して、彼女は常に「サディスト」であり続けたからだと思う。

もう一度言おう。「サディスト」である。これは単に、「威厳に満ちた政治家」とか、「国民に畏れられている政治家」といったような者たちとは全く違う。人々に「恐れ」と「畏れ」を抱かせるという点では先の2つと共通するが、それに加え、相手に「快感」をも与えるという点においては、「サディスト」は特異な存在である。

問題は、――人々が何を「快感」としているのか、どんなふうに「弄んであげ」れば、その「快感」を与えることができるのか――この2つをどうやって知り得るかだ。ただひたすら、ムチで引っ叩いたり、三角木馬に乗せてイタブったり、ロウを体に垂らしても、人々は「マゾヒスト」であり続けることはできない。むしろ反発心が芽生えてしまうからである。

おそらくサッチャーは、イギリス国民の「快感」と、彼(女)らの「いじり方」をよく知っていたのだろう。仮にそう考えると、「鉄の女」という異名に、何か非常にイミシンな響きを感じずにはいられない。というのも、英語の「鉄」(iron)は、「鉄製の器具」とか「手錠」といった、アレなものも意味するからである。

以上は冗談だが、しかし、優れたリーダーである人たちに、おおよそ「サディスティック」な側面があるのは否定しがたい。彼(女)らは、相手に厳しく接しつつも、「快」を与えているのである。

この「サディスティック」は、性格的なものなので、技術でどうこうできるものではない。だから、「サディスティック」性のない人が、リーダーシップ論を説いた本を読んだところで、「とりあえずのリーダー」にはなれても、「優れたリーダー」にはなれないと思う。

今の日本の政治家に、「サディスト」はいない(「マゾヒスト」はたくさんいるが)。むしろ、国民が「サディスト」になってしまっている感がある(しかも、なんらの「快感」も与えない、非常に「冷酷」な「サディスト」である)。政権が再び交代した今、既存の「サディスト」たちを、「マゾヒスト」化させるだけの力がある、「サディスティック」な政治家が、果たして現れるのか――「マゾヒスティック」な政治家たちを、毎日、テレビで見るのはもう勘弁である。
2012/12/08

日本人の思考回路の原点 ― 『日本語と日本語論』

日本語と日本語論 (ちくま学芸文庫)日本語と日本語論 (ちくま学芸文庫)
(2007/09/10)
池上 嘉彦

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認知言語学の視点から、日本語と西洋の言語を比較・考察するというのが、この本の主旨である。

学術書とは言え、ちくま学芸文庫に収められた本だから、そんなに難しくはないだろうとは思っていたが、この予想は翻された。本書はかなり本格的な言語学の論考集である。

取り扱うテーマは、日本語における主語の省略について、「モノ」と「コト」と「トコロ」という捉え方、言語における「数」の概念(複数形)の有無について、などだ。

最も興味深かったのが、日本語における主語の「場所」化、という現象である。例えば、以下がその「場所」化された例文。

①天皇陛下ニオカセラレ(マシ)テハ、自ラ杉ノ苗ヲオ植エニナリマシタ。
②東京ハ人ガ多イ。
③象ハ鼻ガ長イ。

①では、「天皇陛下」という主語が、「場所」になっている(=「オカセラレ」の部分が、「天皇陛下」を「場所」化している)。そしてその「場所」で、「自ラ杉ノ苗ヲオ植エニナ」るという出来事が現れている(=出来している)。

②も同様。「東京ハ人ガ多イ」という文は、「東京ニオイテハ人ガ多イ」とも言い換えられる。しかし、われわれの普段の言い方では、「東京ハ人ガ多イ」の方が自然である。この文の場合、主語は「東京」だが、その主語自体が「場所」化されている、と捉えられる。

これを英語にした場合、

1、There are many people in Tokyo.

もしくは、

2、Tokyo has many people.

のいずれかになるが、1では主語はThereだし、2では主語はTokyoだが、動詞hasを見てわかるように、Tokyoが擬人化(=主体化、能動者化)されている。つまり、いずれの場合もTokyoは日本語の時とは違い、「場所」化されないのである。

③は分かりづらいがこれも、「象」という「領域」(=「場所」)において「鼻(=主語)ガ長イ(=述語)」という事象が起こる(=出来する)、と解釈できる。つまり、「象ニオイテハ鼻ガ長イ」という言い方が可能なのである。

日本語における主語の「場所」化という現象の奥には、古い日本語の「AハBナリ」が、もともとは「AハBニアリ」(すなわちA<B)だったこととも関係している、という池上氏の指摘は非常に興味深い。つまり、日本語の文は古くから「場所」という概念要素と関係があったのである。これは、英語のA is B(すなわちA=B)とは、厳密には違うことを意味する。

日本語における「場所」化という現象でさらに気になったのが、日英の辞書において、言葉の定義の仕方(というよりも見方)が異なる、という点だ。例えば「火葬場」(crematorium)という言葉は、日本語では「火葬をする“場所”」とされる。しかし、英語での定義では、“a building in which the bodies of dead people are burned at a funeral ceremony”なのだという。ここで注目すべきは、日本語では「場所」と捉えているのを、英語では“building”(建物)と捉えている点だ。つまり、一方はそれを「二次元平面」と見るのに対し、他方は「三次元体」(=立体)と見るのである。

詳細およびその他豊富な事例の紹介については本書に譲るが、こういった各々の事実を文化論的に捉え直すとするならば、「凸型の西洋」「平面型・凹型の日本」と言えるかもしれない。池上氏は、これだけの事実から、そういった文化論・文明論に持っていくのは尚早だとしているが、私はこういった、「凸型の西洋」「平面型・凹型の日本」という見方もアリなのではないかと思っている(ちなみに、岡本幸治という政治学者が同様のことを唱えている)。確かに、単純な二項対立のきらいはあるものの、これを更に抽象化させた、「主体性」(=「凸的」なもの)を重視する西洋、それを軽視、場合によっては敵視する「平面的・凹的」な日本という構図は、至る場面で見られる現象ではないだろうか(今の政治経済を見ていると、不幸なことに、つくづくそう感じてしまう)。

明治期の日本で、初代文部大臣を務めた森有礼が、日本人に日本語を捨てさせ、英語を学ばせようとする政策を唱えたことがあった。この意図は、今日で言うところのいわゆる「グローバル化」に対抗するため、ということだろう。結局、幸いにしてこの政策は実現しなかった。だがもしかしたら、森は、日本語の「平面的・凹的」性格を見抜いており、欧州列強の侵略にやられない「強い日本人」をつくるためには、「凸的」である(=「主体性」のある)英語を学ぶ、それによって「主体的」な日本人になるしか生き残る道はない、と密かに考えていたからではないか――本書を読んでいて、そんなことをふと考えてしまった。丸山眞男は戦後、日本人の「主体性」、そしてそこに宿る「責任」のなさを散々に批判したが(『日本の思想』『日本政治思想史研究』を参照)、おそらくこの「問題」を解決するためには、日本人が日本語という言語を捨てない限り、無理なのではないだろうか。

そう考えると、現在の日本における英語ブーム(TOEICだの英検だの英会話スクールだの)は、単なる「グローバル化」への対抗策以上のものを感じさせないでもない。「主体性」(=「凸的」であること)を手にするために、「無意識的に」われわれは「英語」という言語を学ぶ(学びたがっている)のではないか。そして同時に、ややもすれば、自分はマイノリティなのだ、傷ついた存在なのだ、それにより不幸なのだ、と思い込みたがる日本人の自虐性(世界の幸福度調査で、日本が他の先進諸国と比べ、圧倒的に低い数値を出している点など)は、日本語の「凹的」性格、それによって築かれる日本人の思考回路に起因するのであり、それを克服「したい」がためにも、われわれは「英語」を学ぶのではないか――

無論、以上の私の考えは、かなり飛躍的かつ過激であり、やや反日的でもある(しかし、何を言われようと、私は日本と日本語が大好きなのだが)。何ら、根拠となる事実は示せないし、今は単なる仮説、いやむしろ妄想・暴論に近いといってよい。しかし、日本語、ひいては日本語を母語とする日本人において、この「場所」という概念は切っても切れない関係にあることは、本書を読む限り、確かだと言える。この点について、西田幾多郎が哲学的思索を進める中、「場所」という概念に行き当たったという事実は非常に興味深い(岩波文庫『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』の『場所』を参照)。

最後に、池上氏の他の著作として、私は先日『「する」と「なる」の言語学』(大修館書店)という本を注文した。機会があれば、この本についてもブログで取り上げたいと思う。
2012/10/22

「私」と「私以外」について思索する ― 『自分を知るための哲学入門』

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)
(1993/12)
竹田 青嗣

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哲学に興味を持ち、哲学関係の書籍を手当たりしだい紐解いていくと、おそらく人はこのような問いに突き当たるのではないか。すなわち「哲学とは何か」「哲学は何の役に立つのか」という問いに。思うに、こういう問いが出てきた時点で、すでに「哲学者」としての一歩を踏んだと言ってもいいはずだ。

著者の竹田は、先の問いについて、以下のように答えている。

1、(哲学とは)ものごとを自分で考える技術である。

2、(哲学は)困ったとき、苦しいときに役に立つ。

3、(哲学とは)世界の何であるかを理解する方法ではなく自分が何であるかを了解する技術である。(p8-9)

まず、1と3について。
「哲学」をこれほどまでに単純化されると、「なんだ、哲学って、思っていたよりもカンタンそうだな」という誤解が生まれてしまいそうと私は思っているが、しかしこの「答え」は、間違っていない。確かに哲学には、「自分で考える技術」という側面もあるし「自分が何であるかを了解する技術」という側面もある。

だが私は、この「答え」に対し大いに賛成はしたいものの、まだ「物足りなさ」を感じる。何が「足りない」かというと、「哲学とは、それを“する”者に必ず困難さが伴う」という事実である。

 その「困難さ」とは何か。1の繰り返しになるが、それは「自分で考える」という困難さである。だから、1を書きなおすと「(哲学とは)ものごとを自分で考える技術であり、そこには必ず困難さが伴うものである」ということになろう。
 
どういうことか。哲学書を読むことは、何かについて「自分で考える」ことではない。ショーペンハウアーも言うように、それは「哲学者」という他人に何かを考えて「もらう」ことだ。その哲学書が難読であり、そこに書かれてある言葉の意味を理解しようとすれば、確かに「困難さ」は伴うが、それは「理解する」という困難さであって、「自分で考える」という困難さではない。

哲学書とは、それを書いた哲学者の、「“私は”世の中をこのように見る」「“私は”世の中をこのように理解する」「だから“私は”世の中をこのように生きる」という「告白書」である。そこにあるのは常に、「私」についての思索と、「私」と「世の中」はどのようにつながっているのかという思索である。この2つが書かれてあるから、その本は「哲学」書なのであり、彼は「哲学」者なのである。繰り返すが、彼はその本を通して①「ものごとを自分で考え」ており、②「世界の何であるかを理解する方法」には主眼を置かず、③「自分が何であるかを了解」しているからである。

つまり、「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」を考えることが哲学なのだ。カントでもない、ヘーゲルでもない、デカルトでもニーチェでも、彼でも彼女でもない「私」自身が、「私」と「世の中」について考えるのが哲学である。

そして当たり前だが、誰も「私」になってくれて「私」の代わりには考えてくれない。カントもニーチェも、彼ら自身のことと、彼ら自身と「世の中」とのつながりについては考えたけれども、「私」と、「私」と「世の中」とのつながりについては「考えていない」。つまり、それを考えるのは「私」が「初めて」なのである。「私」の代わりとして誰も考えて「くれなかった」ことを、「私」自身が考え「なくてはならない」から、困難なのである(とは言っても、先達の叡智を借りる必要は当然出てくる。いわば、「ものごとを自分で考える技術」を頭の中に「仕入れる」といった行動が必要である)。
 
それゆえ、竹田も言うように、日本には哲「学者」(=他人の考えたことを研究する人たち)は多いが、「哲学」者(=「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」を考える人たち)は少ない、という指摘はかなり的を射ていると思う。
 
さて、ここまで書くと、私としては「では哲学と科学はどう違うのか」という疑問が出てくる。これはもう、全然違う、としか言いようがない。すなわち、哲学は「私」がまず中心にあり、そこから「周り」をどのように「見るか」が問題になってくるが、科学は「みんな」が中心にあり、そこから「周り」をどのように「見たら正しいか」が問題になるのだ。つまり、哲学は個別的(「主観的」ではない。「主観的」という言葉は、どこか独善的な語感が伴うからだ。哲学は「個別的」ではあっても、場合によっては他人もそのように「見る」「見える」こともあり、つまり「一般化」できる可能性がある)だが、科学は客観的だという違いである。

だから、「哲学なんて客観的じゃない。だから信憑性なんてないんだ」という批判は、ある意味では正しいが、ある意味では的外れである。客観的でない(場合もある)ことは確かだろうが、そもそも「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」という問いに対し「私」自身が答えようとするのだから、そこに「信憑性」がないのは当然である。こういった批判はナンセンスなものとして、むしろ退けたほうが無難だろう。
 
最後に、2について。
私はあまり、何かが「役に立つか、立たないか」という問いを考えるのが好きではない。というのも、「役に立つ」とか「役に立たない」というのは、所詮それをしてみた上での結果論であり、「事前に」わかるものではない、と考えるからだ。もちろん、何かが役に「立ちそう」とか「立たなそう」といった、「予想」は可能だろう。だが、それはどこまでいっても「予想」なのであり、「結果」ではない。それから、「結果」とは言っても、何かを始めてからどの時点までの状況を「結果」とするかで、その結果の「中身」は、当然のごとく違ってくる。例えば、30歳まではそれが役に立たなかったと、とりあえず結論を下しても、それは「30歳という時点においての結果論」であり、もしかしたら40歳の時点では役に立っていたという結果も十分に考えられる。

こういうことを考慮すると、特に何か学問をやる時、それが「要か不要か」を論じるのは、きわめて不毛であると言わざるをえない。しかし、それでも「あえて」この論争に参加するならば、私も竹田の意見に賛成である。彼は、単に「(哲学は)困ったとき、苦しいときに役に立つ」と書いているだけで、何にどのように「困っ」て「苦しい」ときに、哲学が何にどのように「役に立つ」のかは書いていないから、この文だけ読んでも判然としないが、自分の生き方についてや、他者との関わりについてなどを「私」自身で考え(または先人に考えて「もら」い)、それを実践してみるということであれば、確かに「役に立つ」と言える。

と、いつものごとく長々と書いたが、私も、哲学をすることは自分のためになると信じている。自然科学は、自然や宇宙といった、自分の「外」にある対象が何でありどうなっているかを究明することはできるが、「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」を明かすことはできない。こればかりは「自分で」「自分の」答えを出す以外に仕方がない。そのための「技術」が哲学なのだから。
2012/10/11

嗚呼、我が青春の新書たちよ! ― 『新書百冊』

新書百冊 (新潮新書)新書百冊 (新潮新書)
(2003/04/10)
坪内 祐三

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ブックガイドは(恥ずかしながら、そして少々自己嫌悪感を抱きつつも)好んでしまうタチだが、「ブックガイド的エッセイ」は、ほとんど目にしない。いや、単にそういう類の本をほとんど知らないだけかもしれない。

だいたいの場合において、「ブックガイド的エッセイ」は、その中身が小説の紹介で占められているような気がする。私は小説をあまり読まない。だから自ずとそのようなエッセイは手にしないのだと思う。

「ブックガイド的エッセイ」が以上のような「現状」にある中、本書はおそらく、きわめて異例である。「新書」というくくりを設けた「ブックガイド的エッセイ」は、この本が初かもしれない。しかも嬉しいことに、中身はことごとく「文学部的な本」(文学的な本ではない!)の紹介なのである。著者(坪内祐三)の読書遍歴付きで。

まず気になった1つめは、丸山真男の『日本の思想』が取り上げられていた点だ。坪内は当時、大学受験予備校の代々木ゼミナールに通っていたらしく、受験勉強の一環としてこの本を読んだという(とは言っても、本書でわざわざこの本を取り上げたということは、どこか「受験勉強の一環」以上の何かが、彼の中にあったのではないか、と私は思っている)。ちなみに、当時の代々木ライブラリー(代ゼミに併設された書店)では、平台にこの本が高く積まれていたそうだ。

時代は変わったのだなあと感じる。今の高校生が受験勉強にといって、『日本の思想』を読むとはどうも考えがたい。聞いた話によると、『日本の思想』の第Ⅳ章「「である」ことと「する」こと」は、高校の国語教科書にも採用されているらしいのだが、確かにこの章も面白いとはいえ、やはり最大の魅力は第Ⅰ章「日本の思想」である。(坪内いわく、たいていの人はこの本のことを、第Ⅲ章「思想のあり方について」と第Ⅳ章で語ってしまうのだという。残念なことに。)丸山本人も言っている通り、第Ⅰ章はそこそこ難解ではあるのだが、日本における「思想的座標軸の欠如」や「無責任の体系」といった彼の指摘は、3.11後の日本を見ていても、まったく間違っていない。出版されてから半世紀経っても色褪せることのないこの言及こそが、本書を名著たらしめているのだと思う。

それから、この本とともに坪内が語っていた岩波新書として、大塚久雄の『社会科学の方法』が載っていた。この書は「自然科学と同様の研究方法が、社会科学においても成り立つのか?」という疑問から講演形式で話が進んでいく(第Ⅰ章)のだが、これから社会科学をやろうとする学生にとっては、今でも必読書とされている。ちなみに、宮崎哲弥によると、『日本の思想』『社会科学の方法』と合わせて、川島武宜の『日本人の法意識』(岩波新書)は、当時(といっても宮崎が学生だった80年代)の大学生にとって、読んでいなければ「市民」と見なされなかった新書3冊だったという(宮崎哲弥『新書365冊』)。個人的に『日本人の法意識』は、先の2冊と比較すれば読みやすい部類に入るとは思う。もちろん、この本も文句なく面白かった。

次に気になった2つめは、渡部昇一の『知的生活の方法』が取り上げられていた点である。この本はもう、読書好きは一生に一度は目を通すものではないかと思う。ただ私の場合、坪内と違って「幸いにも」読むのが遅かった。彼は高校時代に読んだそうだが、私は大学時代にである。今の時代、高校生の時から変に教養主義に目覚めてしまうと、大学受験に失敗する確率は、うんと高くなってしまう(笑)。現に、坪内はその時分に(竹内洋の言葉を借りれば)「プチ教養主義」に燃えてしまったらしく、受験に失敗している。そう、あの本は読書好きをさらに読書好きへ、さらに「重症」の場合は教養主義へと追いやり、それを延々とこじらせてしまう謎の魔力が秘められているのだ。

気になった3つめは、中野好夫の『アラビアのロレンス』に高評価が下されていた一方、宮沢俊義の『憲法講話』には低評価が下されていた点。どちらも私は読んだ(通読はしていない)が、はっきり言って前者はタイクツで仕方がなかった。T・E・ロレンスの本は山ほどあるが(ちなみに、ロレンスは日本の女たちにかなり支持されているようだ。同様の感を牟田口義郎が『アラビアのロレンスを求めて』(中公新書)に書いている)、彼を知りたければ神坂智子のマンガ『T・E・ロレンス』全4巻がオススメである。読んでいて、彼が男色だったことにはかなりショックを受けたが。

他方、『憲法講話』は憲法に関するエッセイとして読み応えがあって面白かった。『日本人の法意識』と合わせて早くから読んでいたら、法学部に進んでいたかもしれない。そう感じさせてくれる本だ。ちなみにこの本は2006年を以って絶版になったらしい。岩波のアンコール復刊キャンペーンで、再度登場することを願う。

それから、個人的に是非取り上げて欲しかった本の1つとして、鯖田豊之の『肉食の思想』(1966)がある(現在、なぜか中公新書と中公文庫にそれぞれ版があるのだが)。彼は、西洋史の専門家ならまず知らない人はいないであろう、というくらいの西洋史学の大家だ。「パンは主食ではない」とか「動物を殺す動物愛護運動」といった小見出しからして、すでに面白いのだが、「身近な食べ物」という切り口からヨーロッパの精神とは何かを「再解剖」していく過程が非常に刺激的なのだ。

さて、こうして本書を眺めてみると、「やっぱりなあ」という感じが「やっぱり」してしまう。そう、読書の仕方が「文学部的」なのだ。ここでいう「文学部的」とは簡単に言うと、先に述べた「プチ教養主義的」(≒ただただ知的好奇心を満たすような)という意味である。つまり、就職の時に役立つから読むとか、試験勉強のために、といった初めに目的ありきの読書ではなく、中島義道(『人生に生きる価値はない』)に言わせるならば、「知的遺産を渉猟するのが面白くてたまらず、そこに何の見返りも求めない」読書なのだ(無論、坪内の読書がすべてこのタイプなわけではないが)。こういった本の読み方に、私は「文学部」の匂いを、どうしても感じ取らずにはいられない(文学部出身者なら、きっと共感してもらえることだろう)。

最後に、坪内のこの一節にグッと来てしまった。少々長いが、引用する。

その帰りの電車で、私は、こんなことを考えた。もし私が大学を出たあとサラリーマンになったとしても(中略)、毎月新書本の新刊を三冊ずつ買って読もう。三冊買っても千円おつりがくるし、毎月コンスタントにそういう読書を続けたら、それだけでもかなりの知識が身につくだろう。ただのつまらないサラリーマンにはならないだろう。
そんな子供じみたことを考えると、それだけで私は時分の将来に対して少し豊かな展望が広がるのだった。とても安上がりな展望。しかしあの頃の新書版(それは岩波新書だけに限らず、中公新書にだって、講談社現代新書にだって)にはそういう一つの「小さな学校」のような輝きがあったのだ。(p40)

読書に対する、ささやかな希望である。本当に、本当に、ささやかな希望である。しかし、そのささやかな希望が生きる上で、どれほど心の支えになることか。新書とは言えども、こういった読書によって築き上げていく精神的支柱は、特に若い時、何を差し置いても絶対に必要なものだと私は信じて疑わない。無論、「ただのつまらないサラリーマン」にならないためにも必須だ。そういった、少しばかりの小さな希望が当時の新書には向けられていたのだと思う一方、果たして現在の新書にも同様の想いが向けられるかと言うと、正直なところ私には無理である。こういった慨嘆を、「単なる懐古趣味だ」と叩くのはたやすかろう。だが仮にその意見が的を射ているとしても、「小さな学校」の以前の輝きを求めようとする前では、そんな批判など鼻糞程度のものにしか過ぎない。そのくらい私は(坪内と同じく)新書が好きなのである。
2012/09/09

お金と幸せについて ― 『昭和のエートス』

昭和のエートス (文春文庫)昭和のエートス (文春文庫)
(2012/08/03)
内田 樹

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人がお金を払って何かを買おうとする動機は、大別すると2つある。1つは、それが生きていく上で(どうしても)必要なものである時。もう1つは、それを買うことで誰か(多くの場合、自分自身)が「快」になれる時だ。私が本という品物を買うのは、おおよそ後者という目的があるからである。

しかし、「内田樹のエッセイ」となると、話は変わる。人生、仕事、生と死、教育、幸福・・・ありとあらゆるジャンルについて、内田は語り尽くす。私にとって、彼の本を買うというのは、後者のみならず、前者という目的もあるのだ。そのくらい、今の(若い)自分には、彼の影響力の強さを感じている。

本書も例外ではない。例のごとく内容は多岐に渡るが、その中から「お金と幸せ」の章について紹介してみる。内田の「お金と幸せ」に対するスタンスは、以下のようだ。


1、金で幸せを買うことはできない。しかし、金で不幸を追い払うことはできる。

2、「お金と幸せ」について考え続ける限り、そこから何らかのベネフィットを手にすることはできない。もしそれを手にしたければ、「お金と幸せ」について、できるだけ考えないようにすること。



1について、後半は私も同感である。例えば、早朝の満員電車に乗りたくない時、金を払ってグリーン車などに乗り込めば、「押し合いへし合いという不幸」を追い払う(回避する)ことが可能である。さらに嬉しいことに、ゆったりと読書もできるという「特典」付きで。

ところで、前半はどうだろうか。もう少しばかり、幸せの種類を分けて、「持続性のある幸せ」と「その場限りの幸せ」の2つにしてみた場合、「持続性のある幸せ」については確かに金では買えないと思う。一方、金で買えるのは「その場限りの幸せ」である。

「その場限りの幸せ」とは、具体的な例を挙げれば、「おいしい食べ物を食べること」などである。確かにその時は一時的に嬉しい・楽しい気分にはなる。が、食べ終えればその時の感情は一気に消え去る。文字通り、幸せは「その場限り」である。

他方、「持続性のある幸せ」についてだが、これは「自分で作る」ことによって初めて生まれるものだ。まず、「作った」という達成感が幸せに変じる。また、作ったものをしばらくの間「観賞する」という幸せもある。そして、それを改変したり、そこから刺激されて新たなもの作ったりして楽しむという幸せだって存在する。つまり、幸せが次元の異なる幸せと繋がっているのだ。だから、幸せに「持続性」があるのである。私の場合、ブログはもちろん、個人的に書いている日記もこれに該当している。文章を書くとは、文章を「作る」ということであり、その楽しさというのは、以上に記した通りなのだ(これは自分で自分を観察してみて思うことである)。

そして、作るものは別に具体的事物でなくてもよい。抽象的なもの、例えば「人脈」「友情」などについても同じことが言えるだろう。

しかし、幸せを得るためには「初期投資」として、いくらかの金が必要な場合も少なくない(例えばブログをやる場合、「パソコンを買う」という「初期投資」が必要である)。そういう意味で、厳密には金を要していることにはなる(しかし、莫大な量の金は必要ない)。

さて、1について、あれこれと色々考えてみたが、2はどうか。これもやはり同感である。逆説的に聞こえるが、幸せとは「自分が幸せであると意識して“いない”時」に初めて得られるものだ。なぜかというと、幸せな時は、自分を幸せにさせてくれる対象に夢中だからである。そして、普段我々が口にする幸せとは、事後の「思い出す」という動作によって感じる、「仮」のものである。

また、経験則からして「幸せとは何か」について考えている時というのは、たいていの場合、幸せでない時だと言える。言い換えれば、こういったことを考えるようになったら、「私は今、不幸です」という証しだ。

ということは論理的に考えると、今こんな文章を書いている私も「不幸」ということか(笑)。
2012/09/05

「専門家」は、神様ではない ― 『「心の専門家」はいらない』

「心の専門家」はいらない (新書y)「心の専門家」はいらない (新書y)
(2002/03)
小沢 牧子

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ここ最近の新書に興味の持てるものがなかったので、中古本を漁っていたところ、本書を見つけた。

「心の専門家」(カウンセラー、セラピストなど)は、いらない――これはタイトルにもなっているが、まず、この主張に意表をつかれる。ずっと昔から、こういった職業に就いている人たちに対して、何らの疑問も抱いたことがなかったからだ。相談者の悩みに耳を傾け、真摯に相手に寄り添う――「心」を扱う仕事とは、そういった「なくてはならない存在」だと思っていた。

ところが、その印象は本書を読んで打ち砕かれた。完全に、とまではいかないが、少なくとも「心の専門家」と呼ばれる人たちに対する見方は大いに変わった。

「心の専門家」たちは、心理テストや問診などを通じて、相談者と触れ合う。しかし現実は、両者の「勘違い」の連続であると著者は喝破する。

例えば、相談者は自分の悩みを聞いてもらうことで、「専門家」に対し「親しさ」を感じるようになるが、「専門家」は親友でも恋人でも親でもなく、あくまでも「金銭的に作られた人間関係」である、という事実をしばしば忘却してしまう。「専門家」が親しく接してくれるのは、相談者が「クライエント」だからであり、報酬を払ってくれるからである。

誰かに、自分の中にある不安を打ち明けたいものの、それができない人が多い昨今において、このような「金を払わない限り、自分の腹の底を他人に見せることができない」という好ましからざる状況を、「心の専門家」自身が微塵も意識せずに作り上げてしまっているという現実は、果たして容認されて良いものなのか――筆者は、自身の過去も踏まえながら、読者に(特に「専門家」たちに)そう問いかける。

また、「心のケア」にも疑問を呈す。学校などの教育機関において、「心の専門家」たちは、心理的に不安定な児童を精神の面から支えるという仕事をしている。それを見聞きした親たちは、我が子の安全がしっかり守られていると思って、安心し切っている。だがそういった「支える」という行為は、本来、親のやるべきことではないのか。「専門家」が、その職業的アイデンティティから、そういった業務に励むことは、逆に親子の触れ合いや対話という大切な営みを阻害し、奪取することになりはしないか。著者は、こういった事例をひとつひとつ挙げながら、「専門家」たちによる「善行」の見えざる陥穽を炙り出していく。

私としては、特に後者に共感できた。昔、学習塾の講師をしていた時、同じようなことを感じたからである。そこでは、授業を終えた後、子どもの迎えに来た保護者に対し、その都度今日は何をして、どうだったのかということを逐一報告するよう、上から指示されていた。何か特別な面談でもないというのに、なぜ講師が一々そんなことをしなければならないのか。今日やったことなど親が子どもから直接聞き出せば良いではないか。また、それを講師がやってしまうというのは、親と子の対話をひとつ奪うことにもなりはしないか――そういう疑問が私の中には強くあった。本来、親自らが関心を持つべきこと、そして実践しなければならないことを、こちら側が「サービス」としてやるという「善行」は、長い目で見た時、誰のためにもならないと私は感じていた。一方、親は親で、調べれば分かるようなことも調べようとはせず、ほとんど全てを「専門家」に任せてしまい、受験勉強ならともかく普段の子ども勉強についてさえも「そういう難しいこと、私にはよく分からないから…」「ダメダメ。そういう小難しい話、苦手なの」という態度・有様だった。

「専門家」に頼るのはいけない、ということではない。要は、過度に頼りすぎているのが問題なのである。特に、目には見えない精神的なもの(心や知的なもの)を扱う(仕事にしている)人たちに対しては、彼らを頼りすぎる傾向が強いと思う。また「専門家」たちも、どこまでなら相談者に「頼られて」よいか、どこからは相談者を「突き放す」べきか、という線引きを予めしておく必要があるのではないか。とは言っても、それらが容易にできることでないのは重々承知だが。
2012/08/16

「議論することそのもの」の効用

有名ブロガー・ちきりん氏がこんなエントリーを書いていた。

Chikirinの日記 - 2012-08-13 「話し合って決める」という幻想

以下の部分は、私も賛成である。

ツイッター上でも「会話」をすることはあるけど、「議論」はしないです。ネット上で議論をしない最大の理由は「非効率だから」です。別の言い方では「時間の無駄だから」

140字という制限があるツールは議論をするのに向いてないし、議論の重要な前提となるべき過去の発言もどんどん流れていってしまいます。そしてなにより、議論の相手のことが全くわかりません。もしかすると相手は小学生かもしれないのです(いろんな意味で)。
文字制限のないブログでさえ真意が理解できる文章を書くのは難しいし、議論というのは「しきり役」がいないとどんどんズレてしまうものなので、遠く離れてボールを投げ合っていても、ほとんど噛み合いません。

ところが、後半からは大いに首を傾げてしまった。

なので「ネット上で議論をしない理由」は、「あまりに非効率で耐えられないから」なのですが、実はリアルの社会でも私はそんなに議論をしません。(他者の意見を聞くのは大好きだし、自分の意見を言うのも好きです。議論をしないだけです。)

その理由は、「議論する意味がないから」です。
(…)
世の中のすべての人の意見が「一致する」などということは起こりえません。いくら話し合い、議論しても、結果としてみんなの意見が一致した、などということは、ほぼないんです。
(…)
「話し合って決める」というのは、お花畑的幻想です。「話し合えば、相手も自分の意見と同じになるはず」などと思うのは、傲慢です。
(…)
「話し合って決める」という幻想を押しつけることは、「多様性の否定」につながります。「ひとつの意見だけが正しく、後は間違っている」と考えるのは恐ろしいことです。

このエントリーの疑問点は以下の2つ。

1、「議論すること」が、なぜか「何かを(正しい/間違っている/良い/悪いと)決めること」だけ、になってしまっている点

2、それ以外にはあたかも議論の効用はないかのように述べている点



私は、議論することそのものにも意味はある、と思っている。
議論することで、お互い、自分の意見や考えに「穴」があったと気がつくかもしれない。相手から、別の物の見方を提示されることで、視野がより広くなることだってあるかもしれない。また、議論することはそれなりに知的な力が必要なので、純粋に知的営為として議論を楽しむ、ということだってある(私もそういう風に議論を眺める時が多々ある)。

ちきりん氏はどうやら、「議論すること」というのは、「“勝ち負け”を決めること」であったり、「物事の是非を決めること」であったりするから、人によって多様な考え方がある以上、ある一定の考え方を強制させることはできないので、やるだけ不毛だ、といった風に考えているようだ。しかし、議論することには「議論することそれ自体」という目的(意味)もある。必ずしも相手を説得したり、間違いを指摘して自説の正しさを主張したりすることだけが、議論の目的ではない。意見と意見とを戦わせる「おもしろさ」を味わうため、といった目的だってあるのだ。

また、「議論をして何かを決めることは意味がない」と考えるのは、下手をすれば「相手の意見や考えや言い分は聞きません」「自分の言いたいことだけ、ひたすら言わせてもらいます」といった、独善的な態度にもつながりかねない。これこそ、ちきりん氏の言う、意見や考えの「多様性」を否定することになりはしないか。再三述べるように、何かを決めることだけが議論の意義ではない。単に、意見や考えを言ったり、聞いたりするだけでも「議論」である。

ネットの場合なら、「議論なぞ無意味だ」という態度でも構わないだろう(前述した通り、コミュニケーションの観点から見て非効率きわまりないから)。しかし、現実においてもそういった考えならば、「まずい」と言わざるをえない。
2012/08/06

「あなた」の「軸」を持つために ― 『日本の思想』

日本の思想 (岩波新書)日本の思想 (岩波新書)
(1961/11/20)
丸山 真男、丸山 眞男 他

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本書は、岩波新書を代表する著作のひとつだ。だが有名なのにもかかわらず、今ではほとんど読まれていない。近頃の新書とは違い、かなり骨太な作品であることがその理由の一つであろう。

丸山はその頭脳明晰さゆえにか、非常に叩かれたインテリだった。本書の出版当時(1961年)も例外ではない。特にその「最盛期」は、全共闘時代だったのではないだろうか。

だが、半世紀経った今なお読んでみても、この本は日本の精神的な「カラクリ」を見事に解明していると私は思っている。以下は、本書第一章「日本の思想」のごく簡単な要約である。


1、歴史的に見て「思想的座標軸」がない

字義通り。日本には、欧米におけるキリスト教のような、「座軸」としての思想がない。「仏教や儒教などは“座軸”と言えるのではないか?」――残念ながらそうは言えない。卑近な例だが、日本におけるクリスマスと初詣の2つの行事が同一の人たちによって支持されているのを見れば一目瞭然である。また、神棚と仏壇が同じ家の同じ居間にあることもその証左である。つまり、思想の歴史的一貫性が、我が国にはないのである。


2、「伝統」思想と「外来」思想が「雑居」している

「雑種」ではない。「雑居」である。つまり、思想と思想とが融け合っていないということだ。日本における思想の有り様は、同一平面上にいくつもの思想が「並ぶ」だけで、それらが融合することがない。そのため、海外から新しい思想がやって来ても、思想の「ストック」から過去の類似した思想と照合させてしまい、「ああ、この思想、そう言えば昔あった〇〇と似てるな」程度の感覚で扱ってしまうのである。そこに、思想を「歴史的変遷による代物」として見る姿勢は皆無である。


3、「理論信仰」と「実感信仰」の蔓延

「理論信仰」とは、理論「そのもの」をありがたがること。本来理論というのは、個々の具体的な状況を集めて、それらを分析し、類似点を探して・・・という流れを経て初めて出来上がっていくものである。つまり理論とは、「抽象化」による産物である。しかし、日本人にはこの「抽象化」をするというプロセスが欠けており、「既成品」としての「理論そのもの」を「信仰」してしまう悪いクセがある。結果、時を経ればその「既成品」はより新しい「既成品」へと取って代わられ、「価値が下落する」(見向きされなくなる)事態が起きてしまう。

「抽象化」が欠ければ、必然的に「実感信仰」になりやすい。「実感信仰」とは、感覚的なもの・感情的なものを吉とし、観念的なもの・抽象的なものを退ける(あるいは嫌悪する)有り様を指す。ここで、丸山が具体例として挙げているのは、日本語の特徴だ。明治以前の日本語(主にヤマト言葉)には、抽象的な概念や観念を表現する言葉が貧弱である。一方、感覚や感情を表す言葉は非常に富んでいると言う。こういった「実感」を重視して「抽象(化)」を軽視する態度が、日本における科学的思考や合理性といったものを育ちにくくさせたのではないかと彼は考察する。


丸山が扱おうとしているのは、「個人」ではなく「国家」という大きな単位だ。ただ漫然と本書を読むだけであれば、「抽象的かつ難解な本」という印象しか持てないかもしれない。しかし、「個人」のレベルにまで、身近なレベルにまで視点を落としながら読めば、たいへん面白い論考ではないかと思う。

例えば、「思想的座標軸」がない(もしくは希薄だ)と個人的に感じさせられることとして、昨今やたらと新聞広告などで目にする「生きるとはこんなにも素晴らしいものだ」系の本や、「人はどんな状況であっても一生懸命努力すれば報われる」系の本の好調な売れ行きである(あえて固有名は出さない)。これらの本は、巷では一応「自己啓発書」に分類されるのだろうが、広い意味においては「思想書」とも見てとれる。だがそういった「思想書」は数年経てば、「そう言えばそんな本もあったね」ぐらいの、「思い出」に格落ちするのが常ではないか。決して個人にとっての「座標軸」たる「思想」にはなり得ない(仮にそうなるにしても、その確率は圧倒的に低い)。つまり大抵の場合、こういった本は苦しくなった時のための「一時しのぎ」というわけである。

今年(2012年)の3月に亡くなった詩人・思想家の吉本隆明は言う。

しかし戦後の、すべてがでんぐり返ってしまって途方にくれたあの実感は消えない。しかし、そこでぼくは思ったのです。そのときどきの社会を、総体として自分なりに捉えていないと、とんでもない不意打ちを食らうことがあるぞ、と。戦後、変わったのはそこです。(吉本隆明『ひきこもれ』p144)

吉本の言いたいことはつまり、自分自身の「思想的座標軸」でもって世の中を捉えろ、ということだ。言い換えれば、「わたし」はどう見るのか、「わたし」はどう思うのか、「わたし」はどう感じるのか、それを常に意識せよ、である。

一時的にヒットしている「思想書」は、あくまでも「一時的」である。それは「あなた」が徹底的に感じて、考え抜いて、その結果として出来上がった「思想」(「わたし」の視座)ではない。「肉」にはなり得ても、「骨」にはならない代物である。

「自己啓発書として扱われているのに、そんな“骨”なんてものまで求めるのは大袈裟だ」と思われるかもしれない。しかし、こういった「自己啓発書」が出版不況などと言わる時代に、何万部、何十万部も売れるという現象が起きているのは、やはりどこかに皆が「軸」(=自分なりの頑強な視軸)を持ちたいという心理があるからではないか。だとしたら、「骨」となりえる本を読むべきなのだと思う。

では、どんな本が「骨」となりえるか。漠然とした表現だが、それは「難解な論考書」である(必ずしも古典である必要はないが、こういった本はやはり昔のものに多い)。最低でも2度3度は読まなければ意味のつかめない本、それがいいと思う。

逆に、簡単に読めてしまう本は「ありがたみ」が非常に薄くなる。分かりやすい分、「分かった気」になりやすい。最近は「分りやすさ」が書籍においては、何よりも重視されているようだが、これは(出版社にとっても、買い手にとっても)かなりの弊害になる恐れがある。理由は「なんか簡単なことしか書いてなさそうだから、わざわざ買わなくてもいいや」という気になりやすいからだ。「深み」のある本は、確かに時としてその難解さ漂う雰囲気ゆえに人を遠ざけてしまう面もあるが、「深み」がない限り、人はそれをバカにする傾向がある。深く考えようとしなくなる。そういう本は危険だし、なんせ「後に残らない」ことがほとんどである。だから、どうしても重厚な本を読むことが「軸」を作るためには必要である。

とはいうものの、かく言う私もまだまだ「軸」に不備がある。いや、この不備は一生かけても直せるものではないかもしれない。それでも、哲学書を読み、思想書を読み、学術書を読むことだけは絶対に怠りたくない。「本を読んでいれば万事安全かつ健全だ」なんて、これっぽっちも思いたくもないが、どうしたって「軸」の形成には読書が不可欠なのだ。
2012/07/20

「科学的」であることは、それほどまでに大切なのか ― 『「知」の欺瞞』

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)
(2012/02/17)
アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 他

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人文学をやる上での必読書と言えよう。

本書は、ある“事件”がきっかけで出版されたものだ。それは、本書著者の一人で、アメリカの物理学者であるアラン・ソーカルの起こした「ソーカル事件」(1994年)である。ソーカルは、フランスを中心とする人文学界で、やたらと持て囃されている非常に難解な哲学や現代思想に、以前から懐疑的だった。そこで、人文学者や社会学者たちが本当にそのような類の難物を理解しているのか“テスト”するため、彼は自分で擬似哲学論文を作り、専門の学術雑誌に投稿したのである。この論文では、自然科学の世界で用いられている特殊用語が意味もなく多用されており、また論旨そのものにも全く意味がなかった。

もしも彼ら人文学者たちがきちんと査読しているのなら、この論文は雑誌に掲載されないはずである――ソーカルはそのように考えた。ところが彼の意に反し、論文は雑誌に載って“しまった”のだ。この直後、彼はすぐにこの文章がエセ論文であることを発表、同時に人文学界の杜撰さを鋭く指摘し、名だたる「思想家」たち――ラカン、ボードリヤール、ドゥルーズなど――の使用する数学や科学知識などが、いかにお粗末なものかを暴いてみせた。本書でソーカルは、彼ら「思想家」の書いた実際のテクストを例に出しながら、その言葉遣いや学問的姿勢の不適切さをこれでもかというぐらい、徹底的に批判している。

この本が出版された後、日本でもその影響が(主に学界で)現れたようである。「現代思想はインチキである」「◯◯の言っていたことは意味がなかった」「そもそも人文学や社会科学は学問としての形をなしていない」――しかし、人文学というものが大好きな私にとって、こういった主張はどうも聞き捨てならない。そもそもソーカルが言いたかったことは、「人文学や社会科学は、意味のない無駄な学問である」ということではない。むしろ、彼はそういった学問の必要性を主張している。当初はこの点がよく誤解されていたらしく、本書でも強調されている。

その学問的性質上、人文学は自然科学のように「万人が認める客観的事実や仕組み」をひたすら追い求めるものではない(社会科学については詳しくないので、以下、人文学に限っての話をする)。もちろん、そういった姿勢が全くないというわけではないが、「その意見が“もっともそう”であるかどうか」という「説得力」こそが、どうしてもモノを言う学問なのだ。極端な話、一個人が“勝手に”組み立てた理論であっても、そこに「説得力」があれば、それは思想として、哲学として、また人文学として成り立つのである(「説得力」を持たせるためには、論理の整合性や客観的事実を証拠とすることも当然必要であるが、それは自然科学ほど厳密には要求されない)。ちなみに、私が先ほどから人文学を「人文科学」と呼ばないのは、そもそも人文学が「科学」ではない(と思っている)からである。

ところが最近の、いわゆる「科学的思考」とやらを過度に重んじる風潮のせいか、「科学的でなければ取るに足らない」といった考え方が至る所に蔓延しているように思える。そういった「人文学的な知」「人文学的なあり方」、時には人文学そのものが、やたらと軽視(ひどければ蔑視)されている気がしてならない。それは「個人が個人として真実に辿り着こうとするのは、所詮“科学的”ではないのだから、そんなことに目を向けてもしょうがないのではないか」といった発想なのだろう。もっと言えば「科学的」であることこそが最上なのであり、そうでない人文学は役に立たないといった捉え方である。

おそらく、本書で批判された「思想家」たちもこの点に強く悩まされたのではないか、と私は思っている。だから数式を多用したり科学用語をふんだんに使ったりして、哲学や思想を「科学的」たるものにしようとしたのかもしれない。仮にそうだとすれば、こういった態度は人文学の自然科学に対する劣等感の表れとしか言いようがない。

私は、学問の間に優劣があるとはこれっぽっちも思っていない。ある分野では「自然科学的なあり方」が必要であろうし、別の分野では「人文学的なあり方」が必要な場合もある。例えば「人生」や「生き方」について考える時には、まさに「人文学的なあり方」がモノを言うのではないだろうか。なぜならそこに、万人にとって通ずる「方程式」(◯◯をすると□□になる、といった考え方)や「科学」など存在しないからであり、「人生」や「生き方」というのは、その性質上、どうしても“個人”が“個人として”解決しなければならないものだからである。

余談だが、最近出版される書籍を見ていて感じるのは、「成功本」や「◯◯をするとうまくいく本」などによって、仕事や生き方や人間関係を「因果論」(別の言葉で表現するなら「ハウツー」)として見なしてしまいやしないかという危険性である。それがなぜ危険かと言うと、そのように見なすことが多くなるにつれ、「予想通りにならない」ことに対して無駄にストレスを感じ、果ては「そのようにならない他人や世の中が悪い」といった、他罰的発想になりやすくなるのではないか、と考えるからである。これは少々行きすぎた見方かもしれないが、よくよく気をつけた方がいいだろうとは思っている。多少なりとも「人文学的なあり方」を大切にしていれば、そういった傾向を回避できるのではないだろうか。人文学を愛する者にとっての(ささやかな)願いである。
2012/06/27

頭で考えるべからず ― 『臨済録』

臨済録 (岩波文庫)臨済録 (岩波文庫)
(1989/01/17)
入矢 義高

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「古典」と聞くと、どうも気が重くなる。文章の読みづらさに加え、話も遠い過去のもの。とてもではないが、自分から進んで読もうなどとは思わない代物である。ところが、本書は違う。1120年、今からおよそ900年も前に出た本だが、現在でもその「おもしろさ」(interesting)と「おもしろさ」(funny)は衰えていない。



まず、「おもしろさ」(interesting)の方だが、それは禅の考え方や世界観が小話でわかるところである。

例えば、有名なもので「不立文字」(ふりゅうもんじ)がある。悟りを文字の上で得ようとするのではなく、肉体的な修行を通して、心で得ようとする考えである。『臨済録』では、僧が師の述べることに対し、意味や理由を尋ねる場面がよく出てくる。ところが、師はそれに真っ向から「それは◯◯ということです」などと明確な説明は一切しない。大体の場合において、僧を棒で殴るか、意味不明な行動に出るのだ。

なぜか。それは、言葉で説明する時点で、言葉に縛られるからである。言葉は「仏性」(ぶっしょう;仏になる性質)の仮の姿、と禅では考える。仮の姿の拘っていては、いつまでたっても仏様になることはできない。「不立文字」を重んじる裏には、こういった考えが宿っている。



縛られている、ということに関連して言えば、もたつくことも禅では戒めの対象となる。もたつくとは、心が乱れた状態である。自身の体が不安に縛られている、ということである。不安に縛られれば、仏になることはできない。仏になるには、自分を「縛り」(言葉という縛り、不安という縛り、などもろもろ)から解放してやらなければならない。

「おもしろさ」(funny)についても語ろう。次の話は、本書に出てくるものだ。

師は、第二代の徳山和尚が、「言いとめても三十棒くらわし、言いとめられなくても三十棒くらわす」と訓示していると聞いたので、楽普を徳山のもとへやって、「言いとめてもなぜ三十棒ですか」と問わせ、彼が打とうとしたら、その棒をつかんで押し戻し、彼がどうするかを見て来い、命じた。楽普は徳山へ行って、教わったように問うた。果たして徳山は打ってきた。楽普がその棒をつかんで押し戻すと、徳山はさっと居間へ帰った。楽普は帰って報告すると、師は言った、「わしは以前から、あいつが只者ではないと思っていた。ところで、そなたは徳山がわかったのか。」楽普がもたつくと、すかさず師は打ちすえた。(p164)

不遜かもしれないが、ここを読んで思わず笑ってしまった。文字通り、不意打ちである(笑)。禅では、油断や自ら悟ろうとする行為を怠るのは、容赦なく制裁の的となる。そういう凶暴なところが多々あり、本書には他にも殴るわ蹴るわ打ち壊すわといった、暴力沙汰の小話が何度も出てくる。「え? 殴られなきゃいけないようなことしたか?」と思わずにはいられんばかりの小話が、である。そしてその度に吹き出してしまう(笑)。電車の中で読む時は注意が必要である。

しかし、「何かしてもダメ、何もしなくてもダメ」といった絶体絶命な状況に陥いることは、人生一度はあるだろう。そんな矛盾した、答えなど何もない中で、どうするべきか。それを瞬時に判断し、行動することを、禅は最も大切にする。



『臨済録』と同様、私の好きな古典のひとつである『無門関』(むもんかん)に、「南泉斬猫」(なんせんざんみょう)という公案がある。

南泉和尚は、東堂と西堂の雲水たちが猫について争っていたので、そこでその猫をつかみあげて言った、「お前たち、何か一句言うことができたら、この猫を助けよう。言うことができぬなら、ただちに斬り殺すぞ」雲水たちは何も答えなかった。その結果、南泉はその猫を斬った。
その晩に、弟子の趙州(じょうしゅう)が外から帰ってきた。南泉は趙州に例の話をした。そこで趙州は靴を脱いで頭の上にのせて出て行った。南泉は言った、「もしあなたがいたら、あの猫を救うことができたのに」
(秋月龍『無門関を読む』p123)

禅の門外漢にはまったく訳のわからぬ話である。「なんで靴を頭の上にのっけただけで、猫が救えるんだ」というツッコミは誰しもが入れたくなるだろう。だが、この行為そのものには、実のところ意味がない。秋月氏いわく、これは「真実の自己」を表現した形だと言う。

つまり、趙州がこの話を聞いて、そこから何か言語表現できないものを悟り、ただもうとっさに、無心で、自分の中に現れた「内なる何か」(言語化不能)をそのように表現した(行動した)、ということである。さらに、その真意を和尚は“心で”汲み取ったのだ。だから、また今度同じような争いごとが起きたからといって、趙州のマネをしても、南泉和尚は間違いなく猫をメッタ斬りにするだろう。



俗人の私がこんなこと言うのもなんだが、禅とはこのような世界なのである。「動くと殺す。動かなくとも殺す。さあ、お前はどうする?」と言われた時、どうしたらよいか。

ここまで極端ではなくとも、日常生活においてでさえ、このようなジレンマに遭遇することは必ずある。それを、やれマニュアルで解決だとか、やれ「これこれこうしたらうまくいきます」などと戯言めいた啓発本通りに動くとか、やれ言葉を尽くして和解しましょうだとか、そんなものは何の役にも立ちゃあせんよ、ということを、私は禅から教えられているような気がする。

無心の末のとっさの行動。体で分かり、体で動く――こんな陳腐な言葉で片付けるのもチャンチャラおかしいが、それが大事なんだよ、ということなのだろう。しかしまあ、実践するのが容易でないのは確かだが。
2012/06/22

子どもにも、大人にも ― 『小学館こども大百科』

小学館こども大百科小学館こども大百科
(2011/11/25)
小学館

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子供の教育に効き目大な本といえば、百科事典ではないだろうか。特に本書のような、大きくて写真や絵がたくさん載った百科事典は、文章があまり読めない子供に最適である。

私は幼い頃、絵本や物語をほとんど読もうとはしなかった。むしろ嫌っていたぐらいだが、小学館の「こども大百科」だけは、好んで見ていた。ゴロゴロと寝そべりながら、パラパラとページをめくる楽しさは、今でも忘れられない。

よく、「子どもは何に興味を持つか分からない」と言うが、その通りだと思う。なんでも載っていそうな、イラスト重視の百科事典を与えておくのは、子どもの好奇心を大いに刺激するだろう。

大人になった今、再び「こども大百科」を買い直した。先日のことである。あの頃によく見た、お馴染みの項目がまだあったりすると、何だか微笑ましく、そして嬉しくなる。

「お」の部分をめくっていると、「おばけ」のページが目に飛び込んできた。小さい頃、怖い思いをしながら、「でもちょっと見てみたい」気持ちでよく見た、あの「おばけ」の項目である。

残念なことに、以前よりも解説されているおばけの数は減っていた。絵もだいぶ変わっている。「ぬらりひょん」「がしゃどくろ」「海ぼうず」「からかさおばけ」――「こいつら、まだいたか」そんな気持ちがある一方、あの時の懐かしさと、「また会えたね」という喜び。幼心に焼き付いていた恐怖の情はどこへやら、といったところだ。

「じしん」の項には、もうすでに3.11の写真が掲載されている。あの時話題となった「液状化現象」の解説も加えられている。

「インターネット」も登場している。仕組みがチョー分かりやすく説明されているではないか。子ども向け書籍のいいところは、こういった「チョー分かりやすい」解説が、何気なくサラッと書いてあるところだ。

以前の版よりも、自然科学系の項目が増えたように感じる。「理科離れ」を睨んでのことか、宇宙やエネルギー関係のページ数が随分多い。個人的には、「おばけ」のように、しょーもないような項目をもっと設けて欲しかった。

保証しよう。童心に戻れる、いい一冊である。
2012/06/10

「道徳的に正しいものが答え」は、本当か? ― 『国語教科書の思想』

国語教科書の思想 (ちくま新書)国語教科書の思想 (ちくま新書)
(2005/10/04)
石原 千秋

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国語教科書の中身に触れるなんて、何年ぶりだろう。今、パッと頭に浮かび上がった話と言えば、新美南吉の『ごんぎつね』ぐらいだ。

私は国語が嫌いだった。読書も嫌いだった。理由は、本(物語)を読んでいて面白くなかったからである。それが今では、好きで何冊も新書を読む自分がそこにいたりする。人間、何がどう変わるかなんて、わかったものではない。

それで本書を読んでいる内に、なぜ幼い頃の自分が国語嫌いであり、読書嫌いであったのかが、何となく分かってきた。

著者の石原千秋によると、国語教育とは道徳教育なのだという。となると、教科書に出てくる話も、「道徳的」でなければならない。

例えば小説で、「主人公は友人を裏切るが、後でそのことに苛まれる」といった設定は、教科書の題材にピッタリである。たいていの場合、小説を読んで自分のことを反省したり、他人と話し合ったりする時間がカリキュラムの中に設けられており、こういう「心が痛くなる話」は、己を振り返るための道具として非常に「使いやすい」からだ。

評論文やエッセイだと、ありがちなテーマの1つに、「自然に帰ろう系」がある。「科学技術は進歩しすぎた。今までにない環境問題が生まれてきている。だから、昔の自然を取り戻そう」などがそれだ。「戦争は人類を不幸にするからやめよう系」や、「動物も人間と同じでそれぞれの生を全うしている系」なども、私はよく見た記憶がある。

つまり、小説、評論、エッセイ、どれをとっても「道徳的」なのである。だから、三島の『憂国』や川端の『眠れる美女』や芥川の『河童』といった、ダークな小説は絶対に出てこない。評論やエッセイに、上野千鶴子や中村うさぎが出てくる、なんてこともない。失礼だが、教科書的に見て、これらはどれも「不道徳」なのだ。

国語教育は「読む」ことだけではない。「書く」も大切である。しかし、これも書く内容が「道徳的」でなければ“いけない”。

本書の中で、「遠足の思い出」というテーマで作文しろという課題が出た時、著者は「つまらなかった」ということをなるべく論理的に、理由もきちんと添えて書いた、という興味深いエピソードがあった。だが、後に職員室へ呼び出され、担任の教師から怒られたという。「道徳的に好ましからざるもの」は、問答無用で「国語の敵」だということを物語る話である。


道徳が、初めから「道徳」として用意されていることに意味はあるのだろうか、と思う。何が「道徳的」で、それはなぜか。そこを考えさせた方が良い。

精神的にはまだまだ幼い小中学生たちにだって、時にはそういった「道徳教育」が、胡散臭く感じられたりするのではないか。

「〇〇は大切です」「××してはいけません」――そんなことは薄々彼らにだって分かるだろう。しかし、その理由をきちんと考える時間はほとんどない。当たり前が、「当たり前」で終わるだけである。だから聞く側からすれば、お説教のような授業になる。そういったお説教臭さが、国語を学ぶ面白さを、遠ざけてはいないだろうか。自分のことを今振り返ってみた時、「なぜ国語が嫌いだったのか?」と問えば、答えはそこに行き着く気がする。

評論文やエッセイに限った話になるが、私は、極端に対立する2つの意見を読ませた方が良いと思っている。

例えば、環境問題に関するテーマであれば、「◯◯はやめよう」という意見と、「いや、◯◯は大いにやるべきだ」という意見を同時に読ませる。この時、どちらが「正しい」か「間違っている」かは問うべきではない。どちらを「支持する」か「支持しない」か、そしてその理由をきちんと説明させるように誘導すべきである。生徒も、1つの問題に対して、「答えは1つだとは限らない」ということも学ぶだろう。
2012/05/28

Japan with Gold ― 『黄金の日本史』

黄金の日本史 (新潮新書)黄金の日本史 (新潮新書)
(2012/05/17)
加藤 廣

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近頃、金本位制の復活がささやかれているようだ。
アメリカでは、もうすでに金本位制を実施している州もあるという。
中国や韓国の金買いも増してきているらしい。

その動きを睨んでの企画だろうか。本書のテーマは「金(ゴールド)+日本史」である。日本とゴールドの関わりを通史で紐解くというコンセプトで、サクサク読める歴史読み物だ。

著者は「老生」を称する老作家・加藤廣。ところどころで炸裂する、我が国のお役人様批判が、本書では印象的だ。

話は変わるが、歴史読み物の企画で通史をやるなら、本書のようなテーマ史が一番おもしろいと思う。以前のエントリーで紹介した『物語 フランス革命』も大変読みごたえあるテーマ史だった。


最近は、高校の教科書を社会人向けに編集し直した本が売れているそうである。

わたしも受験生時代は、日本史の教科書にかなりお世話になった。だが、いまさら改めて読もうという気はさすがに起こらない。

教科書は知識だけを伝えるように設計されている。そのため、どうしても客観中立的な表現になってしまう。そこに歴史の流れや、感動を味わえる場面はない。この二つを得るためには、筆力はもちろん、執筆者の歴史観(主観)が必要だ。つまり、独断と偏見が大いにモノを言うのである。

歴史論争を「調停」するのは難しい。ならばいっそのこと、専門家各々の歴史観を楽しめばいいのではないかと思う。

普段、二度読みはほとんどしないが、本書は別だった。歴史書はあまり読まないタチだったが、これはオススメである。
2012/05/21

「日本人」というプレミア ― 『中国人エリートは日本人をこう見る』

中国人エリートは日本人をこう見る (日経プレミアシリーズ)中国人エリートは日本人をこう見る (日経プレミアシリーズ)
(2012/05/09)
中島 恵

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大学2年の時、とある中国人留学生の女の子と知り合った。親元を離れ、コンビニのアルバイトで生計を立てながら、彼女はひとりで勉強していた。卒業後はイギリスの大学院に進学したいとのことだった。

日本語ペラペラ。中国の歴史も文化もきちんと知っていた才女である。非常に勉強熱心な子だったから、わたしも大いに刺激を受けた。その一方で感じる、ある種の恐怖感――こういう子たちが、どんどん日本の大学に来て学べば、それこそ日本人大学生は留学生に太刀打ちできないだろう、と。

本書は、そういった勉強意欲旺盛な中国人留学生たちが主人公である。タイトルに「エリート」とあるが、これは学歴だけの話ではない。意識の面で、もうすでに彼/彼女たちは「エリート」である。言葉の端々に感じられる、「なんでも学んでやろう」という貪欲さ――最近の日本企業が、外国人留学生を積極的に採用するのも当然だろう。

だがその一方で、「日本に生まれていれば・・・」という憧れも見え隠れする。エリート中国人留学生から見れば、日本にいられるのがどれだけ素晴らしいことか、感じられて仕方がないのだろう。大学はもちろん、日本企業の研修制度、飲食店に出てくる無料のお冷、日本人のマナーの良さ、キレイな空気、自由なネット環境、清潔なトイレ、治安の良さ、などなど。わたしも聞いたことはあったが、やはりどれも今の中国では、日本と比べて不備だという。「生きてるだけで丸儲け」ならぬ「日本人というだけで丸儲け」といったところか。

中国が日本を抜いてGDP第2位になった一昨年の2010年。我が国では、この順位争いに敗れたことが大きな話題になった。が、中国人からすれば「だからなに?」程度のものらしい。数字は変化すれども、内部環境はさして変化せず、が実情だという。

五年前に来日し、コンピュータの研究をしたあと日本企業で働く蒋楊(二十八歳)も少し呆れた素振りで首をすくめる。
「(中略)2010年に第三位になって、何か生活が変わりましたか。何も変わらないでしょう?この20年で給料は上がっていないというけれど、生活の質も変わっていない。デパ地下には豪華な食べ物があふれている。まだ相当な余裕を感じます。だから皮肉でもなんでもなくて、日本人はそんなに心配しなくていいと思います」(p75-76)

「勝ち組」「負け組」なんて言葉はあまり使いたくないが、少なくとも「日本人であること」は、中国人から見れば「勝ち組」である、と言えよう(日本は、そこにあぐらをかきすぎた感も否めないが)。

しかし、なんだかんだ言っても、わたしは日本が好きだ。至るところにコンビニと自販機がある。水道水は安全。大量の本と雑誌が安く買える(おそらく世界に出回っている本で、日本語で読めないものは、ほとんどないのではないかと思う)。おいしいごはんが食べられ、製品のアフターサービスも充実。映画館や美術館がたくさんある。夜中に外を出歩いても危険はかなり少ない。ここまでハイスペックな国は、まず、ないだろう。

カナダのビクトリアとバンクーバーを旅行したことがある。治安の良い国としてよく知られているが、それでも夜中に出歩くのは危険だと言われた。水道水はなるべく飲まないようにと言われたし、コンビニも自販機も日本ほどはない(ましてや自販機が外に置いてあることなど、ほとんどなかった)。

日本は「オワコン」(=終わったコンテンツ)ではない。優秀な国だ。優秀と思えるほどの生活水準を、優秀なまでに維持し続けられるほど優秀である。

本書を読んで日本を愛せ、と言うつもりは毛頭ない。しかし、今の日本を見直す必要は大いにありそうだ。
2012/05/03

無名人として生きる良さ ― 『「有名人になる」ということ』

「有名人になる」ということ (ディスカヴァー携書)「有名人になる」ということ (ディスカヴァー携書)
(2012/04/28)
勝間 和代

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先日、「ニコニコ生放送」というものを見てみた。ウェブ上で、誰でも自由に、リアルタイムで自分を「放送」できるサービスのことだ。

それだけではない。見る側も、リアルタイムで放送者にコメントを送ることができる。仕組みとしては、「テレビ電話」ならぬ「テレビチャット」といったところか。おもしろい時代になったなと感じる。

「ニコ生」の放送者を見ていて気がついた。10代、20代前半ぐらいの若い男女が非常に多いのだ。彼/彼女たちは、実際に顔を出している。視聴者とこなれた感じでコミュニケーションを取っている。これっぽちも臆することなく、である。素直に感心してしまった。

こういった一つの社会現象を見ていて思うことがある。若い人たちの「プチアイドル願望」「認められたい欲求」の強さだ。ここ最近、かなり顕著になっているのではないか。

「AKB48」が流行り始めた頃から、このことを薄々感じていた。若い子を大勢集め、グループを作り、歌手活動をさせるビジネスは昔もあった。しかしこの頃、やたらと「AKB48」と似たアイドルグループが増えている。

多くの子たちが「アイドル」になる今日。「オレだって・・・」「私だって・・・」感情が若い人の内に芽生えても無理はない。

「イケメン◯◯」「美人◯◯」といった言葉もよく耳にする。これも、「プチアイドル願望」「認められたい欲求」に拍車をかけていると思う。

みんなが「アイドル」、みんなが「イケメン」、みんなが「美人」――そういう錯覚をしやすい社会になった、と言える。そういった「ステータス」を土台にして、チヤホヤされたいのかもしれない。

私は「有名人」になったことがない。「普通の人」である。だから、「有名人」のメリット・デメリットが何かは分からない。想像するしかない。

本書は、そんな「普通の人」に対し、かつて「普通の人」だった著者が、「有名人」になって分かったメリット・デメリットを説いた一冊である。しかも「有名人になる方法」付きで。

曰く、金銭的メリットは、あまりないそうである。その割には、周囲の目や批評を気にしなければならないらしい。「悪口、陰口なんて日常的」だという。

一方で、人脈をかなり広げることができたそうだ。テレビ、著作上での発言は「有名人」という保証書付き。だから説得力を持たせやすいらしい。

「一度、有名人になったら最後、“無名人”に戻ることはできない」という教訓も印象深い。言われてみれば当たり前かもしれない。だが「有名人になりたい願望」が強い人ほど、この事実を忘れやすいのではないか。

キレ者の著者でさえ、このことは「有名人」なってから気づいたという。もっとも、彼女はビジネスとして「有名人」を始めた。その点、ただ「有名人になりたい願望」の強い人とは異なるが。

わたし自身、「有名人」を否定するつもりは全くない。彼/彼女が、先頭に立って何か発言する。それだけで周囲への影響が大きい。立派なこと、含蓄のあることを言えば、人の考え方を一変させる力がある。そこが「有名人」の強みと良さだ。

しかし、である。「普通の人」には想像できない「ストレス」もたくさん抱えている。まずはここに目を向けたい。つまり、「いいことずくめ」ではないのだ。

不特定多数の人たちに対して、「自分そのもの」をさらけ出す――これは本来、「不安」と隣り合わせな行動である。見る者、見られる者の間に「信頼関係」や「親しさ」がないからである。メディア上では、狭い人物像、誤解された人物像が伝わりやすい傾向にある。

「有名人になりたい」「チヤホヤされたい」「人気者になりたい」――そう願う人は、まず、「普通の人であることの良さ」を一度考えてみたらどうだろう、と思う。言い換えれば、「目立たないことの良さ」である。

今の時代、放っておくと、どんどんそういった承認欲求が生まれる。目立つこと、認められること、愛されることばかり拘る――これはかなり危険だ。それを「自分の存在意義」としてしまうからである。

よくよく注意したほうがいいのではないか。いつか必ず、むなしさを感じる時が来るだろう。

「有名人になること」は「愛されること」でも、「チヤホヤされること」でもない。むしろ嫌われることで、その対価を得ることの方が大きい。これが本書読了後の感である。
2012/04/26

言葉の罠・論理的の罠 ― 『禅と日本文化』


禅と日本文化 (岩波新書)禅と日本文化 (岩波新書)
(1940/09)
鈴木 大拙

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「論理的に◯◯」は、最近よく見かける表現だ。

「論理的に考えよう」「論理的に説明しなさい」など、学校や仕事の場では、とにかく「論理的」であることが最重要視される。確かに「論理的」であることは、人と人とがコミュニケーションを取る上での大きな助けになるだろう。また、何かを説明する際、説得力をもたせるためには、必要不可欠だ。

しかし、「論理的であること」が、いつでもどこでも「すばらしいもの」であるとは限らない。目には見えず、「論理的」でなくとも、確かにそこに「存在するもの」もある。たとえば「職人芸」などと言われる「技」が、それに当たる。こういった技術は、言葉だけで相手に理解させることはできない。自分が実際にそれをやってみないとわからないものであり、伝わらないものである。

著者・鈴木大拙は、「言葉(だけに頼ること)に対する大きな信頼感」や「論理的に説明できるものばかり信奉すること」に対して警鐘を鳴らす。「禅」は、そういった「言語・論理至上主義」的な態度を真っ向から否定する。概念ばかり当てにするのではなく、自分で実際に取り組んでみよ(経験せよ)、ということだ。

近頃、書店で「◯◯する方法」や「××ができるようになる本」といったものをよく目にする。もちろん読んでその通りにできることもあるだろう。しかし、中には「言葉」や「論理」による説明だけでは、うまくいかないこと(対人関係など)でさえ、マニュアル的に「◯◯するとうまくいく」と述べる本もある。

そのようなハウツー本が多い昨今、大拙の論(禅の教え)は、「言葉や論理的なものだけ重視してると危ないよ」と唱える点で、非常に新鮮だ。

失敗してもいいから、実際にやってみる――私も最近、このこと(「とりあえずやってみよう精神」とでも言おうか)に大切さを感じている。

本書は禅と日本文化(俳句、儒教、武士道など)との関係を説明したものだが、どの章にも、この考えが通底している。1940年刊行の作品だが、当時の思想書としてはかなり読みやすい。禅入門にはおすすめである。
2012/04/22

小説のような歴史書 ― 『物語 フランス革命』

物語 フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで (中公新書)物語 フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで (中公新書)
(2008/09)
安達 正勝

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おもしろい歴史書には共通点がある。それは、「あたかも物語のような錯覚を与えてくれる」ところだ。これは史実の内容如何よりも、著者の筆力によるところが大きい。そのため、読み物としての歴史書ならば、学者よりもむしろ「文章のプロ」である作家に書かせた方がよい、と私は思っている。

ところが、本書の著者・安藤正勝は仏文学者だ。ゴテゴテの歴史解説ではなく、物語としての歴史、流れとしての歴史を意識した文章が非常に魅力的である。世界史に弱い私には、大変ありがたい本だ。

本書を読むまで、私は革命前のフランスを誤解していた。財政崩壊の発端は、マリー・アントワネットの自堕落な生活と、貪るような荒い金遣いのせいだと思っていた。しかし、彼女の支出は、全体でほんの数パーセントとしか占めていなかったそうだ。マリーは、「パンが食べられないなら、ケーキを食べればいいじゃない!」というセリフで有名だが、「ケーキ」だけの支出など、たかが知れていたということか。

マリーの夫であるルイ16世も、従来では悪者扱いされることが多かった。ところが最近では、むしろ高く評価されているという。優柔不断な側面が多かったものの、その知性は非常に優れていた。マリー以外の女にはいっさい手を出さなかったという、「したたか系男子」な一面を持っていたらしい。ギロチンの性能を上げるため、斜め刃を考案した理系男子でもある。のちにこの刃で愛すべきマリーの首がはねられてしまうのは、なんとも皮肉な話だ。そして、なんと趣味は錠前作り。いま生きていれば、たぶんオタクになっていただろう。

メートル、リットル、グラムといった一律の度量衡が確立したのもフランス革命の時である。有史以来の大仕事であると考えたためか、フランス人はまったく新しい制度を望んだ。いまでは当たり前のように、この度量衡が使われている。その裏側は、血と涙の結晶によって支えられているのだから、なんとも言えない。以後、これらを目にするたび、「ああ、この“kg”はフランス革命とともに生まれたのであり、それは血と涙の結晶なのだ!」という感慨に、私は(ひとりで)浸りたい。

世界史の中でも、「フランス革命」はトップ5にランクインするぐらい人気な箇所だろう。予備知識に乏しくとも楽しめる良書である。
2012/04/14

地に足をつけた経済学書 ― 『スタバではグランデを買え!』


スタバではグランデを買え!: 価格と生活の経済学 (ちくま文庫)スタバではグランデを買え!: 価格と生活の経済学 (ちくま文庫)
(2012/01/10)
吉本 佳生

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かねてから「経済学を知りたい」とは思っていた。だが、ひとくちに「経済学」とはいっても、色々な分野がある。

考えた末、わたしが最初に試したのは、有名な経済学者の理論から学ぶことだった。教科書で習った人名を思い出しつつ、一般向けの経済学書として初めて読んだのが『経済学はこう考える』(根井雅弘/ちくまプリマー新書)だ。

しかし、これがどうもおもしろくない。ジュニア向け新書だから書いてあることは理解できる。だが、どこかピンと来なかった。

その後、色々な本を手にしてみた。結果、本書のような実生活密着型の経済学書が一番ためになると知ったのだ。

経済とは、大雑把に表現すると「世の中の資源(お金)の動き」そのものである。言うまでもないが、実生活と経済は表裏一体の関係だ。ということは経済学の理論も、実生活と密着させながら学んだほうがよい――行き着いた結論はこれだった。

しかし残念ながら、経済学をそのように学べる本は少ない。その点、本書はこの「実社会と経済理論のつながり」をきちんと書けているところがすばらしい。「当たり前」のように行われている経済活動を、「当たり前」のままにせずに、「経済学」というツールで、そのしくみを分解していく過程が非常に興味ぶかい。

特におもしろかったテーマは、以下の章。

第1章「ペットボトルのお茶はコンビニとスーパーのどちらで買うべきか?」

ペットボトル飲料はたいていの場合、コンビニの方が高い。価格だけの比較ならスーパーで買ったほうが特だ。しかし、そうと知りつつもコンビニで買う人がいるのはなぜだろうか。その裏には合理的な理由がある。

第4章「携帯電話の料金はなぜ、やたらに複雑なのか?」

わたしが携帯電話をあまり好まない理由のひとつが、料金制度の複雑さにある。ところが、電話会社はあえて複雑にしているのだ。「儲けるとはどういうことか?」を考えさせられる章である。

第6章「100円ショップの安さの秘密は何か?」

なぜこれが100円で買えるのか不思議に思うことがたまにある。もちろん、人件費が安いからという単純な理由だけではない。これは、製造ラインのちょっとした「スキマ」を突いているのだ。


学問上の理論は、つねに「身近なもの」とセットで学ぶべきだと思う。小学生の時までは、そうやって勉強するのが普通だった。それがいつしか、理論だけの勉強になっていく。哲学にせよ法学にせよ、とにかく重要視されるのは「理論」であって、「その理論を実社会へ応用するとどうなるか?」ではない。むしろ応用することを「なんだか低級なもの」と見なしてしまう感さえある。

わたしは、本書著者である吉本佳生のような人が、学者や先生として増えればいいと願っている。こういう人が教えれば、勉強嫌いな生徒や学生は減るかもしれない。
2012/03/28

「暇つぶし」も立派な能力 ― 『老いの才覚』

老いの才覚 (ベスト新書)老いの才覚 (ベスト新書)
(2010/09/09)
曽野 綾子

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「若者こそ読むべきブックリスト」なるものを作るとしたら、本書は間違いなくその中の一冊となるだろう。

その理由はいろいろあるが、あえて一つに絞ろう。この一文を若いうちから肝に銘じておくべきだからだ。

年をとると、いっしょに遊べる友だちがだんだん減っていきますから、早いうちに一人で遊ぶ癖をつけておいたほうがいいと思います。(p111)

最近、わたしが周りの(若い)人を見ていてつくづく感じるのがこのことなのだ。どうやらどうやら、一人で遊べない人が多いようである。

昔、アルバイト先で知り合った女の子との話。

当時その子は高校生で、わたしによく悩みの相談を持ちかけていた。
そんなある日、こんな質問を受けた。

「最近つまらなくて楽しいことがないんです。どうしたらいいですか?」

学校にいる時間帯は友だちと話せるから楽しい。ところが家に帰ったとたん、やること(勉強以外)が何もないそうである。

「ケータイ持ってるんだし、友だちとメールやら電話やら、オンラインゲームでもしたらいいんでない?」

こんなアドバイスをしてみた。だが相手にも都合があるし、いつもいつもコミュニケーションがとれるわけではない。こういった「遊び」はうまくいかない、と彼女は言う。

確かにその通り。ならばひとりで遊ぶしかない。ところが話していくうちに、どうも彼女一人では何もできないようなのだ。高校生で、しかも社会人と比べたら時間も気力も体力もあるであろう若い女の子が、なぜ一人で遊べないのだろうか。

しかも、その子と同世代の他の子たちともいろいろ話していくうちに、意外とその手の人が多いのを知った。

「一人で遊べない症候群」とでも名づけようか。わたしは直でこういう人たちと触れ合ってきたから、曽野綾子の上の主張がかなりリアルに感じられて仕方がない。

誰だったか忘れたが、昔とあるコピーライターが「教養とは、自分で暇な時間をつぶせる能力のことだ」という主旨の発言をしていたのが忘れられない。

今なら当時よりもよくわかる気がする。辞書的な定義で、この「教養」という言葉を受け取ってしまうと確かによくわからない。だがもっと咀嚼して「自分の頭で考える力や行動する力」とでも解釈すれば、意味は通じるかもしれない。

そう考えると、本書に出てくる「くれない指数」(自分からは何も行動せずに、他人にばかり「~してくれない?」などとねだる、受動的な言動の多さ。曽野綾子の造語)は、「無教養指数」とでも言い換えられそうだ。

要するに、自分ひとりではなにも楽しいこと(≒暇つぶし)ができないのだ。そうか、「暇をつぶせる」のも、立派な「能力」の一つだったのか!

それにしても本当にコワイ。数十年後、わたしが未来の若者から見て「老人」と思われるような年になった時、「一人では何もできない(主に暇つぶし的なこと)」という状況に陥るのが、本当に本当にコワイ。

なんせその頃はヨボヨボ、気力・体力ともに大幅に弱っていることだろう。やっぱりこういうことは、若いうちから「訓練」しておいた方がいいんだよ、きっと。

来るべき時に備えて、わたしはこの本を読んでおく。「一人でも遊べる老人」になるために。
2012/03/15

「ケイザイ?」が、「経済!」になる本 ― 『「見えざる手」が経済を動かす』

「見えざる手」が経済を動かす (ちくまプリマー新書)「見えざる手」が経済を動かす (ちくまプリマー新書)
(2008/04)
池上 彰

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人生において、自分がどんな道を歩むか決める上での大きな要素は何だろうか?それは親かもしれない。友達かもしれない。本かもしれない。映画かもしれない。わたしの場合、それは学校の先生だったと思う。

人文学は学問の中でわたしがもっとも好きなジャンルだ。文学部に進んだのも、英文科に進んだのも、そして言語学に興味を持ったのも、すべて学校の先生の影響である。

ずいぶんとまあ、極端な話かもしれない。だが、そのくらい学校の先生という存在は、ひとりの人間の進む道を決める上で、はかりしれない力を持っているのではないか、とこの頃(しみじみと)感じている。

仮に池上彰がわたしの政治経済の先生だったら、事情が変わって経済学部に進学していた可能性は大きい。そう思えるくらい、この本はわかりやすく、面白く、惹きつけられるのだ。

中高生当時、政治経済の授業は本当にタイクツだった。「きちんと暗記すればテストでいい点取れるよ」と言わんばかりの無味乾燥さ(教えてくだすった先生たちにはタイヘン失礼だけれども)!

そこに、ケイザイの「なぜ?」と「流れ」はない。


「なぜ経済を学ぶの?」
「なんで“お金”は必要?」
「1ドル100円から1ドル80円になるのが、どうして円高?」
「“新自由主義”ってどうやって生まれてきたの?」
「競争させる/させないことが必ずしも良いとは限らない理由は?」



そう。興味を持てなかった、たったひとつの理由――振り返ってみれば、それは「なぜ?」と「流れ」がなかったからなのだ。「経済」を考える上で、上記の質問は基本中の基本と言える。だが、中高の頃を思い出してみても、これらのことをきちんと教えてくれた(教えることができた)先生は1人もいなかった!

本書はその「なぜ?」と「流れ」がきちんと織り込まれているため、たいへんすばらしい経済入門書となっている。「おすすめの経済入門書は?」と聞かれたら即答。間違いなくこの本。

「でもこれ、子ども向けの新書でしょ?大人には合わないんじゃない?」

あなどるなかれ。子ども向け新書だからこそ、「事のしくみ」を手抜きなしで解説してくれるのだ。むしろ大人の方がなまじ「チシキ」はあるので、彼ら向けの新書には意外と解説に手抜きが多かったりする。

本書巻末には推薦図書が掲載されている。買って読みたい気持ちが抑えられない。いやはや、わたしは池上彰の「見えざる手」に動かされてしまったわけか。
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