2012/01/15

真面目な哲学者、松本人志 ― 『「松本」の「遺書」』

「松本」の「遺書」 (朝日文庫)「松本」の「遺書」 (朝日文庫)
(1997/07)
松本 人志

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かねてから、松本人志はお笑い芸人というよりも、「真面目」な「哲学者」だと思っていたが、本書を読んでますますそのことを確信した。

わたしの考える「真面目」とは、いわゆる「学校型優等生」のことではない。課題を期日までにきちんと仕上げる人とか、几帳面に物事をこなす人のことでもない。こういう人たちは、「真面目」なのではなく、規律的なのである。

では「真面目」とはなにか?

それは、「意識的にでないと、思考をストップさせることができない人」のことだ。

彼らは、永久機関のようにひたすら頭を動かし続ける。自他問わず、だれかが「もうこのことを考えるのはやめよう」などと唱えない限り、頭の中でひたすら走り続ける。

走り続ければ続けるほど、次第に「ひとり」になっていく。一緒になって、どこまでもついていこうとする人が減っていくからだ。

「おもしろいやつの三大条件 ネクラ・貧乏・女好き」の章で、松本は語る。

意外に思われるかもしれないが、おもしろい奴というのは自分一人の世界を持っており、実はネクラな奴が多い。(中略)何にしても、おもしろい奴というのはどこか覚めている奴なのだ。(p53)

なぜ「おもしろい奴」は、「自分一人の世界を持って」いるのだろうか?

日本語の「おもしろい」には大きく分けてふたつの意味がある。「面白おかしい」(funny)と、「興味深い」(interesting)だ。

思うに、松本の言う「おもしろい奴」というのは後者の方ではないだろうか。

「自分一人の世界」を持つとは、周りにいる多くの他人と違う「なにか」を持っているということである。それはほとんどの場合、明確に他者と差別化できる、自分の考えや視座だ。

言い換えれば、それは「哲学」である。冒頭でわたしが松本のことを、「哲学者」と表現したのはそういう意味からだ。

真面目哲学者・松本は言う。

最終的に隠さないといけない物があったり、守るものがあるというのは、何にせよ、説得力に欠けるのではないだろうか(ヅラをつけている政治家にも同じことが言える)。
少し話がズレるかもしれないが、「朝まで生テレビ」を見ていて、女のコメンテーターがいくらいいことを言っていても、イヤリングやブローチ、化粧をしていると、なんか覚めてしまうのはオレだけなのだろうか?エラッそうなことを言ったところで、しょせん、男を意識しとるがなと思ってしまうのだ。(p78-79)

この言い分には、なぜか妙に納得してしまった。松本の考えでは、自分をぜんぶ「見せられる」ヤツが、人を「魅せられる」ヤツなのだろう。これとまったく同じとは言わない(言えない)が、文章(書評)を書くとき、「自分のこと」を出すと、人から「おもしろい」と感じてもらえやすくなる原理と似ている気がする。

それにしても、松本が「朝まで生テレビ」を見ていたのには驚いた。お笑いとはまったく縁もゆかりもなさそうな番組なだけに、そういうオカタイもの(そしてそこに出ている人)も視聴/観察している点は、「真面目」というよりも「マジメ」なのかしれない。

仕事ができる人は、たくさんの情報に触れてますよ。結局仕事でどうやって差をつけるかといったら、教養。ここを面倒くさがらないほうがいいですね。
(別冊宝島『脳力200%活用!「究極」の勉強法』 石田衣良 p118)

読みながら、この記述を思い出した。松本が落語などの古典的なお笑いなどにも精通しているのは知っていたが、もちろん、それだけで終わる人間ではない。彼はやはり、「たくさんの情報」に触れているのだ。それは「教養の深さ」と言い換えることもできるだろう。本書を読めば、松本の教養がどれほど深いものなのかすぐわかる。

真面目哲学者・人志松本の思考を知ることができる、極上のエッセイである。


2012/01/11

「客観的であること」の呪縛 ― 『新書がベスト』

新書がベスト (ベスト新書)新書がベスト (ベスト新書)
(2010/06/09)
小飼 弾

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読書にはふたつの醍醐味があると思う。

ひとつは、知らなかったことを知る楽しみ。
そしてもうひとつは、「アタリくじ」を引いたときの喜びだ。

書籍における「アタリくじ」とは、「自分にとって印象に残った本」のことである。それは、自分を驚かせてくれるもの、笑わせてくれるもの、考えさせてくれるもの、また時には、不快にさせるものだ。

本書の著者である小飼さんは、「独断と偏見」こそ、そういった「印象」を人の頭に刻ませる要素なのだと指摘する。

ひとりの著者が、独断と偏見による考えを披露するのが本です。両論併記の中庸な意見より、いろいろな立場からの独断と偏見をいくつも取り入れた方が、はるかに情報としての意味があるのです。これは、スゴ本とダメ本の差でもあります。(p18)

最近、ここの記述を読んでは、つくづく「ホントにそのとおりだよなあ」と実感している。

以前、わたしはこんなことを書いた。

つまり、なにかを語るのならもっと身近に語った方が良いということである。
(『読んでもらえる、おもしろい書評の書き方』)

自分で自分の書いた文章を引用するなんて、なんだか気取った感じもするが、ここで言いたかった「身近」というのは、つまるところ、「“自分のこと”をもっと語ろう」ということだ。

“自分のこと”とは、自分の周りで起きたことや、ちょっとした事件、つまり「自分の体験」だけではなく、「それについて自分はどう思う/考えるのか?」という「自分の意見」でもある。小飼さんが「ダメ本」としているものは、こういった「自分の意見」を書いていない本のことなのだ。

ひたすら「客観的であること」にこだわり、データや事例といった「事実」はたくさん書かれているけれど、その「事実」に対して「自分はこう思う/考える」という意見を書かれていない本はよく見受けられる。

とくに一般向けの科学書などは、その最たる例だ(すべての科学書がそうだ、と言っているのではないので念のため)。これは以前、『科学コミュニケーション』という本を書評したときにも、そのことを指摘した。



思うに、「客観的であること」というのは、だいたいの場合において、「一般論」になりやすい傾向がある。

「客観的」とは、「あるものA」(それが具体的なものか、抽象的なものかは問わない)を見たとき、ほとんど誰もが、それを「あるものA」と呼ぶ状況のことである。

だが、そこに「人を変えるなにか」はない。ここでいう「人を変えるなにか」とは、「その人の見方・考え方・感じ方を変える要素」という意味だが、「客観的であること」には、ほとんどの場合、そういった「人を変える要素」はない。

誤解されないために言っておくが、わたしは「客観的であること」や「事実とされているもの」を伝えようとすることがダメだ、と言いたいのではない。むしろ歓迎すべきことである(その姿勢が科学を支えているわけだから)。

だが、“ひとりの著者として”一冊の本を書こうとする時、そこにはおのずと「自分の意見を伝えようとする意志」(=人を変えようとする意志)も入るはずではないか(そもそも、ひとりの人がなにかについて語るとき、われわれは、その人の“レンズ”を通してなにかを知ることになるから、厳密にいうと“完全なまでに客観的である”という状態はない)。その「入るはずのもの」が「入っていないこと」に、わたしは疑問を感じてしまう。

早い話、いつもいつも「客観的であること」にこだわるな、ということである。むしろ、本というメディアは(もっというと本に限らず、意見文や感想文といったものすべては)、ほとんどの場合「主観的であること」に価値が置かれている。それこそが小飼さんのいう「独断と偏見」なのだ。
2012/01/08

「砂漠肌」も「メロンパン」も、みんなメタファー ― 『レトリックと人生』

レトリックと人生レトリックと人生
(1986/02)
ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン 他

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メタファー(隠喩)というと、「詩や小説といった文学作品の中だけにある表現技法だ」と思うかもしれない。

しかし、実は日常生活においても、メタファーは多分に使われているのだ。たとえば、次のようなもの。

①彼は、彼女を論した。
②彼女は、自分の意見の正当性を守ろうとした。
③わたしは交渉中、攻撃の的になった。

「戦争」についての話などしていないのに、なぜ「破る」や「守る」や「攻撃」のような言葉が出てくるのか。本書の著者であるジョージ・レイコフによると、これはわれわれ人間が、「議論」という行為を「戦争」に見立てているからだと指摘する。

「戦争」には勝ち負けや引き分けがあり、たがいに相手を攻めたり、自軍を守ったりする。「議論」もそれに似ている。相手の意見を攻撃(反論)したり、自分の言い分を守ったりしていくなかで、最終的には勝敗(決着)がつく。そういった構図が、①や②や③のような表現を生む理由なのだ。

もちろん、メタファーはこれだけに留まらない。新聞の折込チラシやネット広告、ポスター、マンガ、学術論文など、色々なタイプの文章からメタファーを発見できる。たとえば、ちまたに溢れる美容品広告を覗いてみると、レイコフの言う「戦争メタファー」が大量に見つかる。

①シミ、くすみ、黒ずみを一気に攻撃
②紫外線からお肌をバリアする効果
③ニキビを防いで、肌の美しさをキープ!

つまり、われわれは普段から無意識にこういったメタファーを使って生活しているのだ。そこで、わたしもこの「メタファー探しの旅」に参加してみると、色々見つかった。

砂漠肌になりがちなこの季節
②応用問題が解けるようになるためには、基礎が肝心だ
③今日のおやつは、メロンパンだった
④一日の疲れをリセットしよう!
⑤政治の動きを注視する

①の解説は不要だろう。

②の「基礎」はもともと建築用語であるが、それが転じて「ものごとの土台」(ちなみにこの「土台」もメタファーである)を意味するようになった。

③の「メロンパン」だが、文字通り“メロンをパンにした”わけではない。メロンパンは、あくまでも「パン」を「メロン」という果物に見立ててつくった食べ物だからだ。

④の「リセット」は、元をたどれば機械などに使われる言葉だったが、人の体を「機械」にたとえることで、このような言い方がされるようになった。

⑤「政治」は「生き物」ではない。そのため「動く」こともない。にもかかわらず、「動き」が使われているのは、「政治」が日々「変化」するからである。その「変化」を「動き」という「動作のメタファー」で表している。



こんなふうに言葉を観察していくと、ありとあらゆる現象や状態は、メタファーなしに言い表すことはできないと気がつく。

このことにピンと来たジョージ・レイコフは、人間の認知活動を「メタファー」の観点から説明する。何かを言葉で伝えようとするとき、その現象や状態を何か別の具体的なもの(人が知覚できるもの)で伝えようとする。

また、それは、その国の文化や伝統、社会制度や思想、また人間自身の体験などに深く根ざしており、その集積がこのように「メタファー」という形で表に出てくるのだ(たとえば、「時は金なり」ということわざはメタファーであるが、そもそもこういった「時間はお金と同じくらい大切だ」という価値観は、産業発展に心血を注いできた国に多く見られるものである)。



余談だが、この本がきっかけで今からおよそ20年前に「認知言語学」という新分野が開拓された。それまでメタファーは、アリストテレス以来、レトリック(文彩)のひとつと見なされてきたため、言語学の視界外に位置していたのだが、レイコフと本書のもう一人の著者であるマーク・ジョンソンが、メタファーを人の認知機能と結びつけた。今では「認知言語学なしに言語学は成り立たない」と言われるまでに主要・主流の分野へと成長している。

個人的に思うことだが、認知言語学は数ある言語学の分野の中で、最もとっつきやすいものの一つと言える(だからといって、難しい理論や用語はまったく出てこないというわけではないが)。この本が他の言語学の専門書と比べてかなり読みやすいというのも一つの理由だが、なんといってもメタファーそのものが、色々なところで非常に見つけやすいからだ。

最後に読書案内として、以前ここでも紹介した、瀬戸賢一氏の『メタファー思考』(講談社現代新書)や、最近のもので、今井むつみ氏の『ことばと思考』(岩波新書)を紹介しておこう。今井氏のほうは、認知心理学の観点から言葉を観察しているところが本書とは異なるが、「ことばと思考」がどれほど密接な関係にあるかがよくわかると思う。
2012/01/05

「生き方なんて人それぞれ」論のウソ ― 『愛という病』


愛という病 (新潮文庫)愛という病 (新潮文庫)
(2010/11)
中村 うさぎ

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中村うさぎさんの名は知っていたが、著作は読んだことがない。だから本書が私にとって初めての彼女の作品である。

まず、著者近影で驚いた。かなりの美熟女である(これは後に整形後の写真だと知ってガックリきたのだが)。しかも私と同じ英文学科出身。なんだか親近感が湧いてくる。

本書は小説ではなく、うさぎさんの身近で起きたことをもとにしたエッセイである。内容は、現代女性の生き方についての考察と、彼女独自の男性論だ。シモネタ・エロ話が多いのだが、ひとつひとつの出来事に対する分析が深くて非常におもしろい(こういう風にモノを見られる/書ける人は本当に羨ましい)。

たとえば、『メイドカフェで働く「自意識」』という章。

こちらからは一切働きかけず、ボディタッチや色恋サービスもなく、ただただ相手が勝手に性的ファンタジーを逞しくして(「萌え~」というヤツね)、まるでアイドルのようにチヤホヤしてくれる……その図式は、ひと頃流行った「ネットアイドル」に近いものがある。そう、現在のメイドカフェで働く女の子たちの自意識は、ネットアイドルのそれと、根っこのところは同じであろう。注目を浴びる快感、コップの中のアイドル気分。(中略)いたって平凡に近い女の子たちが簡単にプチアイドル気分を味わえる、(中略)「自分が凡庸であることに傷つかずにすむ聖地」なのよ、ここは。
(p27-28)

私も数年ほど前に、アキバのメイド喫茶に足を踏み入れたことがある。ネコミミをつけながら、お茶とケーキを運ぶ若い女の子の姿を見てふと、「なんかこれって、形を変えた風俗店なんじゃないか?」と感じた(こういうモノが好きな方たちには失礼だが)。うさぎさんも、どうやら私と同じことを思ったらしく、本章でメイドカフェを「幾重にもオブラート(レースやフリルや眼鏡といったアイテムがオブラートの役割を果たす)に包まれたキャバクラ」と表現している。

「多くの人に注目されていたい心理」というのは、女の子に特有のものかもしれない。なぜかと言えば、やはり「不安」なのだろう。誰かとつながっていないと孤独を感じやすく、精神的にも肉体的にも「守ってほしい」という願望が若い女性たちにはよく見られると思う(このことについては、うさぎさんも『「守ってもらいたい」願望』という章で語っている)。

しかし、だからこそ、彼女は「全面的に男へ頼るような女にはなるな」と本書を通して力説する。幼い頃に憧れたプリンセス・ストーリーだけを「女における最高の生き方」とするのではなく(このことについては以前、私もブログで述べた)、「自分の頭で考えて生きてみようよ」と呼びかける。それは、うさぎさん自身がこの本を書く(男女の相違や女性の生き方を分析してみせる)ことで証明していると言えよう。思うに、高邁なフェミニズム理論やジェンダー論よりも、彼女の言うことのほうが何百倍も説得力があるのではないか。

身辺雑記エッセイなどは、まさに「人を変える意識」だけの文章だとも言える。人を変えると書くと、攻撃的でエキセントリックなイメージを持つかもしれないが、革命を唱える政治理論よりも、日常生活エッセイのほうがよほど人を変える意識に満ちている。
(堀井憲一郎『いますぐ書け、の文章法』p55)

いや、もっとハッとさせられるのは、実のところ我々男性側かもしれない。というのも、うさぎさんの男性に対する皮肉がかなり強烈だからだ(上野千鶴子のようなフェミニストではないと思うが)。その痛快さは、本書を読んでのお楽しみということにしよう。

よく、「生き方なんて人それぞれだ」と言われる。しかしながら、それはあまりにも無責任な物言いだ。生き方の多様性を認めているように見せかけつつも、結局のところ「お前がどう生きようと俺には関係ないし、勝手にすればいい」と言っているのと変わりないからである。

うさぎさんはこれを全力で否定する。赤の他人とはいえ、彼女の読者であれば「私はこう生きるよ」と強く主張する。なにもかも、常に自分をさらけ出しまくるのだ。その姿勢に、「生き方なんて自由だ」などという「エセ人生論」語りは、皆目見当たらない。
2012/01/04

たのしい、たのしい、わるぐち読書読本 ― 『本は10冊同時に読め!』


本は10冊同時に読め!―本を読まない人はサルである!生き方に差がつく「超並列」読書術 (知的生きかた文庫)本は10冊同時に読め!―本を読まない人はサルである!生き方に差がつく「超並列」読書術 (知的生きかた文庫)
(2008/01/21)
成毛 眞

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この本、賛否両論がかなり激しく、絶賛する人と徹底的に非難する人で分かれている。個人的にはそんなことに一喜一憂するよりも、読了後にAmazonのレビューを読んで、他人と読書後の感想を共有するほうが楽しいのだが。

じつは私がたくさん本を読むようになったきっかけ、そしてこの「しょひょーブログ」を始めるようになったきっかけは、この本が与えてくれた。著者は成毛眞氏で、最近はいろいろと本を出している(『日本人の9割に英語はいらない』や『大人げない大人になれ!』など)。

簡単に内容の方を紹介しておくと、「いろんなジャンルの本を何冊も(別に3冊や5冊でもいいのだが)“同時に”読もう。そうすることで、脳が多方向から刺激され、仕事上でのアイデアや生き方、人生の楽しみ方をいままで以上に得られるようになる」というもの。「同時に」と書いたが、これはたとえば◯◯の本は電車の中で、××の本は寝室で、□□の本はリビングで読む、という意味だ。場所によって読む本を変えれば読書に飽きは来ないというわけである。

本書を初めて読み、そんな読書の仕方があるのかと驚いた当時は、成毛氏のやりかたを参考にしながらありとあらゆる本を、色々なところで読んだ。いまでは自分なりの「読書方法」みたいなものができて、彼の読書術とはかなり違うものになったが、「本を読むこと」に対する考え方は同じだ。

氏の物言いや口調はかなり手厳しい。表紙にもあるとおり、「本を読まない人はサルである!」なんて書いてある。本文でも「本読まぬ者」=「庶民」と独自の「定義」をつくり出し、徹底的に批判する。おそらくこの書き方が、否定論者たちの気に食わぬ点なのだろう。

だが、こういった主張はやはり必要である。というのも、結局、いくら優等生のような文句をならべたところで、なにも変わらない(読書してみるかという気持ちは起こらない)からだ。


「本を読むことは生きる上での糧になります」
「読書は人生を豊かにします」
「情緒や思考力は読むことによって養われます」


「うん、そうだね、そのとおりだよ。だから?」――このぐらいの感想しか残らないのではないか(ちなみに、この手の主張は齋藤孝に多いと思う)。

個人的な話になるが、私は毒舌のある人が好きだ。昔、代ゼミのサテライトの授業を受けていた頃、富田一彦というトンデモナイ毒舌英語教師にお世話になっていた。彼はひたすら生徒(とくに浪人生)を「バカ」にする。「ここで文型が終わったと思ったあなた。終わったのは文型ではなく、あなたの人生です」とか、「この“crazy”を“イカれている”と訳した人。イカれているのは、あなたのおつむです」とか。

しかし、言い方がおもしろくて、授業をしっかり受けるのはもちろん、毒舌を「しっかり」聞くのもまた私にとっては「大事」だった。

毒舌は、言う側にも聞く側にもかなりの「力」が必要になる。言う側には、言うに足るだけのバックグラウンド(地位や実力や実績など)がないと説得力は皆無。聞く側もその辛辣な毒を真に受けず、ある種のジョークとして、またその言葉の真意はなにか、ということを理解できないとまずい。

「成毛の場合は毒舌じゃなくて、単なる嫌味であり非難だ」なんてご立腹の方もいるだろう。だが、その「嫌味」や「非難」を、文字通り「嫌味」や「非難」として受け取ってしまうから、なにも得られないのである。読んでクスクス笑えるぐらいでないとダメではないか。

批判的な本が嫌いな人、毒舌やユーモアがわからない人。こういう人には、本書をオススメしない。おそらく以前にまして、心臓を悪くするか読書嫌いになるかの、どちらかだからだ。
2011/12/28

毎日が「学園祭」でないと、つづかない ― 『カーニヴァル化する社会』


カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)
(2005/05/19)
鈴木 謙介

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「カーニヴァル化」とは、もともと社会学の用語らしい。だが、もっとイメージしやすい言葉に置き換えるなら「学園祭化」がいいと思う。

しかしながら、バウマンも指摘するとおり、蓄積や一貫性を維持することが困難な後期近代においては、共同体への感情は、アドホックな、個人的な選択の帰結から生じるもの以外ではあり得なくなる。そうした点を踏まえて彼が考えるのは、いわば「共同体」から「共同性」への転換だ。すなわち、ある種の構造を維持していくことではなく、共同性――〈繋がりうること〉の証左を見出すこと――をフックにした、瞬発的な盛り上がりこそが、人々の集団への帰属の源泉へとなっているのである。
 このような瞬発的な盛り上がりこそが、ここでいう「カーニヴァル」にあたる。(同書 p138)

学園祭の楽しさは、学園祭当日しかり、そのための準備段階にもある。その時かぎりで集まり、その時かぎりの一体感と楽しさを味わう(「共同性」に浸る)ことで、他者との繋がりを確認する――「カーニヴァル」は、こういった刹那的な快楽と、何かに対する帰属感の得られる場なのだ。

その具体的な事例として、著者は2ちゃんねるにおける「祭り」などを挙げている。目には見えない大勢の者が一つのスレッドに集まり(つまり「共同体」ではなく「共同性」が形成され)、ある特定の「イベント」に対して盛り上がるのである。しかし、「イベント」の中身そのものにはそれほど重きが置かれない、というのが特異な点だ。あくまでも「イベント」は、自分たち大勢を盛り上げ、他者とのつながりを実感させ、ひいては共同性への帰属感を持たせてくれるための道具に過ぎないのである。

こうした「カーニヴァル」を支えるのが、「データベース」への問い合わせ(没入)である。ここでいう「データベース」とは、電子情報で構築された世界(たとえばネット上の掲示板、ケータイメール、オンラインゲーム、SNSなど)と考えてよい。この二つの「共犯関係」こそ、著者の指摘する「カーニヴァル化」だ。

問題は、多くの人間(特に若者)が、この「カーニヴァル」という「幻想」から「現実」という名の外へ出るのが、困難になってきている点である。なぜなら、「データベース」へ何度も何度も問い合わせることで、自己の存在(他者とのつながり)と、自己の幸せを確認することに終始してしまい、結果として、「現実」の視点から見た「カーニヴァル」の中にいる自分を振り返る/客観視することができなくなるからだ。

簡単に「夢」の中へ入れる一方で、簡単にそこから抜け出すこともできない世の中――人類の歴史を振り返ってみたとき、ここまでヴァーチャルな世界に浸ることのできた時代はいままで存在しなかった。これは、小説を読んでその世界に夢中になる、などというレベルの話ではない。小説を読む行為は基本的に1Pのみだが、電子情報によって体系化された世界(特にネット)では、そこへの参加者数に制限はない。プレイヤーが現実世界と同じ「人間」である以上、そこで起きるイベントやコミュニティーもやはり「人間的」にならざるを得ない。だとすれば、現実と同じだけの「リアリティー」を感じても無理はないかもしれない。

ただ、である。夢を見続けるには、また特殊な才能が必要である。普通の人には、必ずその夢から覚める時が来る。
(森博嗣『自分探しと楽しさについて』 p45)

忘れてはいけない。それはあくまでも、限りなく現実に近いフィクションなのだ、ということを。
2011/11/24

「ことばの乱れ」「美しい言語」という妄想 ― 『はじめての言語学』


はじめての言語学 (講談社現代新書)はじめての言語学 (講談社現代新書)
(2004/01/21)
黒田 龍之助

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言語学のおもしろさを知ることができたのは大学3年の時だと思う。

本書を言語学の「導入の導入」として読むのも良いし、純粋に「ことばって何?」という興味・関心から読むのも良い。

個人的には第一章と第六章がオススメだ。気になった一文を小見出しや本文中からちょっと引用しよう。

① 「語源研究が言語学なのではない」
② 「人間にだけ言語がある」
③ 「『ことばの乱れ』という発想が言語学にはない」
④ 「《美しい言語》も《汚い言語》もない」
⑤ 「言語学がわかると何の得になるか?」

けっこう刺激的な文句ではないだろうか。

よくマスコミが「今の若者はことばが乱れている」などと報道するが、その手の言説を信じている人たちからすると、③は意外に思われるかもしれない。だが、「乱れ」ているかどうかという判断は、その人自身の感情によるものだ。言語学において、これは「ことばの変化」として処理される。④の「美しい言語」「汚い言語」も似たようなもので、どうにもこうにもない、まったくの個人的な趣味である。

⑤は、いわゆる学問の「要不要論争」と関わってくるが、言語学は自動翻訳機の製作や音声認証システムなどを作る際に役立っているという側面があるため、そういう意味では「要」の部類に入るのかもしれない。

だが自然科学・人文科学問わず、全ての学問に対して、役に立つのか立たないのかという問いはそもそもナンセンスであり、筋違いである。学問の本質は、物事の仕組みや現象などを調べていくことだ。その結果として「こういう仕組みや現象を◯◯に応用したら生活していく時に役立ちそうだな」という考えが生まれ、それを反映したモノ、つまり実用品が出来上がる。初めから生活に役立つモノをつくるために「学問」ができあがったのではない。論争の主旨自体、本末転倒なわけである。

最後になるが、第2~5章で言語学にはどんな分野があり、どんなことをするのかという基本を概観することができる。ところどころ散見される著者のボケやツッコミ、冗談もおもしろい。堅苦しくなく気軽に読める良書である。



※以前、ブログで『メタファー思考』という本を紹介したが、メタファー(広い意味での比喩)については「認知言語学」という領域で取り扱っている。
2011/11/19

大理論や大発見が日本では生まれづらい理由 ― 『森林の思考・砂漠の思考』


森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
(1978/03)
鈴木 秀夫

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比較文化論というのは、個人的に大好きなのですぐに買ってしまうタチだ。

タイトルが風変わりでおもしろい。「森林の思考」「砂漠の思考」とあるが、これは森林の多い土地に住む人々の考え方、砂漠のある土地に住む人々の考え方という意味で筆者は使っている。ちなみに日本人は「森林の思考」タイプだそうだ。

では、その「森林の思考」とはなにか。

その特徴の1つは「世界は永遠に続く」と考える点である。生物が死ぬと、よく「土に帰る」という表現を使うが、森林の中では生の誕生から死へのサイクルが絶えず行われている。それを、生と死の円環が回り続けているのだと「森林の民」たちは考え、そのような死生観を持つのだという。

2つめの特徴は「迷い」だ。森林の中はその茂みにより、道なかばで迷いやすい。しかし迷いに迷った挙句、着いた先が桃源郷であったりもする。そういう経験が、「迷い」というものを必ずしも否定的には捉えないことにつながるのであり、むしろ人間の判断など取るに足らないものだという発想も生まれる。

3つめの特徴は「分析的」だ。森林の民にとって、森林の中全体を見通すというのは甚だ困難である。草木の繁茂が視界を妨げるわけだから、それは当然のことだろう。それゆえ彼らは「今自分にとって見えるもの」の解明に努めようとする。森の全てを知ろうとするのではなく今、自分自身が見ることのできるものを知ろうとするのだ。その姿勢が、たとえば、ある理論の証明のためにコツコツと事実確認をしたり、なにかの原理や法則を見つけ出そうとすることにつながっていくのだという。

一方「砂漠の思考」は、これらと全く逆だ。

砂漠で死ねばそれまでである。その死からなにかが生み出されることはない。その過酷な現実が、世界はある一点から始まり、ある一点で終わるという「直線的な時間軸」を生み出す。

また、砂漠では常に水不足の危険にさらされているがゆえ、どの方向、どの方角へ進むかを決めるのにグズグズしてはいられない。彼らにとって「迷い」は死を意味するので、自分の考えや意見は常にはっきりさせておかなければならない。

そして、砂漠は森林の中と比べてみると、周囲の見通し具合はすこぶる良い。その良さゆえ、また、水のあるオアシスがどこにあるかを知りたいがゆえ、自分たちにとって直接は見えないものに関心を抱く。その態度が、たとえば神話などに見られるような想像力や発想力の豊かさに影響を与えているのだそうだ。

こういった風土の違いにより、それぞれの地に住む人たちの、好き嫌いや得手不得手とするものも違ってくる。

例を挙げると、日本では学問の世界において大理論や大発見などは生まれづらいらしい。それは「森林の民」である日本人が「分析」には優れているが、「砂漠の民」である欧米人と比べて、ものごとを総合的に捉えようとする姿勢が乏しいからだ。また欧米で「わかりません」という態度は、日本と比較すると、より否定的に捉えられてしまう。「砂漠の民」は、仮に事実がはっきりしなくても、「自分はこう思う」とか「自分にはこう見える」などと立場を明確にするをよしとする。

もちろん、日本人だから皆が皆「森林の思考」であるわけではなく、それは欧米人の場合も然りである。私はどちらかというと「砂漠の民」かもしれない。自分の考えや意見は、はっきりさせないと嫌だし、直接は見えないものにもいろんな意味で関心がある。くっだらない妄想も大好きだったりする。

ちなみにだが、筆者によると今日の日本では「森林」の「砂漠化」が進んでいるとのこと。当然の成り行きかもしれない。一国のリーダーや大企業のトップが「存じません」だとか「それについては後ほど云々」などと、お茶を濁したり曖昧なことばかり言っていれば、「砂漠化」を求めるのは起こるべくして起きたと言える。

学問の世界はどうだろう。かつて数学者の岡潔が「三つの大問題」とされた数学の難問を全て一人で解決できたのは、「森林の思考」を宿していたからかもしれない。そうと思いきや、京都大学の山中伸弥教授はiPS細胞の発見者であり、これは「砂漠の思考」による産物の可能性だってある。

とは言っても簡単に割り切れるほど単純な問題ではないが、どちらにせよ「偉人」や「成功者」と呼ばれる人たちというのは、両方の思考を上手に駆使できるのが共通点になっていそうな気はする。
2011/11/01

明日の死、教養の死 ― 『教養主義の没落』


教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)
(2003/07)
竹内 洋

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先日とある知り合いになった女性と、ふとしたきっかけから「ブンガク」の話になった。

大変失礼ながら、とても「ブンガク」などというものに関心のなさそうな人だったので、これにはかなり驚かされた。察するに、彼女は結構な数の文学作品を読んでいたと思う。

話をしていてかなり愉快だった。それは、彼女の容貌が良かったからではなく(多少はそれも関係している)、お互いに何か「知的なもの」を共通の話題にできたからだ。

たかが文学作品の読書ごときを「知的なもの」と見なしてしまうのは、どことなく、こっ恥ずかしいくだらぬ見栄にすぎないと捉えられてしまうかもしれない。しかし、かつてそういったものを読んでいることが「教養のある人」とか「知識人」になるための入り口になっていた時代があったことを考えれば、ことさら憚る必要はないはずだ。

残念ながら現代において、こういった「教養」に対して憧れる文化や、「教養」を軸にして何かを語る文化というのは、もうすでになくなっている気がする。むしろ、そういうニオイがちょっとでも出てくると、すぐに一歩引いたり、煙たがったりする人の方が今は多いのかもしれない。

それが私にとっては一抹の寂しさであり、本書のような本に奥ゆかしさを感じるゆえんでもある。

この本は、「教養」というなんだかカタクルシイ概念が、近代以降の日本人(特に旧制高校生たち)からどのように受容されていったのか、また、教養があることに何よりもの重きを置く「教養主義」がどのような文化を創り上げ、そして衰退していったのかをまとめたものだ。

ことに3章「帝大文学士とノルマリアン」は、文学部に縁のある私にとっては、非常に興味深かった。当時、帝大文学部は教養主義の奥の院で、エリート学生文化の中心部だったそうである。それゆえ、37%という(ある意味で)驚異の就職率でも、他学部に引けを感じるどころか、むしろそれがなんだ、文学はパンのための学問じゃない、という気概に満ちていたらしい。読んでいて嫌悪感をもつというよりも、ここまでくるとなんだかその反抗心が逆にかわいらしく見えてしまうから不思議だ。

「教養という言葉は死語になりつつある」と立花隆は言ったが(『ぼくらの頭脳の鍛え方』 p242)、はっきり言おう。教養は、死なせるべきでない、と。
2011/10/30

「目玉焼き」もメタファー ― 『メタファー思考』


メタファ-思考 (講談社現代新書)メタファ-思考 (講談社現代新書)
(1995/04/17)
瀬戸 賢一

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レトリックと人生』という本がある。

ジョージ・レイコフというアメリカの言語学者が書いた本なのだが、中身は「隠喩」(メタファー)についての研究報告だ。

隠喩というと、主に小説や詩といった文学の世界で使われているイメージを抱くかもしれない。しかしながら、実は日常生活における言語表現のレベルで観察しても、ごく普通に用いられていることに気がつく。

たとえば、「戦争メタファー」という概念。

「彼は彼女を徹底的に論破した」の「破」
「彼は討論で誰にも負けたことがない」の「負け」
「彼は相手に反論されて守りに入っている」の「守り」

これらは、みな「メタファー」なのだとレイコフは指摘する。確かにその通りで、戦争の話でもないのに「攻防」や「勝敗」に関する言葉が使われている。これは議論や討論を「戦争」という構図で我々の頭が捉えているがために、おのずとそこから生まれる言葉も、「戦争」に関係するものになるのだ。

他にも、「建築メタファー」や「導管メタファー」、「旅メタファー」など色々あるのだが、本書『メタファー思考』では、著者の瀬戸賢一氏がさらに深くメタファーを掘り下げて解説している。

瀬戸氏も述べているように、「目玉焼き」や「メロンパン」という言葉も実はメタファーである。実際に「目玉」を焼いたわけではないし、「メロン」がパンの中に入っているわけでも、「メロン」の形(球体)をしているわけでもない。先ほどの「戦争メタファー」もそうだが、要するにメタファーとは、何かを見立てることによって生まれた言葉全般を指すのだ。

哲学者ニーチェはその昔、「すべて言葉はメタファーなのだ」とまで言ったが、あながちウソでもない。何かを何かに見立てたり、たとえたりするという行為は、人間の基本的な活動なのである。
2011/09/10

いますぐ書いた! ― 『いますぐ書け、の文章法』


いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書 920)いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書 920)
(2011/09/05)
堀井 憲一郎

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タイトルが「いますぐ書け」なので、いますぐ感想を書いてみる。

読んでいて納得できる部分が多かった。いままで読んだ文章読本の中で一番だ。

文章を書くとは、即興そのもの。

「どんなことを書いて、ここでこういう具体例を出して、それで文体はこういう風なのがいいかな」などと事前に頭で考えていては、文章など書けない。そういう堀井さんの主張、じつは私も過去に同じことを感じてきた。

何について書くか、ひとつだけポンと決めればいい。あとはただ書くだけ。そのとき、そのとき、思いついたことを文字にしていく。その方が勢いが生まれるし、何よりも書く行為そのものが楽しくなってくる。

私も本の感想を書くとき、自分の中で「今日はうまく書けたな」と感じるときと、「ダメだ、なんかもう全然イケてない」と感じるときがある。前者のときを振り返ってみると、頭の中で思いつくがままにキーボードを叩いていたと思う。

もちろん、書く前に漠然と、これについて取り上げようと考えてはいた。が、どんなふうにとか、構成はこんな感じで、というのはいっさい頭の中になかった。とにかく指が動く。ワァーっと勢いよく飛び出す感じだ。

かたや、うまくいかなかった時は、指の動きが滞っていた。ウンウン唸って考えた割には、たいして満足のいかない文章になっていたと思う。いくら時間をかけてもやっぱりダメなものはダメだった。

「文章は暴走する」

オビに大きく、こう書いてある。うまく書けたときは、本当にその通りだ。ウソではない。

そう思うと、文章を書くとは、ジャズを演奏するのに似ているではないか。

何について書くか、何を演奏するかは、あらかじめ決まっている。だが、それはかなりおおざっぱなものである。「こことここを取り上げよう」と決めてしまえば、あとは全部、そのときのなりゆき。即興で組み立てるのだ。

それがなによりもおもしろい。流れに身をまかせ、その場その場で、できていくものを楽しめる。

私は文章を書くのも、ものづくりのひとつ、工作の内だと考えているが、一般的に「ものづくり」「工作」という言葉からイメージされるのは、最初から設計図があり、それに従って作り上げていくというものではないだろうか。

しかし、執筆はその中でも、設計図を必要としない(むしろあったら邪魔だ)特異な存在である。そのとき頭に浮かんだことを文字にする方が、「作品」として成立しやすいという特徴があるのかもしれない。

だから、「いますぐ書け」なのだ。だから、私はいますぐ書いた。いますぐ書かないと、いますぐ忘れそうだから。(ちなみに今この文章を書いているのは、深夜1時過ぎである)

最後に一言。

すぐ書くアホウにあぐねるアホウ、おなじアホウなら、書かなきゃ損損。
(べつにアホウじゃないけどね)
2011/09/05

「動物」という名の無知 ― 『動物農場』


動物農場 (角川文庫)動物農場 (角川文庫)
(1995/05)
ジョージ・オーウェル、George Orwell 他

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2011年度の角川ブックフェアに本書が選ばれていたので、ちょっと取り上げてみたりする。





この本は「革命によって権力を独り占めする者が追放されても、また新たな形で権力者や独裁者というのは現れる」というメッセージをその根幹に添えようとしているわけだが、このことは、ジョージ・オーウェルが風刺しようとしたロシア革命だけに当てはまるものではない。

ロシア革命以前からこういった形態は歴史上繰り返されてきたわけだし、革命などというおおげさなものを取り上げなくとも、自分の幼少時代におそらく一人ぐらいはいたであろうガキ大将とその周辺にいる子供たちという構図の中にでも、こういった「権力がある者から別の者へと移りゆく様子」を見てとることができると思う。その点については、私自身あまり感じるものはない。

それよりもずっと恐怖に感じたのが、支配される側にいる大勢の動物たち(これは市民を暗に表現している)の無知や無教養だ。ある程度の学がなければ(本当は「ある程度」以上にあった方が良いとは思うが)、自分たちは上の人間たちによって、都合のいいように動かされていることに気がつかない。

「いや、そんなことはない。そんなことがあれば、学がなくたってすぐに気がつくさ」と言う人もいるかもしれない。だが、上の人間たちはもちろん、そういった「気づかれるかもしれない」ことにもちゃんと考慮している。その「気づき」を未然に防ぐのが、本書に出てくるスクィーラーのような悪賢い宣伝係だ。

私にとっては、支配者であるナポレオンよりも、むしろスクィーラーのような存在の方がずっと厄介に感じる。言葉が巧みで、大勢の心を同じ方向へともって行き、相手を不利な状態へと追いやっても不利だとは感じさせない。そんなやり口に対しては支配される以上に悔しい。支配には武力でもって無理やり抑えこまれてしまうことがあるが、プロパガンダによって自分を洗脳されるのは、学があれば守ることが可能だからだ。

いや、プロパガンダなどという大きな構図で考えなくても、日常生活で起こる詐欺行為のレベルに対しても同じだ。『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』という本の中で、立花隆はこう述べている。

立花 人間のダークサイドに関する情報が、現代の教養教育に決定的に欠けていますね。この社会には、人を脅したり、騙したりするテクニックが沢山ある。それは年々発達しているから、警戒感をもって、自己防衛しないと、簡単に餌食になってしまう。虚偽とは何か、詭弁とは何かについて学んでおくべきですね。(中略)大学の教養課程でも、「暗黒社会論」、「悪の現象学」的なコースを設けるべき。悪徳政治家、悪徳企業のウソを見破る技法、メディアに騙されない技法を教えることが現代の教養には欠かせません。(p168-169)

「悪」に対抗するには、あらかじめ「悪」を知っておく必要がある。そうでなければ、無知や無教養であることは、騙されることを自ら迎合することに等しい。

怖いのは、個人のレベルで無学なことよりも、一般市民の半数以上が無学であること、そしてその点に本人たちが気づかないことだ。

それを防ぐためにも、ジョージ・オーウェルがこういった「物語」という形式で、このことを暗に伝えようとしたのは、ある意味で非常に賢くうまい手段だったのではないかと私は思う。なぜならば、「意見文」という形にして彼自身の考えを伝えようとするよりも、「物語」という形にした方が、一般大衆はずっと受け入れやすいし、具体的な固有名詞を持ち出さないため、政治的なトラブルにも巻き込まれづらくなる。そして何よりも、オーウェルその人が作家であり、「物語」という形で表現することが「作家」としての存在意義も同時に示せているからだ。
2011/09/04

見る側の論理と作る側の論理の不一致 ― 『メディア・リテラシー』


メディア・リテラシー―世界の現場から (岩波新書)メディア・リテラシー―世界の現場から (岩波新書)
(2000/08/18)
菅谷 明子

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2000年代後半から、インターネット上において動画サイトが非常に充実してきた。そのブームの火付け役ともいえる「YouTube」は、世界各国から毎日大量の動画がアップロードされている。そういったサイトが豊富になるにつれ、手軽に動画作成をおこなえるソフトも昔と比べて大幅に増えた。

実は私もかつて、動画サイト「ニコニコ動画」に自分の作った動画をアップロードしたことがある。実際に「動画」というものを作ったわけだが、そのとき感じたのは、なんと言っても「作ることの難しさ」だった。自分で作った物語を動画化しようと思い、物語の進行からキャラクターの設定や配置、セリフ、そして演出方法などを考え、それを数枚の紙に台本としてまとめた。

それを今度は「映像」というメディアに変換するのだが、そのさい色々なトラブルが生まれた。ソフトの使い方や機能が分からないなどの問題は、かならず起こるだろうと予測していたが、予定の再生時間内に物語全部のシーンがのせられないという予想外の問題が生まれ、どのシーンは必要で、どのシーンは削るかなども考えなければならなくなった。

その場その場でなんとか解決し、なんとか動画が完成したのでさっそくアップロードしたが、今度は絵や文字が見づらいという事態が発生した。とりあえず、すでに多数の作品を載せているほかのユーザーのものと比べてみたが、自分の作った動画がいかに貧弱なものか、作れた楽しさがあった反面、むなしさや悲しさもあった。

しかし、「映像を作るとはどういうことか」が少しでも分かったのは幸いだったと思う。「テレビ番組などの製作過程もこれに近いのかもしれない」という推測もある程度は立てられた。テレビ番組は時間にきちんとした制約があるため、必要なもの、不必要なものというくくりを明確にしないといけない。だが、そのくくりは場合によって、視聴者の印象や感情を大きく左右させてしまう。

本書に出てくるメディア教育は、メディアについて習う生徒たちに、この点を強く認識させようとしている。それも言葉によってではなく、実際に映像を作らせることによってだ。個人的には非常に良いことだと思う。実際に作る側に回ってみれば、制作側が何を意図して番組をつくろうとしているのかを推測しやすくなるからだ。

また、テレビで放映されたものすべてが事実ではないということにも気づきやすくなる。とくにドキュメンタリーやニュース番組を見る際、このことを意識しているかいなかは、かなり重要になってくるだろう。人になにかを伝えるとき、素材そのものや、その素材のどこを使うか、どのように選び組み立てるかなど、そういった制作サイドの裏側や仕組み、時にはその放送局の思想信条が番組の内容に大きくかかわってくるということを、前もって知っておく必要がある。

私がブログでやっている本の紹介も、構図としては映像制作と同じだ。本の紹介といっても本の内容全部を紹介するわけではないし、実際のところ不可能である。結局は読んだ人にとって印象深かったところを紹介するというのがほとんどだ。そのため、べつの人が同じ本を読んだからといってそれが同じように印象深いというのは、おそらくそれほど多くない。「紹介文を読んでおもしろそうと思ったから、買って読んではみたものの、そんなにおもしろくなかった」ということはだれしも一度はあるだろう。事実と、事実から一部分を切り取って編集したものは大きく違うという好例である。

あるものを「批判的に見る」とは、内容そのものだけでなく、作っているのは誰なのか、どういう過程を経て作られたのかなども含めて見る(または想像する)ことだ。今後ますます加速していくであろう情報社会において、こういったものの見方を養っていくのは当然といえるだろう。
2011/08/28

「白雪姫」は女性の敵か ― 『お姫様とジェンダー』

お姫様とジェンダー―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門 (ちくま新書)お姫様とジェンダー―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門 (ちくま新書)
(2003/06)
若桑 みどり

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幼い頃、転んで膝を擦りむいた痛みから、よく涙を流していた。そのときの記憶はもう定かではないが、親から「男の子なんだから、そんなことで泣くんじゃない」とたしなめられたことはあったと思う。

その頃の僕は当然ながら「男の子なんだから」という理由をなんの疑いもなく受け入れ、「男の子にとっては泣かないことが大事なんだ」ということを、なんの疑いもなく消化していったと思う。

それから十数年たって「ジェンダー」という概念に出会った。「男はこういうもの、女はそういうもの(だから男は、女はこうしなさい、ああしなさい)という考え方は、その人の生き方や価値観を縛りつけ、自由を奪うものだからやめましょう」という主張があることをそのとき知った。

当時はそのとおりだと思ったが、今になってみるとそういった「考え方」自体はあっても良いと思う。どんな理屈をつけようと、やはり男と女は心身ともに違う。違うものを無理に一緒くたにするのはいかがなものか。違うなら違うで、それぞれの「やり方」を設けたほうが支障はない。「やり方」のひとつ、生き方の指針のひとつとして見るなら、「男ならこうすべき」「女ならこうすべき」という考え方も歓迎してよいと思う。

プリンセス・ストーリーに出てくる登場人物の生き方や立ち振る舞いもその「やり方」のひとつであるが、気をつけたいのは、その「やり方」を絶対視してしまうことである。

どうしてプリンセス・ストーリーがこれほど生産されて消費されているかといえば、この本の冒頭に書いたように、それは社会と家庭の中軸にいるのが男性であると決め、女性はその補助であり、女性の主たる存在理由は性的な仕事――性そのもの、出産、育児――にあるとする家父長制社会の通念にしたがって、その制度や慣習を持続することを理想とし、美徳とする男性たちの見えない力がとても強いからである。その力によってこの社会の教育や文化が創造されているからである。(p175)

これに対し、僕はこう考える ― プリンセス・ストーリーはその人の生き方や価値観を縛るのではない。縛る原因となっているのは、プリンセス・ストーリーの中にある「隠されたメッセージ」を持ち続け、それを“いつまでも”「女性としてのあるべき姿」とか「女はこう生きるべき」などといった形にしてしまっていることだ、と。

プリンセス・ストーリーの中に出てくる登場人物の生き方や立ち振る舞いというのは、一つのケース(事例)に過ぎない。それが「絶対」ではないし、「そうでなければならないもの」でもない。問題なのは、そういう生き様や所作を「女性として生きるための必要条件」といったように考えてしまうことにある。

プリンセス・ストーリー以外のものに目を向けてみたらどうか、というのが僕からの提案である。人生や生き方についてのエッセイを読む、男性向け(とされている)冒険小説を読んでみる、講演会などに足を運んでみるなど、「プリンセス・ストーリーの呪縛」なるものから逃れる方法は無数に存在するのではないか。色々な人の考え方を自分の中に住まわせる、共存させるというのが、ひとつ鍵になってくると思う。
2011/08/09

お気に入りのエッセイ集


不道徳教育講座 (角川文庫)不道徳教育講座 (角川文庫)
(1967/11)
三島 由紀夫

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若きサムライのために (文春文庫)若きサムライのために (文春文庫)
(1996/11)
三島 由紀夫

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当方、三島の小説は読んだことがない。しかし、エッセイは本当に面白い。オススメは上記二冊である。『不道徳教育講座』は捻りある文章で、逆説と皮肉とユーモアに満ち溢れている。「大いにウソをつくべし」「弱い者をいじめるべし」「痴漢を歓迎するべし」などなど、釣りっぽい見出しだが釣りではない。




自分探しと楽しさについて (集英社新書)自分探しと楽しさについて (集英社新書)
(2011/02/17)
森 博嗣

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創るセンス 工作の思考 (集英社新書 531C)創るセンス 工作の思考 (集英社新書 531C)
(2010/02/17)
森 博嗣

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科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)
(2011/06/29)
森博嗣

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森博嗣のエッセイはついつい読んでしまう。彼のエッセイは他にもあるが、中でもこの二冊はお気に入り。震災後、『科学的とはどういう意味か』という、新しいエッセイが発売されたのでさっそく読んだが、これは今までの「作ること・楽しさ・自由」というテーマではない。科学の何たるか、そして文系と理系の違いをうまく説明している。科学に興じることがいかに大切かが分かる。




ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)
(2011/01)
内田 樹

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「おじさん」的思考 (角川文庫)「おじさん」的思考 (角川文庫)
(2011/07/23)
内田 樹

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『「おじさん」的思考』はまだ未読だが、それでもあえてオススメする。もしかしたら『ひとりでは生きられないのも芸のうち』とかぶるような中身かもしれない。




私の嫌いな10の人びと (新潮文庫)私の嫌いな10の人びと (新潮文庫)
(2008/08/28)
中島 義道

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私の嫌いな10の言葉 (新潮文庫)私の嫌いな10の言葉 (新潮文庫)
(2003/02)
中島 義道

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ところどころクスクスと笑いがこみ上げてくる本だ。「絶えず笑顔である人が嫌い」「大学で哲学なんか教えて金をもらうな」「思いっきり暗い雰囲気の会社をつくりたい」さすがは「闘う哲学者」中島義道である。逆説でもなんでもなく、主張そのままの中身だ。
2011/07/02

急に「断捨離」なんて言われても困るのよ ― 『生物学的文明論』


生物学的文明論 (新潮新書)生物学的文明論 (新潮新書)
(2011/06)
本川 達雄

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ひと昔前に『ゾウの時間 ネズミの時間』という本がブームになりました。僕も以前買って読んでみたんですが、学術的な記述が多く、理解するのが大変だったのでほとんど読まずに古本屋に売ってしまったんですよね。

で、本書はというとすごく読みやすくなっています。既作のものと違ってエッセイ調です。優しいおじいちゃんが孫に生物学の面白さを語るような感じで書かれています。



著者の本川さんによると、時間というのは相対的なものらしいです。その人その人によって、感じる「時間の早さ」というものがある。あることに自分のエネルギーを注ぎ込めば注ぎこむほど、時間を早くすすめることができるらしい。例えば、自分の好きなことに没頭している時や忙しい時(つまりそこにエネルギーをたくさん使っている時)、時間の進みは早く感じられます。一方、退屈なことをしている時は、時間の進みが遅く感じられます。

今の時代、会社という組織は自分たちの利益を上げるために、必死になって仕事にエネルギーを注ぎます。他社は何をしているのかという情報を集まるためにエネルギーを使う。今日中に仕事を終わらせるためにエネルギーを使う。24時間体制にしてエネルギーを使う。要するに、たくさんのことに自分たちの力を注ぎ込むわけです。

そうするとどうなるか。時間が早く進みすぎて追いつけず、みんな次第に疲れてくる。疲れたぶん利益が上がったり、新しい契約が取れたり、業績が良くなったりすれば万々歳ですが、そうはなりにくい時代です。かといって、やめれば時代に取り残されるという思いもある。だからもっともっと社員を働かせて……と悪循環に陥るのだ、と。

なるほどなぁと思いました。最近は書店で「断捨離」系の本をよく見かけますが、政府からの節電奨励もあって、そういう流れが出てきたのかもしれません。しかしながら、こういうところに僕は日本のいい加減さが見て取れるんじゃないかなあと感じます。今までずっと〇〇を肯定していたのに、それが(ちょっとでも)うまくいかなくなるとすぐに〇〇はダメだ、これからは□□の時代だと主張する。どうしたら◯◯はダメにならないかという「立て直し」は考えず、新たに「作り直し」をしようとしているように見えるんですよね。



話が逸れました。

さて、エネルギーの使用量が多すぎると、それを維持するのが大変になるというのはよくあることです。たくさん働いてたくさん稼ぎ、周りの人よりもいい生活をしている人は、それを維持していかないと、なんだか不幸になった気分になるorなりやすいと思うのですが、どうでしょうか。

こういう人たちに向かって、急に「じゃあこれからは断捨離だ」とか「なるべく働かないようにしよう」と言っても無理な注文です。今までのいい生活に慣れきっているんだから。

ということで結論なんですが、今までエネルギーをたくさん仕事に注ぎこんできた人たちは、今まで通り頑張った方がいいです。一方、これから社会人になる人や、以前からエネルギーをたくさん仕事に注ぎこんできていない人たちは、無理に頑張らない方が良さそうです。年収の多さや社会的名誉は、おまけ程度に考えた方が無難かもしれません。

2011/06/11

「こうするとうまくいかない」という本を作ってみる ― 『失敗学のすすめ』


失敗学のすすめ (講談社文庫)失敗学のすすめ (講談社文庫)
(2005/04/15)
畑村 洋太郎

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失敗とは何か、どのように起きるのか、未然に防ぐにはどうしたらいいのか、を記した本。先日行った御茶ノ水にある三省堂で、大量に売られてました。売れ筋ランキングトップ10に入っていたかな?



最近のドラッカー本ブームや、成功哲学本などの売れ行きを見ていて思うんですが、「こうするとうまくいく」(うまくいきやすい)を語った本というのは実によく売れる。こう言うと、「ドラッカーの『マネジメント』は、そこら辺に売られているような単なるハウツー本ではない」と言われそうですが、「いい組織を作るには」とか「効率的に動くには」などを語っている点では、突き詰めると、「こうするとうまくいく」的な本になると思うんですよね。

その一方、「こうするとうまくいかない」を語った本というのは少ない。「こうするとうまくいかないから、こうしましょう」という本はあっても、「こうするとうまくいきません。以上です。」と、失敗例や失敗した事実だけを書いて終わる本というのは、ほとんどないのではと思います。

「こうしましょう」の部分は、筆者の意見もしくは、過去の成功事例から導かれた結論のどちらかです。しかしながら、それを真似て必ず成功するor失敗しないという保証も結構怪しかったりします。

それだったら、いっそのこと、読者を徹底的に失敗に向かわせるような本を作ってみたら面白いんじゃないかなあと。例えば、「私はここで◯◯をして失敗しました。みなさんもやってみてください。失敗しますから。責任はとれないけどね☆」みたいな本なんかどうですかね?笑えながらも、割とインパクトのある本になりそうな気がします。新書か文庫でやれば、結構売れるかもしれない。

「そんな本、誰が得すんの?」と思われるでしょうが、あえて解決策を与えない方が実は自分のためになったりするものです。成功は人をあまり考えさせてくれはしませんが、失敗は大いに考えさせてくれます。本当に回避すべきは「失敗すること」ではなく「失敗しても何も考えないこと」なんじゃないでしょうか。
2011/05/14

「考える」ということ ― 『長谷川如是閑評論集』


長谷川如是閑評論集 (岩波文庫)長谷川如是閑評論集 (岩波文庫)
(1989/06/16)
長谷川 如是閑

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長谷川如是閑(はせがわにょぜかん 1875-1969)は大正・昭和期に活躍したジャーナリストだ。

私が彼を知ったのは、大学受験生の時だった。大学の過去問を解いていて、問題の選択肢に彼の名があった。妙にこの名前が頭に残った。以来この名を目にしては反応してしまう。で、先日、書店の岩波文庫のコーナーでふと目にとまり、手にとってみたという次第だ。

ジャーナリストであったためか、文章は非常に読みやすい。戦前の文章にありがちな読みづらさがない。もちろん、中身も面白い。

その中に、「大学生の軍事研究」(1923年)という章があるので、いつものごとく抜粋しておく。


元来普通教育においてすら今日の日本のように軍国的教練を課し、少年をして軍国的精神を以て武器を取り扱わしめるが如きは、決して今日の国家的精神を得たものとは言われないのである。なるほど、英人の如きは大抵の者は銃器の扱い位は心得ており、馬匹の扱い等も日本人の比ではないが、しかしその鉄砲なり馬なりを扱う精神は、日本の教育におけるような軍国的精神ではない。全く遊戯または職業としてである。

(中略)

畢竟、彼らは日本人が軍国的に受けている教養を、日常事として受けて来たのである。規律は日本人に取っては軍隊的のものであるが、西洋人にとっては市民的なものなのである。武器も日本人にとっては軍国的兇器であるが、西洋人にとってはスポーツの器具である。日本人は軍国精神でその教養を受けたため、銃器や規律的行動を日常生活から引き離して、他所行きの軍国的生活と考うることとなり、その結果、今日のように軍国主義排斥の時代が来ると、銃器や規律そのものを嫌悪することになるのである。(p237-238)


「教育」として受けるか、「日常ごと」として受けるかで、こんなにも行動が違ってくるという話だ。

「教育」というのは、何かを一方的に伝達する、という性質が強い。そこでは、必ずしも「考える」ことを要さない。親がこうしなさいと言ったから、先生がああしなさいと言ったから、という理由だけで、事足りる面がある。一方、「日常ごと」であれば、物事に対して「なぜ〇〇なのか」「どういう仕組みになっているのか」などと考える(特に意識することはないだろうが)機会が多い。

どちら方が重視されるべきだろうか。どちらも大事だと思う。時には明確な理由を告げずとも、指示に対して動かなければならないこともある。また別の時には、自分で考えて動かなければならないこともある。

一番の問題は、何も考えなくなることだ。マニュアル化というのは、その意味において害悪である。

考えるという動作は、ものすごくコストがかかる。もちろん、金銭的な意味で、ということではない。体力の面で、時間の面で、そして心理的負担という面で、という意味である。

近頃は、そういったコストをかけることに重きを置かれなくなっている気がする。学校の授業や入試において、その傾向は特に強いのではないだろうか。これは、昨今の教育方針で挙げられている「授業時間を増やす」「学習内容を以前よりも広げる」などといった措置で解消できるものではない。要は、「考える」ということ、そしてそれに対し「コストをかける」ということ、この二つを根本的に見直さなければならない。当然、子どもにもそれを(彼らにわかる形で)伝えないといけない。それが、今の「教育」の最もすべきことである。

2011/05/04

「仕事」と「趣味」と「好きなこと」の違い ― 『無趣味のすすめ』


無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)
(2011/04/12)
村上 龍

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現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属す共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて安全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。つまりそれらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。(『無趣味のすすめ』p8)

「趣味探し」に奔走していた近頃の自分を振り返ってみた。「趣味を満喫して充実感を」なんて、所詮たかが知れている。趣味を満喫している、まさにその時は楽しいかもしれない。

しかし、あとになって振り返っても、その時の余韻に浸れるような、そんな「楽しさ」は存在しない。それは、趣味という箱庭の中で生まれる楽しさだからだ。普通はそこに、大変なまでのエネルギーや時間といったコストを費やすことはないし、できるはずもない。費やせばそれはもはや「仕事」だろう。やってみてつまらなかったら、すぐにでも撤退できる。

よく、「趣味がないと人生はつまらない」などと言う人がいる。だが、つまらない原因は趣味がないからではない。楽しさがないからである。そして、楽しさをつくる「手段のひとつ」が、「趣味」なだけの話だ。

楽しさはどこにでもあるし、どこにでもつくれる。人と会話するのは楽しい。どんな服を着ていくのかを考えるのも楽しい。旅行やショッピングという目的がなくとも、どこか別の場所へ移動するのも楽しい。仕事で何かうまくいくのも楽しい。趣味を満喫するのも楽しい。他にも色々な「楽しい」があるだろう。

では、趣味とはなにか。私は、「いつも安定して楽しさをつくることができ、且つある程度のペースで続けていること」だと考えている。つまり、いつ、いかなる時にやっても、(それが高い確率で)楽しい(と思える)ものであり、そこそこのペースで続けているのが「趣味」である。

こう定義してみると、あながち自分が楽しいと思えることは、なんでもかんでも「趣味」とは呼べなくなる。「趣味」という一つの枠に入るのに、少し厳しい「審査基準」があり、その「審査」に合格しないと、それは「趣味」と呼べない、といった感じだろうか。

私の好きなことを挙げてみよう。スポーツならビリヤード、卓球、テニス。ゲームなら将棋、ソリティア。料理や散歩もそこそこ好きである。しかし、これはあくまでも「好きなこと」であり「趣味」ではない。一時期ハマってすぐに終わり、また一時期ハマってすぐに終わりと断続的であり(断続的ですらないものもあるが)、ある程度の継続性がないからだ。

おいしいものを食べるのも好きだ。しかし、これは「趣味」だろうか。食べること自体、生きていく上で必要不可欠である。飲み物を飲むのも同じだ。そうするとこれは、「趣味」というよりも一種の「生理現象」ではないか ― こんなふうに思考を飛躍させるのも楽しい。それこそ、私の「趣味」と言えるかもしれない。

さて、中には、堂々と人に言えないものを趣味としている人もいる。怪しいもの、きわどいもの、色々ある。だが、先の定義に合うなら、それは立派(?)な趣味と言える。ただそれが公に言えないというだけの話だ。

趣味を言うと、時々「変だ」とか「ダサい」「暗い」などと言う人がいる。これは、その趣味自体を否定しているのではない。それを満喫しているその人の姿や性格、雰囲気について言っているのだと思う。

「こんなことを言われたくない。どうしたらいいですか?」という質問をされたら、私はこう答えるだろう。「趣味を変えてもあまり意味はないだろうね。そもそも趣味そのものには、他人に迷惑をかけない限り、何の落ち度も罪もない。だから、君自身が変わってみたらどうだろう」

では、自分自身を変えるためにはどうしたら良いか。それこそ村上龍の言う、「仕事」をすることではないだろうか。

本当の達成感や充実感は、自分が変わった時にのみ得られるのかもしれない。
2011/04/29

生きる為のルールだから、ほんの少し悲しいだけ ― 『ルポ 餓死現場で生きる』


ルポ 餓死現場で生きる (ちくま新書)ルポ 餓死現場で生きる (ちくま新書)
(2011/04/07)
石井 光太

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体で書いた本というのは、どれも面白い。著者本人が直に現場で触れてきたもの、感じてきたものを記しているからである。それは読者に、時には感動を与え、時には残酷を映し出す。

本書はどちらだろう。無論、後者である。そしてこれは仮想世界の話ではない。現実世界で、今まさに起きていることなのだ。

貧困問題というと、たいていテレビか何かでその現状が映し出され、「ああ、なんてかわいそうな人たちなんだ」「さぞつらい世界なのだろう」などというありがちな感想を、我々一般人は抱きがちである。

しかし本書を読む限り、そういう見方は金持ちで豊かな人間たち(彼らと比べての話だが)の上から目線に過ぎない、と私は感じた。


そこで私は考えました。私たちは、アフリカの人々のそうした気持ちに、どの程度思いを馳せたことがあるだろうか。少し踏み込んで言うと、私たちは、アフリカの人々が少なくとも我々と同じ程度に祖国に誇りを持ち、我々と同じ程度に優秀で、我々と同じ程度に幸せな暮らしを営んでいることを知っているだろうか。日本とアフリカの経済規模や科学技術の水準の差に目を奪われ、国力の差を個々人の幸福度の違いと錯覚し、「進んだ日本、遅れたアフリカ」「幸せな日本の暮らし、気の毒なアフリカの暮らし」と思い込んではいないか。そうした認識に拘泥することが、巡り巡って日本社会を覆う閉塞感に関わっているのではないか・・・。(『日本人のためのアフリカ入門』(p14)


上記はアフリカについての話だが、アフリカ以外の、「貧困で苦しんでいるとされている国」と比べた場合でも同じことが言える。

貧困問題について考える時、「我々(先進国、金持ち側の人間)はどう思うか」という視点から論じてしまいがちだが、実際は、つまり、「貧困で苦しんでいるとされている人たち」はどうなのかを前提にしないと、話は全く変わってくる。

以下、そのことを感じさせてくれたエピソードから引用。


当時、ヘレンは14歳になったばかりでした。母親はスラムにとどまっていれば、ヘレンは自分と同じように誰かからHIVをうつされることになるかもしれないと心配しました。が、母親である自分に残されている時間はわずかです。そこで、彼女は田舎に帰るとすぐ、仕事のある21歳の男性をヘレンの許嫁として決めてしまったのです。

(中略)

彼女は次のように言っていました。

「お母さんが私を思ってこうしてくれたのがわかる。だから、お母さんの言う通りに結婚した。村では、お母さんばかりじゃなく、他の親も同じことをしている。いい年になってブラブラしていると、『あの女はHIV感染症じゃないか』なんて噂が立ってしまうし、本当にそうなってしまうから、できる限り早く結婚させたがるのよ」

私は、君はそれでもいいと思っているのか、と尋ねました。彼女はうなずいて答えました。

「もちろんよ。私だって色んな人と関係して病気になるより、きちんと家庭を持って安全な生活をした方がいいと思っている。結婚については、まったく悔やんでいないわ」(p149)


「こんな強制的に結婚させられてしまうなんて」などと同情心の一つでも持つかもしれない。かくいう私もそうだ。が、どうやらそれは見当違いのようである。


「別れることは怖くない」君は涙みせずに言った
生きる為のルールだから、ほんの少し悲しいだけ


私の好きな曲『金曜日のライオン』(TMネットワーク)の歌詞の一部だ。書いていて、ふと頭に浮かんできた。そう、彼らにとっては「生きる為のルール」なのである。

そして本書『ルポ 餓死現場で生きる』は、まさにこの「生きる為のルール」がこんなにも多様なのだということを、つぶさに教えてくれるのだ。

先のエピソード、それはその一部分に過ぎないとしたら、あなたはどう思うだろうか。
2011/04/27

Googleの挑戦 坂本龍馬の構想 ― 『グーグル10の黄金律』


グーグル 10の黄金律 (PHP新書)グーグル 10の黄金律 (PHP新書)
(2011/04/21)
桑原 晃弥

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昨年(2010年)のNHK大河ドラマ『龍馬伝』で、主人公・坂本龍馬(福山雅治)が新しい日本の構想、いわゆる「船中八策」を練るシーンがあった。

その内容は当時の常識と全く異なる画期的なものである。龍馬の大胆さや奇抜さもさることながら、私には堂々と楽しそうに未来の日本について語る彼の姿がすごく印象的だった。

もちろん、ドラマだから本当にそう語ったのかは定かではないが、龍馬が日本の未来図を描いていた時というのは、さぞ心踊るものだったに違いない。

そして現代は? そう、本書の主人公・Google(正確に言うと、Googleを立ち上げた二人、ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリン)が、まさに坂本龍馬のような存在なのである。

よく言えば大胆。悪く言えば無鉄砲。しかし言い方はどうであれ、独創的であることは疑い得ない。人望の高いところもそっくりである。(女ったらしかどうかは分からないが)

私はGoogleに勤めているわけではないから、実際の仕事現場はどうなのか分からない。だが、本書を読むだけでも非常にワクワクする。今すぐにでも、働いてみたくなるだ。

坂本龍馬とGoogleの共通点 ― それは「スケールの大きさ」に尽きる。でかい。とにかくでかい。でかすぎる。

今の日本はどうだろう。ここまで「でかさ」を意識する人、特に若い人はいるだろうか。いや、不況の「でかさ」でそれどころではないかもしれない。

ラリーもサーゲイも、Google創設当時は20代だった。大胆さも奇抜さも若さ故の産物だったのかもしれない。

スケールの大きさを描くのに年齢制限などない。若くてもいい。年をとってからでもいい。ただし一つ注意すべきことがある。それは「決して、小さく描くな」ということだ。
2011/04/16

私とみすずと人間観察と ― 『金子みすゞ童謡集』

金子みすゞ童謡集 (ハルキ文庫)金子みすゞ童謡集 (ハルキ文庫)
(1998/03)
金子 みすゞ

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今再び注目を集めている金子みすず。

私は色んなジャンルの新書をたくさん読むのだが、文芸作品だけはほとんど読まない。

しかし、某CM効果により、急に金子みすずの詩が読みたくなってしまった。







金子みすずという詩人を知ったのは小学校低学年の頃だったと思う。

きっかけは『私と小鳥と鈴と』という詩。


私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんの唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。


幼い頃は、この詩を読んでも、何もピンと来なかったが、今はなんだかジワジワと心にしみてくる。

金子がこの詩を書いたというのも、おそらく当時の日本人は、人と違うということに対して不寛容だったのだろう(今もそうかもしれない)。果たしてそれは、いいことなのか。そう疑問に思った彼女は、なんら小難しい言葉を使わずに、しかし意味深長なこの詩をつくって、読む者を考えさせる。

誰でも知っている、誰でも想像できる具体的なものや情景を詩に織り込んで、そこから人間とは何か、生きるとはどういうことか、などといった哲学的な問いを引き出す ― これが金子のスゴイところ。

たぶん、彼女は人間観察が大好きな人だったと思う。その点は私も同じ。観察していて、こんなにも面白く、こんなにも考えさせてくれる、そして悩ませる生き物というのは、人間以外にありはしない。


もう一つ、気に入った詩をご紹介。


誰がほんとをいうでしょう、
私のことを、わたしに。
よその小母(おば)さんはほめたけど、
なんだかすこうし笑ってた。

誰がほんとをいうでしょう、
花にきいたら首ふった。
それもそのはず、花たちは、
みんな、あんなにきれいだもの。

誰がほんとをいうでしょう、
小鳥にきいたら逃げちゃった。
きっといけないことなのよ、
だから、言わずに飛んだのよ。

誰がほんとをいうでしょう、
かあさんにきくのは、おかしいし、
(私は、かわいい、いい子なの、
それとも、おかしなおかおなの。)

誰がほんとをいうでしょう、
わたしのことをわたしに。


この、何とも言えない、ジワジワ感。

私だったら、「人間というのはだね、偽善に満ちた生き物であって、本当のことなど言わぬものなのだよ」などとエラソウに上から目線で言ってしまいそうだ。身も蓋もない。決して詩にならんよね。

金子みすずの詩の良さって、ちょっとした謎やちょっとした問いを、読者の前に置き去りにしていくところにあるんだろうなあ。
2011/04/08

「〇〇しましょう」「××はやめよう」というCMについて

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)
(1997/10)
中島 義道

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最近のACのCMを見ていて思うのだが、「◯◯しましょう」「××はやめよう」といった内容のものが非常に多い。


「節電しよう」「必要以上の買い溜めはやめよう」「譲り合おう」 ― こういった類のCMを少なくとも一日一回は必ず目にする。


そんな中、本書『〈対話〉のない社会』で、こんな記述が気になったので引用しておこう。


こうして、「お上」は弱者保護という世の潮流に乗って、ガン細胞のようにますます管理標語・管理放送を増大させてゆく。そしてますますそれに対して不感症になってゆく。「駆け込み乗車はおやめください」という甲高いテープ音がガナリたてても、猛然と電車に突進する。駐輪禁止の立て札がうるさいほど立っている区域にも平然と自転車を置く。

(中略)

再度確認しておく。私はだれも守らないから管理標語・管理放送をやめよ、と言っているのではない。すべての人がそうした標語を見て放送を聞いてはじめてルールを守るとしたら、それこそ恐ろしい社会だと言いたいのだ。

(中略)

管理標語・管理放送は一方で言葉を信頼しない軽薄人種を量産し、他方自己判断能力の徹底的に欠如した怪物をつくり出す。こうして、管理放送・管理標語漬けによって、同胞は日々刻々と自己判断力を削がれ、言葉を気にとめないように訓練されるのであるから、末期ガン患者にモルヒネの量を増すように、「お上」はますます管理標語・管理放送の量を増やさねばならない。(p95-96)


「節電しましょう」と言われなければ節電しない。「必要以上の買い溜めはやめましょう」と言われなければ、買い溜めをやめない ― ACのCMについても同じことが当てはまると思う。


これは、「こういう内容のものでも流さない限り、国民は意識が薄い」ということを暗に意味したメッセージであるとも受け取れる。仮にそうだとしたら、何だかあまりにも悲しい。危機意識のなさや道徳の欠如をエンエンと(しかも大多数の人間に気付かれないように)指摘されているのと同じなのだから。


「ACはCMなんか流すな」などと言いたいのではない。「〇〇しましょう」「××はやめよう」といった放送ばかり流して国民に意識付けさせる、というのはあまりにもレベルが低いし、そういうCMを見てはじめて意識的に◯◯をしたり、××をやめたりするというのもおかしいのではないか、と言いたいのだ。


「頑張ろう!日本」「未来を信じている」系のCMも一緒である。そもそも、あれは誰に対するメッセージなのだろうか。被災した人たちに対してなら、かなり軽薄だと思う。家は全壊、職も見つからない、そんな人が圧倒的に多い中、ただただ「頑張ろう」「未来を信じて」などというテープを(何も被災していない人間たちによって)流され続け、その通りにできる人というのがいるだろうか。少なくとも私が被災した立場にあれば反感を持つ。


また、被災していない人たちに対してならそれもそれでおかしい。節電や計画停電などで支障をきたしている所もあるが、被災していないほとんどの人たちは、頑張ろうなどと言われずとも頑張っているし、地震以前からそうしている。不況も続く中、頑張らざるを得ないのは分かりきっていることである。にもかかわらず、ひたすら「頑張ろう」「未来を信じて」などと(しかもCMに)言われたって何も響かない。


もちろん、元気づけるのはいけないということではない。


そうではなく、「自己満足や形だけのCMになってはいないか」「これは見る側の立場を本当に考慮しているか」 ― CM制作者たちの最も注意しなければならない部分というのは、そういったところにあるのではないかと言いたいのだ。


ずいぶんと偏った(もっと言えばひねくれた)意見だが、今のCMについてはそういう見方もできると思う。



追記:この記事を書いた後に、↓の記事を見つけたのでご紹介。


頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。(はてな匿名ダイアリー)
2011/04/03

「やかましい」どころか超ウザイ ― 『「お客様」がやかましい』

「お客様」がやかましい (ちくまプリマー新書)「お客様」がやかましい (ちくまプリマー新書)
(2010/02/10)
森 真一

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私は「“お客様”としてもてなされる」のが嫌いである。


以前、某メガネ店(チェーン店)でメガネを購入した時の話。その店では、メガネを買った客に対し、店員が「店の出口まで(メガネを)お持ちいたします」と言って、メガネをいれた紙袋を持ちながら客と一緒に出口まで歩き、そこで商品をわたし、最後に大きな声で「ありがとうございました!」と、笑顔で見送るのだ。


某紳士服店(チェーン店)でスーツ一着を買った時も似たような対応をされた。


どうもムズ痒くてしょうがない。なぜ、たかがメガネ一つ、スーツ一着で、そこまでもてなせるのだろうか。べつにウン十万もするような高級なものを買ったわけでもないのに。


ふつうにレジの所で商品をわたし、「ありがとうございました」の一言だけあればそれでいいと思うのだが、どうやらそういう対応だけではダメなようだ。


そんな対応ばかりしてたら、いつかそれが当たり前になって、客はさらにそれ以上の対応を望むようになるんじゃないかなーと、思っていたところ、この『「お客様」がやかましい』という本を見つけた。で、書いてあることの9割以上は賛成できる内容&自分が思っていたことだったので、まさに「我が意を得たり」の心地である。


純粋に商品の魅力だけで他店と勝負できなくなっているんだなあと感じる。だから結局、そこに「店員」が介在してくるのだろう。ひと昔前のような、いわゆる職人肌の「がんこ親父」が、客に対して無愛想ながらも、心から納得させるだけのモノ(それが食べ物でも身につける物でも)をつくる、という風土がなくなりつつあるのかもしれない。商売する人の関心は、「物」から「客」に移ってしまったということだろうか。


学校の先生も大変だ。モンスターペアレントが来るわ、生徒は言う事聞かないわ、叱ったら叱ったでクレームが来るわ。これも過剰なまでの好待遇が、社会に浸透しているからだと筆者は言う。前に『一億総うつ社会』という本を取り上げたが、その本の著者は「親の強い自己愛が我が子に移ったから」と解説していた。どっちの意見も合っていると思う。


その内、「土下座でおもてなし&お見送り」なんてのも始まるかもしれない。いや、この勢いなら、その可能性もなくはないだろう。そうなったらホントにシャレにならんよ、このクニは。


もうさ、「モノだけで勝負する!」みたいな、そういう土壌を一から作り直した方がいいんじゃなかろうか。アップルの「顧客の言うことなんか聞かない!」精神はもっと評価されるべき。
2011/04/01

大震災と寺田寅彦の予言、そしてその教訓 ― 『科学と科学者のはなし』

科学と科学者のはなし―寺田寅彦エッセイ集 (岩波少年文庫 (510))科学と科学者のはなし―寺田寅彦エッセイ集 (岩波少年文庫 (510))
(2000/06/16)
寺田 寅彦

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明治生まれの物理学者である寺田寅彦(1878-1935)がエッセイ集『科学と科学者のはなし』(池内了編集)の中で、こんなことを言っている。


津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永・安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰り返されるであろう。その時にはまた、日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかわからないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。(「津浪と人間」の章より p186)


彼がこのエッセイを書いたのは1933年。これは昭和三陸地震(3月3日)が起きた年であった。

実は、寺田がこのエッセイを書いた以前にも、1896年に明治三陸地震(6月15日)が起きており、この地方における2度もの震災を目にした彼は、おそらく次もまたこのような地震が起きるのではないかと警戒していたのだろう。

そして約80年後の2011年3月11日、寺田の予言は現実のものとなった。





もうじき、東北関東大震災が起きてから、一ヶ月が経つ。2011年4月1日現在、死者と行方不明者を合わせて2万人を超えた。原発事故も起き、政府や東京電力の対応に相次いで非難の声が浴びせられている。

今回の震災と寺田寅彦の発言をどう考えるかは人それぞれであるが、私は「備えるべきものはやはり備えなければならない」と考えている。

「今回の地震に対し、何も備えがなかったのがまずかった」と言ってしまうのは非常に簡単なことである。誰でも言えることだ。しかし、誰でも言えることを誰もが実行できるかと言えば、もちろんそんなことはない。過去に同様の地震が起きていたというのは事実だが、80年も経てば、そういった苦い経験は消えてしまいやすい。「事実」は残るが「経験」は残りづらいのである。

亡くなった命はもう帰ってこない。であるならば、生きている我々にできることは何だろうか。それは、残りづらく消えてしまいやすい「経験」を次の世代に、何としてでも伝えることではないか。

寺田は先のエッセイで、このように続けている。


しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と寒中とでちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることができれば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろうと思われる。この水準を高めるには何よりもまず、普通教育で、もっと立ち入った地震津浪の知識を授ける必要がある。(中略)それで日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では、少なくとも毎年一回ずつ、一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があっても決して不思議はないであろうと思われる。(p187)


「経験」は経験した人間でない限り、それを持ち続けるというのが難しい。経験していない者にいくら「経験」を伝えても、どこまでそれが伝えられるかは考えモノである。

そこで、その「経験」を「知識」に変えられはしないか、と考えてみる。

「震度」「マグニチュード」などの用語、プレートの位置や運動の仕組みはもちろん、原発や放射能、そこから生じる元素などの知識は、日本に住む以上、必須と言える。寺田の言うように、学校教育の段階で地震(そして原発)に関する最低限の基礎知識は教えた方が良い。

そして最近のニュースを見ていてもそう感じる。

たとえば、セシウムやヨウ素、デシベルといった用語をよく耳にする。テレビや新聞では、そういった言葉の意味を専門家が教えてくれるが、一体どれだけの人が、そういった解説を理解できているのだろうか。少なくとも私は、そのような解説からは、漠然としたイメージしか得られず、聞いていてもなかなかついていけない。

人間、よく知らないものについては考えることができない。それはただただ「信じる」ということにつながる。「風評」はその産物であり、近頃はそのせいで、生活や仕事において不当な扱いを受ける人たちまで出てきてしまった。

こういった現実を見ると、無知がいかに怖いか、私は感じてならない。知らなくてもいいでは済まされない。最初から知っておく必要があるのだ。何か起きてからそれについて知ろう・調べようでは遅いということである。

この、「知っておく」(=知識として自分の中に取り込んでおく)ことについて、作家の森博嗣は著書『自分探しと楽しさについて』の中でこう述べている。


昔の若者は、自分を高めるためのアイテムとして、自分の中に取り入れる情報量を重視した。最も簡単なのは「知識」である。自分が好きなジャンルに関して「物知り」になることで、自分を確立しようとした。

(中略)

僕が観察する範囲では、最近の若者は少し違っている。自分の好きなジャンルにおいても、それほど情報を集めようとはしない。「技」についても、人にきいたり、ネットで調べたりはするものの、鍛錬や試行錯誤によって習得するまでには至らない。

おそらく、彼らの目の前に存在する情報が多すぎるからであろう。人間の歴史において、これほど情報が手軽に取り入れられる時代はなかったわけで、情報を自分の中にわざわざ取り込まなくても、そういうものは外部に存在すればいつでも利用できる。(中略)彼らが問題にするのは、記憶容量ではなく、通信速度なのだ。(p37-38)


彼は、「昔の若者」と「最近の若者」、そして“好きなジャンルに関して”ということを前提に話を進めているが、私はその前提を崩しても、知識や情報に対する考え方や接し方の違いは「昔」と「最近」とでは顕著であると思っている。

すぐに知ることのできる時代というのは、すぐに知ろうとしなくなる時代であり、いずれは「知らなくてもいい」という考えに落ち着く。そして終いには知らないままでいられるようになるのだ。一見矛盾しているようだが、自分を含めた周囲を観察してみればよく分かる。便利になればなるほど、人は何もしなくなるのであり、何かするとなるとそれが面倒臭く感じられ、結果的に不便に感じるというのと似ている。

つまり、何でも知ることのできる時代になったからこそ、無理にでも知っておくよう、気持ちを仕向けた方がいいのだ。地震や津波、原発や放射能、被爆といった情報は政府や東電がテレビやネットを通じて教えてくれるから、という態度ではなく、自分から知りに行く必要がある。

今度の震災は、我々人間に何を教えたであろうか。自然災害の脅威、命の尊さ、ライフライン・生活必需品の大切さ ― それはもちろんのことだ。しかし、そこに加えなければならないものというのが、それが直接は目に見えない形であっても、確かに存在する。そしてそれを後世に伝えることこそ、生き残った人間への使命なのだと思う。
2011/03/29

「無用」な部分が「面白さ」を作るってことも、あるんでない? ― 『科学の横道』

科学の横道―サイエンス・マインドを探る12の対話 (中公新書)科学の横道―サイエンス・マインドを探る12の対話 (中公新書)
(2011/03)
佐倉 統

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『科学の横道』がタイトルである。


王道は進まない。真っ向から「科学」と向き合わない。あくまで横道。


道草食いながら、「科学って何だろうね?」などと考える、一見ユルそうな企画である。


しかし侮るなかれ。中身は今後の日本人が科学とうまく付き合っていくためのヒントがたくさん散りばめられているのだ。


僕もヒントを得られた。


今、日本で出版されている科学書(翻訳物ではない)というのは、正直に言うと、読んでいて面白くない(興味のもてない)ものが多い。


書いてあることが難しすぎるからではない。そうではなく、理論ばかりが全面的に出て、情感の部分がほとんどないからだ。


堀江(敏幸) たとえばこの間、中谷宇吉郎の「鼠の湯治」という短いテキストを大学の授業で読んだんです。温泉が外傷の治癒にどれだけ効能があるのかを、ある研究者がネズミを使って実験するという話で、データの解析に悩んだその研究者が、語り手である中谷宇吉郎に相談してくる。で、あいだを飛ばすと、解析法にはめどがたって、そのあとこの実験のために、ネズミたちは温泉に連れていかれるんですね。助手たちが二〇〇匹ぐらいのネズミをかごに入れて運び、実験のための傷をつけて、順番に温泉につからせる。ところがデータとはべつに出た結論は、ネズミは温泉が好きである、ということなんです(笑)。みんな目をつぶって気持ちよさそうにしているというんですよ。

(中略)

ネズミを運んでいくところ、温泉につからせるところ、ネズミののんびりした顔つき・・・こういう、実験の前後の、数字には残らない文脈も大切だと思うんです。温泉の効能を調べるという本来の話とはまったく関係がない。だけど、ネズミが気持ちよさそうにしている箇所があるかないかで、この文章の艶が違ってくる。(p102,103)


最近は「分かりやすく」というのが文章を書く上で大事だとよく言われる。しかし、それは「面白い文章になる」ということと必ずしも一致しない。文章の面白さは、先の中谷宇吉郎のように、一見するとムダに思えるような部分、たとえば著者本人の感情や感想、情景描写にあったりするのだと思う。


科学者の中には、こういった個人的な考えや感じ方、ましてやどうでも良さそうな情景描写などを科学書の中に盛り込むなんて、と思う人が多いのかもしれない。


研究論文についてはその通りだろう。だが一般書なら、むしろ一つの物語のように、文学仕立てにした方が読者はグッと惹きつけられる。


例えば、最近話題になった『生物と無生物のあいだ』(講談社新書)はまさにその最たる例である。科学書なのだが、それと同時に一つの「文学」でもあるのだ。他に今思いつくところで、『物理学と神』(集英社新書)や『地球最後の日のための種子』(文藝春秋社)などがあるだろうか。


「意外性がある」というのもおいしい。以前紹介した『生態系は誰のため?』(ちくまプリマー新書)はこの「意外性」があったから、僕は読んでいて面白かった。こうだと思われているor考えられているけれど、実はこういう現実だってあるんですよ、といった科学書は瞠目に値する。


引用文中に出てきた「鼠の湯治」という文章は、この二つを共に満たしていたからこそ、文章としての魅力があるのだろう。


それこそ、本書のタイトルにある「横道」である。“横道にそれた科学書”と言い換えてもいい。そんな本は、やっぱりやっぱり、読んでいて飽きが来ない。


「寄り道なし!ターゲット目がけて一直線に現象を解説!」というのは、必ずしも良いことではない。時には蛇行しながら、いや、もっと言えば道端のドブに足を突っ込んでしまいながらも、ゆっくり、そしてタラタラと進んだ方が、案外、面白いものに出会えたりする。


いや、科学と付き合うだけに限らず、人と付き合う場合でも、同じようなことが当てはまる気がする。なんていうのだろうか、その人の、一見すると、どうでも良さそうな部分(話し方とか仕草とか表情とか)が、その人の魅力をつくっていたりすると思うのだ。


そう考えると、「横道にそれる」ってのも、結構いいもんじゃないの。
2011/03/23

自己愛と事故愛の「はざま」で ― 『一億総うつ社会』

一億総うつ社会 (ちくま新書)一億総うつ社会 (ちくま新書)
(2011/03/09)
片田 珠美

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「自分はこれだけ〇〇なのに、アイツがダメな奴だから、評価してもらえない」 ― 「理想の自分」になれない原因を他者に求めてイライラが収まらず、うつ病になる人が最近多いらしい。
とりわけ、従来とは違うタイプのうつ、いわゆる「新型うつ」の患者が急増している。新型うつには、従来のうつ病の典型であった「メランコリー親和型」とは異なり、自分の病気を他人や会社など周囲のせいにしがちであるという特徴が認められる。

他人のせいにしたがるのは、「こうありたい」という自己愛的イメージと「これだけでしかない」現実の自分との間のギャップを受け入れられないからである。(p13)
「あらまあ、かわいそうに。でもきっといいことだってあるさ」などと励まして、「そうだよね、頑張るよ」なんて言いながら明日は元気に出社、といけばなにも問題はない。だが、そうはいかないのが昨今流行りの新型うつだ。

もちろん、本当によく頑張って、それでもきちんと評価されないで悩んでいる人も中にはいるだろう。しかし、ここに出てくる人たちは、(少なくとも本書を読む限り)「たいして能力もないのに、プライドだけは異常に高い」というタイプである(と私は感じた)。仕事ができない→でもそれは自分のせいではなく他人のせい→イライラが収まらない→うつ病になる、というパターンが多いのだ。

さて、私は医者や専門家ではないので、この新型うつになる人の是非や詳しい特徴、症状ついては論じられない。ただ、読んでいて改めて、「認められる」ということに意味について考えさせられた。



「認められる」とはどういうことだろうか?

たとえばあなたが、プロミュージシャンになりたいとか、プロ野球選手になりたいとか、そういう夢に向かって、努力をしていたとしよう。で、そういった努力を続けていると、たいてい、「こんなに頑張っている自分、こんなに◯◯ができる自分を認めてもらいたい」という欲求が出てくる。ここまではきわめて普通のこと。

しかし、大切なのは「あなたという人間を認めるかどうかは他人が決めることだ」という事実をきちんと知っているか、ということだ。

「認める」とは「そのものになんらかの価値がある」と判断することである。逆に言うと、認めてもらいたければ、他者にとってなにか価値のあるものを作らないといけない、ということになる。

勘違いしてはいけないのが、この「価値」の判断者についてである。これはけっして自分ひとりでできるものではない。あくまでも判定するのは他人。

だから、「認められない」ことを理由に、「本当の自分はこんなではない」とか「奴らは人を見る目がない」などと言ったり、思い込んだりするのは間違いである。

ひたすら「自分を認めてほしい」という感情だけが先走り、他者の存在に気がつかない。いや、気づこうともしない。そして、そういう現実を見ずに「誰も自分を認めてくれない」などと思う人は、他責的な考え方に陥りやすいのだろう。

よく「自分で自分を認める」などと言うが、これは基本的に自己満足が通る世界(例えば、自分の趣味の世界とか)での話である。これが仕事となると、話は全く別である。

プロミュージシャンになりたい、プロ野球選手になりたい、というのは趣味だけにとどまる話ではない。こういう人たちは、いくら傍から楽しそうに見えても、趣味ではなく、仕事なのである。趣味と仕事の最大のちがいは、そこに「他者の承認」が必要なのか否かではないだろうか。

趣味は気楽だ。自分が楽しめればそれでいい。だが仕事はそうはいかない。他人に認めてもらわなければならない。認められて初めて、お金という、価値に対する報酬が支払われるわけだから。

しかし特殊な例もある。大人が子供を「認める」という行為である。こう言うと気分を害するかもしれないが、基本的に子どものつくるものに価値はない。それでもわれわれ大人は「すごいね」とか「よく頑張ったね」などと言って褒める。この「褒める」(=認める)という行為は特別であって、子供のやる気や向上心を上げるために必要だ。それをするのが、親だったり学校の先生だったり、近所の人だったりなのだが、基本的に子どものすることに「価値」はない。「価値」がないのに「認める」という、特殊な例である。

まれに大人でもそういったことを必要としている人がいる。しかし、大人は子供以上に、「褒め言葉」に敏感だ。その「褒め言葉」が度を過ぎれば、われわれはそれを「お世辞」と言う。「お世辞」に変換されたとたん、それは「認められる」ということと一致しなくなる。大人はあくまでも、「本心から認められる」というのが必要なのだ。

こうまで言うと、大人が大人に「認められる」ということには、ものすごく厄介な心理がつきまとっていることになる。子どものようにはいかない。

だが、そうであっても、原則は「価値」の有無である。少々トゲのある物言いだが、少なくとも仕事においてはこの原則に従って、他者はあなたを承認する。

新型うつになる人というのは、もしかしたら、この「認められる」ことの意味を、知るべき時期に、知ることのなかった人たちなのかもしれない。ここで、「だからダメなんだ」などと結論を下したところで、誰も幸せにならないし、何も解決しない。知らなかったら知らなかったで、一から上の人間(親なり上司なり)が教えるべきなのだと思う。
2011/03/20

おぼろ月、散りゆく花も、乙なもの ― 『からだの手帖』

小事典 からだの手帖〈新装版〉 (ブルーバックス)小事典 からだの手帖〈新装版〉 (ブルーバックス)
(2011/02/22)
高橋 長雄

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本書の副題は「薬よりよく効く101話」である。


で、中身は薬よりよく効き、文章も気が利き、読む者も嬉々として読めるため、逆にそれが奇々に感じられたりする。


著者の比喩の上手さからか、なぜか三島由紀夫を思い出した。『若きサムライのために』という本の中で、彼はこんなことを述べている。


男性が平和に生存理由を見出すときには、男のやることよりも女のやることを手伝わなければならない。危機というものが男性に与えられた一つの観念的役割であるならば、男の生活、男の肉体は、それに向かって絶えず振りしぼられた弓のように緊張していなければならない。(『若きサムライのために』 p29)


草食系男子なる言葉が昨今、よく聞かれる。男らしい男というのがめっきり減ったということなのだろうが、それが真か偽かは、私個人、検証のしようがない。


ただ、仮に真だとしたら、三島の言う「緊張」がなくなってきたから、というのも、原因の一つとして考えられるかもしれない。


その点、ニューロンというのは、「緊張」を常に維持している、といっていい。本書のこの部分を読む限り。


◆平和な朝の索敵隊

初夏のさわやかな朝、窓をあける。目にしみるような緑、小鳥のさえずり、すがすがしい微風・・・。平和なこのような朝でも、人体の感覚器という索敵隊は、臆病なキリギリスが触覚を休みなく動かしているように、ゆだんなく外敵の侵入を警戒し、外界の情報を集めているのである。(p12)


「平和」なのに「索敵」である。いや、平和「だからこそ」索敵なのかもしれない。ニューロンの中では「平和ボケ」の四文字はないのだ。


こんなこと言うと三島に怒られそうだが、私は基本的に毎日平和ボケしている。ということは、私の「ニューロン」も平和ボケしている恐れがあるではないか。大変だ!早く「索敵」させないと!


常に索敵状態 ― 戦争に臨む兵士のごとく神経はピリピリしているのだろう。そういうことなら、交感神経が活発に働いているということである。そういえば、自律神経系なる項目にこんなくだりがあった。


自律神経系を一つの家庭にたとえると、交感神経は“だんな”であり、副交感神経は“奥さん”である。家庭の場合と同様に、ふだんの活動は奥さんの副交感神経系が営む。そして、だんなは大そうじで重い物をもつときなどに動員されたり、家庭内の行事にアクセントをつける役割をしているが、それが交感神経なのである。(p27)


私は重い物なんか持ちたくないし、大そうじなんかに動員されたくない。強制動員されてもイヤイヤである。それでも、交感神経は文句一つ垂れずに働くのだ。じゃあ、私は交感神経よりも労働価値の低い人間なのだろうか?そうはいっても、そんな人間にだってちゃんと交感神経はくっついている。いや、私がいけないのではなく、私の交感神経がいけないんだよ、きっと。


人間は年をとると億劫になりやすい。たいてい「老い」が原因だったりするが、そういう「老い」に関する章もこの本には設けられている。そこで、パラペラとページをめくっていると、「更年期」の項を発見した。


人生の四季を通じて変わりばえのしない男性にくらべ、女性は育児や家庭づくりに主役を演じ、春から夏にかけて、きらびやな大輪の花をつけるが、更年期になると、痛々しい落花のときを迎える。しかし「花よ嘆くなかれ」である。生物の究極の目的の一つは実を結ぶことである。人生の果実も、花のあとに、そして結局、主として女性の中に結実されるもののようだからである。(p207)


三島は『花ざかりの森』という作品を書いた。「花ざかり」というと「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という、兼好法師こと吉田兼好の名言を思い出す。


人生は長い。「さかり過ぎればそれまで」などという考えはあんまりである。人生における本当の味は若さの後に出てくるものなのかもしれない。最近では曽野綾子の『老いの才覚』という本もベストセラーとなっているぐらいだ。


そんな感慨に耽っている私は20代。今はさかりの時。それはそれで大いに楽しまねば。
2011/03/19

人間の身勝手さ ― 『生態系は誰のため?』

生態系は誰のため? (ちくまプリマー新書)生態系は誰のため? (ちくまプリマー新書)
(2011/03/09)
花里 孝幸

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大学二年の時、生態学の授業を取っていたが、まったく面白くなかったので、まったく(といっていいほど)出席していなかった。


でも、今なら出席したい気持ちでいっぱいだ。もしもこの著者が先生であるならば。







今日はあてもなく、ぶらぶらと公園を散歩した。

懐かしい。ここを訪れたのは何年ぶりのことだろうか。

そう思いながら、ふと、あるすべり台に目が向いた。

「立入禁止 ここに入ってはいけません」

そう書かれた黄色のテープで、そのすべり台はぐるぐると巻かれていた。

どうやら事故があったらしい。

幼い頃、私もこのすべり台をよく好んだ。斜面が急で、スピードが出る。

よく言えばハラハラドキドキ。悪く言えば危なっかしい。そんなすべり台だった。

しかし、よく注意して滑れば安全だ。間違った遊び方をしなければ、そんな仰々しいテープなど、巻かれずに済んだはずだったと思う。



以前もブログでこんなことを書いた。


危ないから、危なそうだからといって、じゃあそれは使わないようにしようとか、取り除こう、というのはいかがなものか。そうではなく、危ないから、じゃあどうしたら安全に使えるのか、ということを考えるべきである。


そのすべり台を見ながら、そんなことを考える内に、本書のこんなくだりを思い出した。少々長いが、引用しておこう。


この国立公園では、人間に危害を与えるために害獣とされたオオカミが、長い時間を経て人間によって駆除されてしまいました。すると、オオカミの餌になっていたエルクという鹿が増え、それが若い木々を食べてしまったため、その地の植生が変化してしまったそうです。そして、それが、以前の植生に依存していた鳥や小動物に影響を与えたというのです。(中略)

このことから学んだことは、ある生態系の内の一部の生物種が人間に災いをもたらすからといって、その生物種だけを退治しても、問題の全面的解決にはつながらないことがあるということです。なぜなら、一部の生物種をその生態系から排除すると、その影響が他の生物たちに及び、ある生物種は個体数を減らしますが、別の生物種の中にはかえって個体数を増やす種も出てくるからです。そしてそれが、新たな災いを、人間に及ぼすかもしれないのです。(p79-81)


排除するのは簡単なことである。さっきのすべり台の話に戻るが、危ないと感じたらさっさと撤去すればいいのだから。


しかし、それではまずい。遊ぶ子どもの「危ないとはこういうことだ」という意識や感覚さえも「撤去」してしまうことにつながるからだ。


すぐに排除するのではなく、うまく付き合う方法を考える ― これを今の大人が教えないといけない。


生態系を守るということについても、同じことが言えるはずだ。特定の生き物は人間にとって好ましくない存在だから、駆逐しようというのは、おかしな話である。気に入らない人間がいるからといって我々人間はその人をすぐに殺したりするだろうか。違う。そうではなく、うまく付き合う方法を考えるのが普通だ。そしてそれは、人間だけに限らず、他の生き物にも同様の考えで接するべきではないか。


最後の一つは、生態系を考える際に必要なこととして、生物を客観的に見るということです。第4章でハクチョウの話題を取り上げましたが、人間はその感性に合った生き物に親近感を持ちやすく、その生物種を生物群集の中でひいきにしがちです。ところが、そのひいきは、等しく自然の生態系の中で生まれ、くらしている生物たちを差別することになります。そして、それは生態系をつくっているあまたの生物たちのバランスを崩す恐れがあります。場合によっては、人々の生態系保全活動が、守ろうとした生物種を、生態系の中で生きていけないようにしてしまう可能性があります。(p179)


こう言われると、結局、「生態系は誰のため?」にあるのだろうか。


言うまでもないだろう。それはもちろん「みんなのため」にあるのだから。
2011/03/15

整形しても幸せにはなれない ― 『ブスがなくなる日』

ブスがなくなる日 (主婦の友新書)ブスがなくなる日 (主婦の友新書)
(2011/03/05)
山本 桂子

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ここ最近、主婦の友新書の暴れっぷりがスゴイ。ここのブログでも紹介した『文学部がなくなる日』もそうだが、タイトルがだんだん過激になってきている気がする。本書もご多分にもれず、ではないだろうか。

で、下の文章が気になったのでご紹介。
『B.C.ビューティー・コロシアム』のような番組は、「整形しました。変わりました。幸せになりました」と伝えるけれど、現実はそんな簡単なものではない。自分にビジョンのないあなたまかせの整形では、何度手術しても満足は得られない。

また、顔文化研究所の村澤博人氏は、以前、取材でこんなことを話してくれました。「“顔イコールその人”と思われるような見た目社会では、自分で自分の顔をプロデュースしていく能力がこれから求められていくでしょうね。(中略)美容整形というと頭がカラッポな人がやるもののようなイメージがあるけれど、実は自分をしっかり持っていない人にはできないことだと思います」(p174,175)

引用部分の後に、整形して美人になったはいいが、性格は以前と変わらず卑屈なまま(これを性格ブスというらしいが)、こういった「性格が顔に追いつかない」という現象が起きる、という話が出てくる。
再び、Drアンディーの談話です。

「手術をするのはたいして難しいことではないんですよ。問題は、その後です。顔だけ若々しくなっても内面がそれについていかないと、いい結果が得られない。患者さんの本当の目的は“顔を変えること”ではなく、“愛されること”でしょう?だからそれが達せられないと、患者さんの満足にはつながらないんです」(p177)

私なりに総括すると「やっぱり顔よりも中身を変えよう」ということになるだろうか。いきなりこんな当たり前なことを言って締めくくって仕方がないが、結論としてはそうなってしまう。

結果的には性格が大事、ということである。「じゃあ、顔が悪くても、性格が良ければ好きになれる?」などとイジワルな質問をされそうだが、それについては禁則事項なのであえて言わないことにしよう。(自分のことは棚に上げさせていただきます。ごめんなさい)

見た目はいいに越したことはない。これは誰もがそう思うはずだ。「美人は三日で飽きる」なんていう、ごたいそーな諺があるが、あれは真っ赤な嘘である。美人は何日経とうが飽きない。目が癒されるのは厳然たる事実なのだから。(慣れることはあるけどね)

「じゃあ、ブスには未来がないじゃんか」と思う人もいるだろう。が、そうではない。なにかを極めたり、苦手なものを克服したり、読書をして生き方や考え方を変えてみたりと、中身を磨くことはできる。実にありがちで新鮮味なく聞こえるが、それが結局1番確実な方法なのだと思う。それも頑張るなら、稀少価値のあることで頑張ったほうがいいに違いない。

それでも心が満たされなければ、整形という道を選べばいい。しかし私個人、「自分という形」を変える手段は最後に残した方がいいのではないか、と考えている。Drアンディーなる人と同じ意見だが、あくまでも自分の“顔”が変わることによって、それが必ずしも“幸せ”に変わるということにはならないからだ。くどいようだが、結局最後は“中身”になるのだと思う。

そして冷静に考えてみれば、いくら見た目社会がどうだの、イケメンがどうだの、美人がどうだのと騒いだところで、顔の形が何かにものすごい影響を与えることなど、そうそうない。人間の顔なんて芸術作品でもなんでもない。「人に感動を与えられる顔」なんてものもない。そこを勘違いするな、ということだ。



2012.1.7追記:顔や身体のコンプレックスをどう考えるかについて、ある程度参考になりそうな本を見つけたので読書案内↓(個人的には『人はあなたの顔をどう見ているか』のほうが良かったかも)


肉体不平等―ひとはなぜ美しくなりたいのか? (平凡社新書)肉体不平等―ひとはなぜ美しくなりたいのか? (平凡社新書)
(2003/05)
石井 政之

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人はあなたの顔をどう見ているか (ちくまプリマー新書)人はあなたの顔をどう見ているか (ちくまプリマー新書)
(2005/07)
石井 政之

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話は変わるが、中村うさぎさんのエッセイも参考になるのでご紹介。
2011/03/13

「自分探し」という迷走、「楽しさ」という難しさ ― 『自分探しと楽しさについて』

自分探しと楽しさについて (集英社新書)自分探しと楽しさについて (集英社新書)
(2011/02/17)
森 博嗣

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集英社新書から出されたエッセイby森博嗣は本書で5冊目。さすがに「どんだけ多いんだよ!」というツッコミは禁じ得ない。それでも需要があるのだからスゴイ。小説で成功し、エッセイでも成功しと、驚くべき人である。


しかし、なぜここまで人気があるのだろうか?自己啓発のようなエッセイだから?「作家・森博嗣」が書いたものだから?いや、違う。「常に一般論を言わないから」だ。


当たり前といえば当たり前だ。結局のところ、本の中身は一般論の裏返しや否定でないと面白くない。独断や偏見、逆説がない本は読んでいて本当につまらない。そのくらいパンチがないと読書など意味がない。


で、森博嗣のエッセイはどれを読んでもパンチがある。


例えば、

もしあなたが小説家になりたかったら、小説など読むな。(『小説家という職業』 p4)


翻って自分が発言する意見や、自分が行う思考も、実は自分から切り離すことができる。それが自由な意見であり、自由な思考というものだ。たとえば、なにかについて「こうあるべきだ」ということを発言しようと思ったとき、自分が今はまだそうなっていなくても、発言はできるし、考えることもできる。だから、そういう発言に対して、「お前はどうなんだよ」「お前に言われたくないな」という反論はするべきではない、と僕は思う。(『自分探しと楽しさについて』 p104)


人が楽しんでいるところを見て、「いいよな、金があって」という感想はまったくお門違いである。それは明らかに、「金が楽しみを生む」と思い込んでいる勘違いからくるものだ。(中略)逆である。楽しさを求めれば、金は入ってくる。真剣に楽しみを実現したいと思う人は、自然に金持ちになっている。(同 p177)



どれも興味深い。だから(良くも悪くも)読者にウケるのだ。


「じゃあ、なんでもかんでも一般論を裏返せばいいのかよ」と言うと、もちろんそんなことはない。ある程度の説得力や裏付けは当然必要だ。で、そういった説得力や裏付けというのは、他の何ものでもない、「森博嗣本人」であり彼の経験から生まれたものである。


本書の話へ入ろう。


「自分探し」という言葉だが、これについて彼曰く「どこにでもある」と。ちなみに私はこの言葉が嫌いである。この青臭さがなんとも言えない刺激臭であり、文字通り、鼻につくのだ。高校生ぐらいまでがこの言葉を使ってどうのこうの言っているならまだ分かるが、二十歳過ぎた人間には「イイ年して・・・」というぐらいの感想しか持てない。


「楽しさ」の方はどうか?彼は喝破する ― 「楽しさなんて自分で創れ」と。これではあまりにも当たり前すぎるだろうか?その詳細については、この本ともう一冊『創るセンス 工作の思考』を読むことをオススメする。「創る」がどれだけ「楽」しいことであり、それと同時に「楽」なことではないかが分かる。それをこの二冊でとことん語っているのだ。


ちなみに、森博嗣以外のエッセイストで面白い人と言うと、今思い浮かぶ人で中島義道だろうか。この人間だけには色んな意味でゼッタイ勝てないといつも思い知らされる。
2011/03/10

ブラジルで、ブラブラしたくなる本 ― 『ブラジルの流儀』

ブラジルの流儀―なぜ「21世紀の主役」なのか (中公新書)ブラジルの流儀―なぜ「21世紀の主役」なのか (中公新書)
(2011/02)
和田 昌親

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目次 ― 引用元:紀伊國屋書店BookWeb



第1章 社会・生活の話(なぜブラジル人は「優しい」のか;なぜ「デスパシャンテ」なる奇妙な商売ができたのか ほか)
第2章 経済・産業の話(なぜ「BRICS」では満足できないのか;なぜ超インフレを収まったのか ほか)
第3章 文化・歴史の話(なぜ事実上戦争をしなかったのか;なぜブラジルだけがポルトガル領になったのか ほか)
第4章 サッカー・スポーツの話(なぜブラジルサッカーは「いつも強い」のか;なぜ美しく勝たないといけないのか ほか)
第5章 政治・外交の話(なぜルセフ新大統領はここまでのし上がれたのか;なぜ最下層のルラが最強の大統領になれたのか ほか)




小生、ブラジルへ旅行したことは今まで一度もない。だから「ブラジル」という言葉から連想できるのは、せいぜい「コーヒー大国」だとか「南米大陸で最も大きな国」だとか「リオのカーニバルで、綺麗なお姉さんたちが腰を振りながら踊る」とかで、そういった実に乏しい知識しか持ち合わせていなかった。


しかし、「乏しい知識しか持ち合わせていない」というのは、逆に考えると「知る楽しみが増える」ということでもある。「知らない」「よく分からない」という状態の中に、「知る楽しさや面白さ」といった「プラスの価値」を作り込めるのだ。


そのためには、自分の中にそういったものを創ってくれる「装置」が必要である。


で、本書がその「装置」なのだ


読むとじわじわ感じてくる。ブラジルというのは実にのんびりゆったりしたお国なのだと。悪く言えばアバウト。でも、なんだか許せてしまうアバウトさだ。ガチガチに固まらず、人生をユルく考える。それがこの国の「流儀」なのだ。


でも、行き過ぎるとこうなる。


ラテン人というのは時間にルーズというのが定説だが、ブラジル人もご多分にもれず、相当アバウトだ。「三時というのは、三時から三時五十九分までを指す」と、悪びれる様子もない。(p29)


その発想はなかったわ。


スーパーのレジでも、そのアバウトさに驚かされる。例えば、三・九九レアル(現地通貨)の買い物をして、四レアルを渡すとする。もちろんお釣りは〇・〇一レアル=一センターボだが、一センターボ硬貨が渡されることはない。その代わりに、平然と五センターボ硬貨を出してくるケースさえある。つまり、お釣りを勝手に切り上げて払おうとするのだ。(p29)


日本でそんなことやったらクビになるか、店長に首根っこ掴まれてお説教タイムである。てか、ここまでいけば、もはや流儀でもなんでもなく、単にいい加減なだけだろ・・・。 (ってツッコミたくなる)


で、このアバウトさに続いてこのジョーク。


ポルトガル人が「アメリカ人は月まで行くロケットを開発しただけで頭脳明晰だと思っているが、ポルトガルでは太陽まで行くロケットを開発中だ」と語った。聞いていたブラジル人が「でも太陽に近づくにつれて溶けてしまうのではないか」と言うと、ポルトガル人は「それも計算してある。夜間にロケットを発射するように変更した」。(p141)


読んで思わずニンマリ顔になってしまった。「そうね、夜には太陽が見えないし、そう考えたくもなるよね」と、顔では同情を示(すのかどうか分からないが)しつつも、心の中では冷笑を浮かべるのがブラジルの流儀、いや“遊戯”なのだろうか?


そうかと思いきや、こう続く。


《自分たちの祖先だからポルトガルを見てみたい。でも世界の中でポルトガルはかつての隆盛は望むべくもない。土も隣国スペインに比べ大きく見劣りし、欧州の小国になり下がっている。馬鹿にしたい思いと、「しっかりしろよ」と励ます気持ちが複雑に交錯しているように思う。頼りない父親につらくあたる息子のようだ。(p142)


なんとも言えない微笑ましさ。なんだかんだ言ったって、結局は良き間柄ではないか。まあ、ジョークは別として、日本も(特に都心)“ある程度は”ブラジル流のアバウトさを見習っていいのかもしれない。

2011/03/08

動植物観察よりも人間観察の方が面白い ― 『ヒトはなぜ拍手をするのか』

ヒトはなぜ拍手をするのか―動物行動学から見た人間 (新潮選書)ヒトはなぜ拍手をするのか―動物行動学から見た人間 (新潮選書)
(2010/12)
小林 朋道

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Mixiには恋愛コミュニティーがある。



一口に恋愛コミュニティーといっても、終わらない恋がしたいだの、彼氏がどーだの、浮気があーだのと、まぁ色々だ。


私は赤の他人のプライベートな日記(◯◯でランチ食べた、××と会ったetc)というものには、ほとんど興味がないので、そういったものを読むことはまずないのだが、なぜかなぜか、mixiの、この恋愛コミュニティーはけっこう見てしまう。


「ああ、そういうの読んで、さも自分が恋愛してるみたいに錯覚したいんでしょ?わからなくもないよ」とか冷たくあしらわれそうだ。そういう楽しみ方もあるにはあるだろう。実際にそのコミュ内を見ると分かるが、そういうのを楽しんでいる人も中にはいる。


ただ見方を変えると、こういうものを読むのは、ある意味でスゴイ人間観察だと思うのだ。特に浮気の愚痴が書いてあるトピなんかを読むと、ものすごくリアルだったりする。彼氏に対して「こんなに好きなのに・・・」っていう想いを書き連ねる人がいる一方で、彼氏&相手の女への罵詈雑言をひたすら書きまくる人もいる。


普通、そういった「感情のむき出し」っていうのは現実の世界でなかなか目にすることはできない。その人を飲みに誘って酒を飲ませ、本音を吐かせようとしても、なかなか吐こうとしないことだってある。相手が「こんな愚痴、自分の友人に聞かせちゃ悪いんじゃないか」と思っていたりしていて。でも、ネット上ではそれがやれる。顔は見えないし、書いているのがどこのだれかなんて特定されないから。


そうすると、そういった愚痴を読むことっていうのは、ある意味で人間の、絶対に現実では言えない、ものすごくリアルな部分を垣間見ることになるんじゃないかと思える。そういう愚痴を書いている人たちをからかったり、気持ちを茶化したりする気は全くないけれど、こういうものを読むのっていうのは、究極の人間観察になるんじゃないのかなあ。


そして、その人間観察という言葉で思い出したのがこの『ヒトはなぜ拍手をするのか』という本だ。これは身近な行動を学問的に人間観察してみたっていう本で、「なぜ◯◯なのか」という問いに対する、答えとしての仮説が非常に面白い。何がどう面白いのか、読んでからのお楽しみということになるだろうか。


動物や植物を観察or鑑賞するのが好きっていう人は多いと思うが、「人間を観察するのが好き」っていう人は少ないんじゃないかな。プロフィール書くとき、「好きなこと」の欄に「人間観察」とかって書くと「なんかヘンな奴だ」とか、「趣味がワルイ」とか思われたりするかもしれないけど、こういう人っていうのは、話してみるとやっぱり面白い考えを持った人が多い気がする。


私も職場で人間観察をやってしまうけど、なんだろう、やっぱり「面白い」のだ。ああ、なんでこの人、こういうことしてんだろう、とか思いながら、その理由を考えたり、そういうことをするっていうのはたぶん◯◯なんじゃないんかなあ、とか考えたり。


やっぱ「ヘンな奴だ」って思われても仕方ない。。。
2011/03/05

究極の“死体エッセイ” ― 書評『死体入門』

死体入門 (メディアファクトリー新書)死体入門 (メディアファクトリー新書)
(2011/02/28)
藤井 司

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目次 ― 引用元:紀伊國屋書店BookWeb


第1章 死体とは何か(死体は人を惹きつける;魂の重さはスプーン1杯分? ほか)
第2章 人が死ぬということ(死を見つめた『九相詩絵巻』;まず血流が止まる ほか)
第3章 ミイラに込めた願い(永久なる死体とは;日本最古のミイラ ほか)
第4章 死体をとりまく世界(死体に出会ったらどうすればよいか;死体を見ないようにする方法 ほか)
第5章 死体の利用法(死体を扱う学者とは?;死体が面白いから ほか)






今の世の中、文章術の本というのはごまんとある。


私もそういう本を書店でパラパラと読むことはあるが、いつも感じていることがある。


それは、「わかりやすく書く」ことを主眼に置いた本は多いが、「読者を楽しませるように書く」ことを主眼に置いた本は非常に少ないということ。


「わかりやすく書く」というのはすごく大事なことだ。そして、その「わかりやすく書く」ための“ルール”が明示されることで、すこしでも文章が上達する人もいるだろう。しかし、「わかりやすく書」いたからといってそれが「良い文章」であるかといえば、私は疑問だ。


では、「良い文章」とは一体何だろうか?私個人が思う「良い文章」の条件を2つ挙げておきたい。


「良い文章」とは、

1、 読んでいて分かりやすく
2、 且つ面白い(≒魅せられる、心が惹きつけられる)文章


である。



これだけ?と思った方もいるだろう。


そう、これだけ。


だが、この2つをきちんと満たした本というのはものすごく稀ではないだろうか。(書評を書いている私も、人のことを言えたタチじゃないよね・・・。)


で、上記2つのことについて書かれた本を最近やっと見つけた。外山滋比古著『文章を書くこころ』(PHP文庫)という本だ。とはいっても、いわゆる「ノウハウ本」の感じがしない。エッセイといった方が良いかもしれない。







そして今回紹介する『死体入門』は、まさに「良い文章」になるための条件を全て満たしたスゴイ本なのだ。


テーマは「死体」である。一般書として書くのであれば、相当難しいテーマなはずだ。死体に関する知識ばかり書いてあれば、読む側は飽きる。そうかといって、おちゃらけ過ぎるのも不謹慎だろう。つまり、ものすごくバランス感覚が必要になるテーマだ(と私は思っている)。


それで著者の、この“バランス感覚”がハンパない。死体についての(「死臭の作り方」なんていうのも紹介されている)分りやすい説明はもちろんのこと、読んでいて時折クスっときてしまう面白さ、そしてその織り交ぜ様は、まさに「良い文章」の鑑なのだ。




話は変わるが、今、医師不足が社会問題になっている。その中でも法医学者は圧倒的に足りないのだそうだ。大学で法医学を専攻する学生も少ないらしい。


「日本人のもつ、死体への独特の忌避感覚がその根底にあるのかもしれない」 ― そんなことを考えながらあとがきに突入すると、そこには「死体への興味を育てよう」の文字が目にとまる。読めばはっきり、著者の「死生観」ならぬ/と共に「死体観」が伝わる。


なのに、死体にかかわる職業人こそ死者を冒瀆していると見られることも多い。死体はすぐに眠らせるべきだ!切り刻むなどとんでもない!死体をさらしものにしている!死体で生活の糧を得るなんてハイエナだ!

このような主張をするような人たちに問いたい。そもそも、あなたは死体をどれだけ知っていて、そのように責めるのですか?誰もが最終的にたどり着く姿であり、あり触れた存在であるはずの死体が徹底的に隠される現状のほうが異常ではないですか?(p203)


うーん、と唸ってしまうのは私だけだろうか?


私の周りにこんなことを声高に叫ぶ人なんていやしない。考えたこともなかったがゆえに、その言葉一つひとつがズシリと心に来る。こういうことが書けるのも「死体」に対して著者の「慕い」があればこそのこと。


「死」から「生」を考えるのは、「生」から「死」を考えるのと同じくらい大切 ― そう思わせてくれる一冊だ。
2011/03/03

「闇」を排除しようとする現代の「病み」 ― 『暴力団追放を疑え』

暴力団追放を疑え (ちくま文庫)暴力団追放を疑え (ちくま文庫)
(2011/01/08)
宮崎 学

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プロローグ ヤクザが消えた街
第1章 暴対法は誰のために
第2章 頂上作戦の今と昔
第3章 変わっていくヤクザ
第4章 アホな正義に騙されるな
第5章 福岡県警による言論規制
第6章 相撲界と「暴力団」
エピローグ ヤクザもいる明るい社会
清潔なファシズムへの道 あとがきにかえて



ケータイにはフィルタリング機能というものがある。未成年の子供に有害なサイトを見られないようにするアレだ。


ここ最近は携帯各社のみならず、メディアでも盛んにこのサービスを導入するよう、親たちに促している。


確かに子供の安全を第一に考えれば、大事な機能かもしれない。しかし私自身、このフィルタリング機能はいらないと思っている。


そもそも、なぜ、そういうサイトをシャットアウトしてしまうのだろうか?別にそういうものに興味があるなら、見せてもいいではないか。オトシゴロの男の子、女の子は自然とそういうアブナげな、“オトナなもの”に興味をもつ。極めて普通のことである。そういう“極めて普通のこと”を押し殺そうとするのはいかがなものか。


たしかに危険なサイトは多い。犯罪被害防止のためを考えれば必要かもしれない。だがそれなら、もっと根本的な方法を取ったほうがいいと思う。


私が親だったら、まず「なぜ危険なのか?」ということをきちんと教える。いきなり排除するようなことはしない。そういうサイトを実際に子供に見せて、一緒に「研究」するだろう。



「“危ない”というのはこういうものだ!」
「こういったアマい言葉には気をつけろ!」
「それはクリックするな。トラップだ!」



などと叫びながら。(傍から見れば、かなりアヤシイ光景に映るだろう。本当は父親であるオマエの方がそういうサイト、見たいんじゃないの?とか勘ぐられそう)


その方が頭ごなしに「これはダメ!」などと言われて禁止されるよりも、ずっと効果があるのではないか。(たぶん母親はそんなことしたくないだろうから、こういうのは父親がやった方が無難か)


そしてもうひとつ(むしろこっちを強調したいのだが)危惧していることがある。それは、こういった“危ないもの”“悪そうなもの”をなんでもかんでも排除することが、知らず知らずのうちに「危ないものや悪そうなものは知らなくていい、触れなくていい」という態度や風潮にもつながりかねないのではないかということだ。


とにかく危ないもの、危ないことは「見ざる言わざる聞かざる」を徹する。そういう過干渉な(よく言えば子供思いだろうが)親の話を最近よく耳にする。「モンスターペアレンツ」というのはまさにその典型だろう。


たしかに多少の悪影響はあるかもしれない。だが、そういったものを子供から完全にシャットアウトして知らせないようにする方がよっぽど悪影響ではないか。


社会的に「悪」だのなんだのと言われているもの(それがホントなのかもよく知らず)を知らないままでいれば、当然それに関心を抱かなくなる。関心がなければ知ろうともしない。それがまずい。


よく知りもしないうちから、なんでもかんでも「悪いもの(悪そうなもの)、危ないもの(危なそうなもの)は排除しよう。そしてより良い環境をつくろう」とするのは間違いだ。これは子供に限った話ではない。むしろ大人こそがこういうことに対して敏感になり、気をつけなければならない。


本書のテーマである「ヤクザ」も同じである。彼らの実態をよく知らない人たちは、彼らを見ては「悪」と決めつけ排除しようとする。


しかしこの本を読めば、ヤクザ=悪という等式が必ずしも成り立つわけではないのが(「納得」はしにくくとも)「理解」はできる。


「ヤクザは全く悪くないし、危なくない」などと言っているのではない。また、言うつもりもない。だが、どうしてもやむを得ない存在だということは本書を読んで感じると思う。



人間社会の「裏」を知らずして、人の「心(うら)」など分かるはずがないのだから。
2011/02/28

ハブられても、いいじゃない ― 『なぜ日本人はとりあえず謝るのか』

なぜ日本人はとりあえず謝るのか―「ゆるし」と「はずし」の世間論 (PHP新書)なぜ日本人はとりあえず謝るのか―「ゆるし」と「はずし」の世間論 (PHP新書)
(2011/02)
佐藤 直樹

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第1章 日本人を縛る「世間」とはなにか―なぜ年齢にこだわるのか
第2章 「世間」における「ゆるし」と「はずし」―日本の犯罪率が低いわけ
第3章 「はずし」としての厳罰化―「後期近代」への突入か
第4章 「ゆるし」としての刑法三九条―理性と自由意思をもった人間?
第5章 「ゆるし」としての少年法―「プチ世間」の登場
第6章 謝罪と「ゆるし」―出すぎた杭は打たれない





「とりあえず」というのは実に便利な言葉である。



・パッと何か思いつかないから「とりあえず」

・特に何もすることがないから「とりあえず」

・気まずくなったから「とりあえず」



そして、本書のタイトルの一部分である「とりあえず」は、とりあえず、3番目に入る。



気まずい空気になったら「とりあえず」謝る。特に悪いことをした記憶はないけど、なんかヤバそうだから「とりあえず」謝っておこう。



この「とりあえず」という言葉、どうも「形だけでも整えておこう・・・」というニオイが漂ってしかたがない。それがいいのか悪いのかは別にして。



「とりあえず」というのは、自信のなさから口にされる場合が多い。きちんと「自分はこうしたい」「こう思う」「こう考えている」と言えない。言っても「とりあっ」てもらえない。とりあえない。



だからとりあえず、そう、「とりあえず」を使ってしまう。


なぜきちんと、言いたいことが言えないのか。



それは、「世間」が「個」に睨みを利かしているから。そこでは、個人の意思よりも集団の総意が優先される。あくまでも「和」が主なのであり、「個」はあくまでも従なのだ。



著者も言っている通り、日本人はとにかく「世間」が怖いのである。「世間」に比べれば、会社の上司や、鬼嫁なんて屁でもない。そのくらい怖いのである。



それでも日本人は「世間」に属している。いや、属せずにはいられないのだ。「世間」という強大な団体から破門されれば、そこにいた仲間たちと縁を切ることにつながるのだから。助けの手も差し出されない。アイデンティティーすら失いかねない。



孤独 ― それが怖くてしかたがないのだ。


であるならば、彼らは世間のソトに、興味がないのだろうか?



そんなことはない。むしろその反動のせいか、瘋癲(ふうてん)や流浪人といった、ちょいワルで、ちょい反社会的で、それでも自分の考えやポリシーは持っていて、という人に憧れる。そういう人は実に多い。



瘋癲といえば「男はつらいよ」でおなじみ、車寅次郎こと寅さんは今でも人気だ。最近では永井荷風も注目されている瘋癲の一人だろう。



つまり、世間のソト側にいる人達には興味があるのだ。いや、もっと言えばそういう人たちになりたいという願望まで持っていたりする。



著者は言う ― 《私がいいたいのは、徹底的に「世間」の空気を読み、「世間」をよく知った上で、あえて「世間」の空気を無視する、そういう態度が必要だということである》(p216)



「取り敢えず?だったら取り合えなくて結構。こちとら、言いたいことは言わせてもらうぜ」



言いたいことは、
言わない。
言えない。
言いにくい。
言えば言ったでKY扱い。



そんな時代だからこそ、ますます瘋癲人としての気概が必要なのだ。

2011/02/25

“文系型人間”が科学嫌いになる本当の理由 ― 『科学コミュニケーション』

2012.7.21追記:人文学そのもののあり方についてはこちらで論じてみた。



科学コミュニケーション-理科の<考え方>をひらく (平凡社新書)科学コミュニケーション-理科の<考え方>をひらく (平凡社新書)
(2011/02/16)
岸田 一隆

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「読んでいてイマイチな科学書とハマってしまう科学書の最大の違いって何だろう?」


ようやく解決した。

単純に「数式が出てくるから」嫌いになるとか「専門用語が分かりやく解説してあるから」好きになるというワケではなかったのだ。著者の言葉を借りるなら「科学コミュニケーション」の欠如。これだ。サイエンスライターの方々、是非ともこの本を読んでいただきたい。




◎数式や専門用語の登場が科学書嫌いになる原因なのか?


まずこの本の一番スゴイところ。

それは「理系出身」の著者が、いわゆる“文系型人間”(ここでは“科学全般に関心のない人”という意味)の「理系嫌い」になる気持ちをきちんと理解している点。私は「文系出身」だから“文系型人間”が理系関連の書籍を嫌う理由を理解している「はずだった」。「科学書って数式やら小難しい専門用語が出てくるからウザいんだよなあ。だから文系は科学書なんか興味持たないんだよ、きっと。」そう思っていた。この本を読むまでは。で、7割方この考えは間違いだった。

一般向けの科学書に多少の数式や専門用語が出てくる、出てこないといった理由で、“文系型人間”は科学書や科学そのものへ興味が持てたり持てなかったり、好き嫌いが分れたり、ということはあまりないのだ。私が過去に読んだ科学書の中でハマったものを振り返ってみると、普通に数式やら専門用語やらがワンサカ出ているではないか。にもかかわらず、夢中で読んでいた自分。「数式や専門用語が出てこない科学書なら興味を持つし好きになる。そうでなければ興味は持てないし嫌いになる」この基準はおかしいのである。



◎「科学コミュニケーション」の有無


では、興味を持つ(もしくは好きになる)科学書と興味を持てない(もしくは嫌いな)科学書の二種類に分れてしまう、本当の理由は何なのか?そう、それが冒頭でも述べた「科学コミュニケーション」が科学書にあるかないかなのだ。ここで「科学コミュニケーション」とは何か、本書から引用しておこう。

おおまかに言って、文系と理系の間の溝、専門家と非専門家の間の溝、これらをつなぐためのコミュニケーションという目的意識と意味合いが含まれている言葉だと思って大筋では間違いではないでしょう(p25,26)

「コミュニケーション」とは、すなわち互いの「考え」や「気持ち」を共有することである。これを通して、理系の人間が何を考えて科学書を書いているのか、文系の人間が科学書に何を求めているのかが分かるのだ。さきほど述べた「数式や専門用語が出てこない科学書なら(科学に興味のない文系の人でも)興味を持つし好きになる(だろう)」というのはホントのところ、理系の発想なのだ。文系人間と「コミュニケーション」することもなく、理系視点で科学書を書いてしまっていたことに「文系型人間が科学書嫌いになる」という問題が起きていたのである。

では、文系型人間が科学書に求めているものとは何か。それは「科学書を読むことで得られる共感」なのだ。



◎科学書に必要な「共感」という要素


とある話を聞いて皆が笑っているのに、自分だけ笑えない。そんな経験はないだろうか?そういう時、誰でも普通は「つまらない」という気持ちになるだろう。みんなと「楽しい」「面白い」を共有したい(共感したい)のに、それができない。だから「つまらない」と感じてしまう。しかしだからといって話された内容を「解説してもらい」たいわけではない。あくまでも「楽しい」「面白い」を共有(共感)したいのである。

科学書の場合もこれと同じだ。科学書を読むことによって“その科学書を書いた著者の「楽しい」や「面白い」という気持ちを共有すること”を、文系型人間は(無意識に)望んでいる。書いてあることは理解できるけど、読んでいてつまらない本とは、例外なくこのタイプではないだろうか。

逆に多少難しい話ではあっても、そういった気持ちが著者と読者で共有できている場合は、例外なく「面白い本だ」という感想が持てる。べつに「楽しい」や「面白い」だけを共有する必要はない。「わくわくする」でも「不思議だ」でも「難しい」でもいい。大切なのは、著者と読者の気持ちが共有できるということである。

私の好きな科学書というのは、一人の科学者が主人公になって話が進んでいく本である。その科学者が何かに一生懸命であったり、悩んでいたり、喜んでいたり、また科学史の一部を作っている姿を、文字を通して想像するのが好きなのだ。 逆に自然現象の解説ばかり書いていてある本は飽きてしまう。「ふーん、そうなんだ」という「感想」は得られても「感動」は得られなかったり、というのがしばしばある。嫌いなわけではないが、解説がメインになってしまうと個人的にはその先も読みたいという気持ちが失せてしまう。

「追体験ができない」という表現がぴったりだろうか。現象の説明でも、それを頭の中で体験することができれば面白いと感じるのだが、それができないような内容が続くとダメなのかもしれない。著者がいくら「科学ってこんなに面白いんだよ」と思って書いてくれても、読み手とその「面白さ」が共有できなければ、結局は「つまらない」という感想を持ってしまう。



◎「共感」が必要なのは科学書だけではない


ここまで、エンエンと科学書のことについて書いてきたが、なにも科学書だけの話ではないだろう。どんなタイプの本(歴史系、政治系、経済系の本など)についても言えるはずだ。もちろん、「書評」もこのことは当てはまる。(と言ってしまうと、私は本当に恐縮である。)大切なのは、「自分語り」に陥ってしまわないことだろう。日常でも、自分の好きなことや得意なことを友人や知人にただ語りまくっていれば、「ウザイ」と思われるのと一緒だ。

そうならないためには、興味を持っていない相手にどうしたら興味を持ってもらえるかを考えて語るのがよいだろう。客観的に見て、「こうすれば相手も嫌がらないし、興味をもつかな」という感じで。しかし、万人ウケする本などありえない。だから7割ほどの人に興味をもってもらえるように配慮するのがベストではないかと思う。そして、こういった本や書評が増えればいいのに、と思う今日このごろ。
2011/02/21

いるモノ、いらないモノ ― 『大局観』

この本を読んでて、この記事を思い出した。


東京プラス社長 西村博之氏インタビュー - GREEキャリア


この二人の話してることって、まさしく羽生さんが言わんとしていることと同じなんだよなあ。



大局観  自分と闘って負けない心 (角川oneテーマ21)大局観 自分と闘って負けない心 (角川oneテーマ21)
(2011/02/10)
羽生 善治

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第1章 大局観(検証と反省;感情のコントロールはどこまで必要か ほか)
第2章 練習と集中力(集中力とは何か;逆境を楽しむこと ほか)
第3章 負けること(負け方について;記憶とは何か ほか)
第4章 運・不運の捉え方(運について;ゲンを担ぐか ほか)
第5章 理論・セオリー・感情(勝利の前進;将棋とチェスの比較 ほか)



まずは、「大局観」という言葉の定義から。(大辞泉より)


大局観(たいきょく-かん) ― 物事の全体的な状況や成り行きに対する見方・判断。


ちなみに、「局」の字は、「局面」(将棋や囲碁、チェスなどの試合状況)のことだ。字面を追って解釈すると「大きく局面を観る」という意味になるだろうか。


で、次の一文が非常に興味深い。


《体力や手を読む力は、年齢が若い棋士の方が上だが、「大局観」を使うと「いかに読まないか」の心境になる》(p23)


「いかに読まないか」は「いかに読む手の数を減らすか」と言い換えて差し支えないだろう。



私はすっかり誤解していた。羽生氏ほどの棋士であれば一つの局面ごとにものすごい数の手(情報)を読むと思っていたが、むしろその逆で「読まない」つまり、「読む手の数を捨てて減らす」ことに主眼を置いていたのだ。


この「捨てる」「減らす」という考え方は、本書の至る所で表れている。




《情報化社会を上手に生き抜いてゆく方法は、供給サイドに軸足を置くことだと思う》
(p126)


《所有過剰で管理が難しくなってきたと思ったら、思い切って売り払ってしまうなり、人に譲ってしまうなりして、手放してしまう方が良いのではないか》(p175)


《たくさんの可能性のなかから一つを選択する方が、少ない可能性から一つを選択するより後悔しやすい、という傾向がある》(p24)





どの発言にも、その根本に「捨てる」「減らす」の精神が見て取れる。「供給サイドに軸足を置く」というのも、「自らが情報を創る側に回ることにより、情報の受容量を減らす」ことである。


余談だが、3つめの「選択肢の数」については、シーナ・アイエンガー著『選択の科学』でもほとんど同じことが述べられている。詳細については同書を参照されたし。







どこでだったか忘れたが、「2ちゃんは便所の落書き、ツイッターはクソの垂れ流し」という文句を見たことがある。現代の情報化社会を風刺しているが、7割方合っているといっていいだろう。


情報がこれだけ膨大に垂れ流されている時代だからこそ、「この情報はいらん!」と割り切ってしまった方が本当は楽なのだ。これからの時代は「どうやって必要な情報を探し出していくか」ではなく、「とにかく捨てて減らして、残ったものが必要な情報だ」という消去法で考えた方が賢いのだろう。(そうでないと、自分自身がパンクするかもしれない!)


で、冒頭で挙げた対談と羽生さんの考え方というのも、つまるところ、この「捨てる」「減らす」が共通しているのだ。



《僕自身は、基本的に「二択」だと思っています。普通、人間にはいろいろな願望や欲望がありますよね。例えば「車が欲しい」とか、「おいしいものが食べたい」とか。

一つは、こういうある種、煩悩的なことを、どんどん少なくしていくということで、自分の幸せの定義の認識を変えていこう、という考え方。ひろゆきさんの考え方の根本原理に、近いですよね。求めるものを少なくすれば、満ちるのも早くなるし、喪失感も少ない。「年収300万でも幸せ」的な考え方です。

そしてもう一つは、こういう願望や欲望を一つの自分に活力を与えるエネルギーとして活用して、自分の人生を前進させていくという考え方。「あの人のようになりたいから努力する」とか、「いい結婚式を上げたいから、お金を貯めるために仕事がんばろう」とか。

両方の選択肢があり、善悪なくどちらも一つの解だと思うのですが、僕としては、後者から取り組んで、だめなら、前者に移行する、というのが現状の取り組みです(笑)。》


(引用:東京プラス社長 西村博之氏インタビュー - GREEキャリア



なにも捨てる対象は「便所の落書き」や「クソ」だけではない。無限に増える「欲」にも、この「捨てる」「減らす」の考え方でやっていこうというわけだ。


最近、書店でよく仏教関連の書籍を目にする。需要があるからなのだろうが、もしかしたらこの仏教的な「捨てる」「減らす」思考が注目されているからなのかもしれない。過剰にモノを抱え込まないで、身の丈に合った分だけ所有する。その方が楽なんじゃないかと皆が気付き始めたのだろう。


放っておけばどんどん増えていくモノは、自分から積極的にどんどん捨てて減らす ― 上手に生きるというのは、すなわち「身軽に生きる」というのと同じことか。
2011/02/19

「ホンモノの海賊」になるということ ― 『世界史をつくった海賊』

今、君はやりたいことがありますか?
なくてもいい。
今はまだ、やりたことが見つかっていなくてもかまいません。
卒業するまでに、やりたいことを見つけることができれば、
君の夢は必ずかないます。

― 中谷彰宏『大学時代しなければならない50のこと』




世界史をつくった海賊 (ちくま新書)世界史をつくった海賊 (ちくま新書)
(2011/02/09)
竹田 いさみ

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第1章 英雄としての海賊―ドレークの世界周航(貧しい二流国からの脱却;“海賊マネー”で国家予算を捻出 ほか)
第2章 海洋覇権のゆくえ―イギリス、スペイン、オランダ、フランスの戦い(勝利の立役者としての海賊;無敵艦隊との戦い―スパイ戦 ほか)
第3章 スパイス争奪戦―世界貿易と商社の誕生(貿易の管理と独占の仕組み;魅惑のスパイス貿易 ほか)
第4章 コーヒーから紅茶へ―資本の発想と近代社会の成熟(コーヒー貿易と海賊ビジネス;覚醒と鎮痛のドリンク ほか)
第5章 強奪される奴隷―カリブ海の砂糖貿易(甘いクスリ―砂糖の登場;イギリスと奴隷貿易 ほか)





海賊になりたい! ― そんな淡い夢を幼い頃に持っていた気がする。きっかけは『ピーターパン』に出てくるフック船長か何かに影響されて。


保育園に通っていた頃に思い浮かべていた夢だったから、一応は大学を「卒業するまでに」やりたいことを見つけていたことになる。だから中谷氏の考えでいけば、私の夢は必ずかなう「はずだった」。


まぁ、結局はどうであったのか、無論言う必要はあるまい。


そして十年以上もの時を経てのこと。昔、バイト先の上司が、(一人前の大人でありながら)海賊になりたいという夢を私に語ってくれた。それも結構、神妙な顔で。あれにはたいそう驚かされた。


「ああ、コウイウ人もいるんだなあ」


彼は今でも、その夢を捨てずに持っているのだろうか。今度会えたら聞いてみたい。







本書は実在した海賊を紹介し、いかにして彼らが世界の歴史を変えたかを教えてくれる本である。


が、中身はそれだけには留まらない。


この本は、私の元バイト先の上司のように、イイ歳をした大人でありながら「未だに」海賊になりたいという、淡い野望を捨て切れないでいる人へ、「ホンモノの海賊になるとはどういうことか」という問いを、実例をもとにしたケーススタディー方式で突き立ててくる本でもあるのだ。ちなみに著者は海賊ではない。


ここでいう海賊とは、荒れ狂う海を乗り越え、時には敵の船を襲い、時には東インド会社を作り、時には保険会社で有名なロイズに絡み、時には国家のために命を賭けて闘う、「ホンモノの海賊」である。


「じゃあ、“ニセモノの海賊”なんてのもいるのかよ」



いる。



それは、以前の私であり、私の元バイト先の上司であり、イイ歳をした大人でありながら「未だに」海賊になりたいという、淡い野望を捨て切れないでいる人たちである。こういう人たちは、(私が定義する限り)「ニセモノの海賊」である。


「ニセモノの海賊」は夢想家である。薄弱な理想家である。だから、「ニセモノの海賊」たちはきちんと本書を読んで「ホンモノの海賊」を知り、某有名錬金術師の言う「格の違いってやつ」を感じなければいけない。


そして(本当はこっちの方が大切なのだが)「なりたい」と「なれる」は違うということ、「やりたいこと」と「できること」は違うということを理解しなければならない。


聞いた話なのだが、とある予備校で世界史を教えている先生が、生徒から「先生。ボク、メシアになりたいんですけど、どうしたらなれますか?」という質問を受けたらしい。(その生徒は本気だったそうだ)


だが、その先生はその生徒の考えを尊重しつつも、「なりたい」と「なれる」は違うことだと、ちゃんと諭したのだという。


その通り。「なりたい」(やりたいこと)と「なれる」(できること)は違うのだ。


そのふたつが一致すれば、最高ではあるのだが。
2011/02/13

「分学部」化する文学部 ― 『文学部がなくなる日』

他学部生「文学部って何してんの?」
文学部生「・・・いろいろ」


おそらく上のような質問をされた文学部生の大半は、上のように答えるのではないか。
なんだかよく分からないけど、いろいろやる学部。それが文学部。


「文学部がなくなる」ことはあるかもしれない。ただ、それは文学部でやる内容がなくなるという意味ではない。


ではどういう意味か? ― 「分学部」になるのである。


で、「分学部」になることが、学力低下の一因というアダになっていることに、当の大学は気づいていない。



文学部がなくなる日―誰も書かなかった大学の「いま」 (主婦の友新書)文学部がなくなる日―誰も書かなかった大学の「いま」 (主婦の友新書)
(2011/02/05)
倉部 史記

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第1章 大学がつぶれる
第2章 変わっていく文学部
第3章 一変した大学の風景
第4章 生き残りをかけた大学の戦い
第5章 入試と今後の大学のあり方
第6章 「大学選び」を変える



本書は大学の「今」についての最新レポートだ。大学生の学力低下が止まらない現下、大学の経営政策と著者の提言が記されている。







「昔は通用したのに、今は通用しない」というのはよくあることだ。


流行語なんかまさにその典型。その昔、「チョベリグ」「チョベリバ」なんて言葉が流行ったが、さすがに今この言葉を使う人は絶滅したに違いない。


「ハンサム」という言葉も「イケメン」に置き換わり、広辞苑にまで採用されるに至った。そのうち「ハンサム」を使う人間も絶滅するかもしれない。


そして、本書のタイトルの一部でもある「文学部」という言葉も、(今の高校生の間では)通用しづらくなってきている。


誤解を招かないように言うと、文学部という「言葉そのもの」が通用しないのではない。言葉自体は知っているが、「意味」が分からなくなってきているのだ。新設大学が「文学部」という名称を採用しなくなってきているのも、このことを如実に表している。


思うに、「文学」というと文芸作品、特に小説や詩を思い浮かべる人が多い。それはそれで合っているが、かなり狭い意味での使われ方だ。


手持ちの辞書を引いてもらうと分かるが、「文学」という言葉は「自然科学・社会科学以外の学問。文芸学・哲学・史学・言語学など」も意味する。(大辞泉より)これだけの学問を意味するのに、たった一語で「文学」と括られてしまえば、そりゃあ何をやるのかイメージしづらい。


しかし、それは高校生自身の問題であって、「文学」という言葉が悪いワケではない。高校生には決して理解出来ない言葉でもない。彼らがこの言葉の意味、そして「文学部」が何をしている学部なのかを調べれば済む話である。


ところが、大学はせっせと文学部を「分学部」に変えている。新たに学部を作り分け、それまで文学部として扱ってきた内容をそこで勉強させようというのである。「学部ける」で分学部、「かりやすい学部」で分学部、といった具合に。



それで、その問題の「分学部」化はどうなのか?



色々な意見があるだろうが、個人的には「は~い!今の最新流行に合わせて新しい学部、作っちゃいました☆(笑)」とでも言わんばかりの学部が増えたのではないかと感じている。安易に「国際」だの「メディア」だの「キャリア」だの「環境」だの「人間◯◯」だのといった言葉を取り入れたせいか、安っぽく釣りっぽいネーミングのものが多かったりする。


そしてそういった学部名が「分りやすい」のかと言えば、それもそれで疑わしい。


「流行のキーワードや造語を組み合わせるあまり、何を学ぶのかよくわからない名称になっているケースも少なくありません。むしろ、あえて「何を学ぶのかよくわからない」名称にしているのではないかとさえ思える例もあります」(p48)


こういった学部の仕分け作業、学部名という看板の掛替え作業は、優秀な学生を集めるというのが本来の目的ではなく、ただ単に学生の数を稼ぐこと、すなわち大学の収入源を増やすことに腐心している場合が多い。


伝統の名称だけに拘れとは言わないが、有名大学までもこぞってこんなことを始めたものだから、いかがなものかと思えてならない。「学力低下」や「大学全入時代」と呼ばれようになった現在、こういったことに拍車をかけているのはむしろ大学側ではないかとさえ疑いたくなる。


話は変わるが、今の日本には700校以上もの大学があるらしい。はっきり言って多すぎである。もはや小中学生の通う学習塾感覚だ。いや、「学習塾」であるならまだマシかもしれない。(「塾」の字がつく大学もあるくらいだし。あえてどことは言わないけど。)大半は勉強しているのかさえも怪しい。


そしてその大半が無名大学であり、金があって自分の名前さえ書けば受かるような大学も存在したりする。まぁ、これだけあればそういったのが出てきてもおかしくない。(その時点で最早、大学ではないと思うが。)



さて、大学の批判ばかりしていてもしょうがない。そこで今後、大学進学を真剣に考えている高校生たちに、なるべく学部名にダマされず、入学後のミスマッチが起きないよう、考えてみたことを3つほど書いてみる。



1、新書でいいから、色々なジャンルの本を読んでみる。文学作品、歴史、法律、経済、物理、化学、生物、数学、ありとあらゆる学問に関係した本を読んでみる。そして少しでも興味の幅を広げてみる。これを実践してみるだけでも、自分は大学で何を学びたいのかがはっきりしてくると思う。


2、大学関係の雑誌や大学のパンフレットを読んでみる。


3、実際に大学の授業に潜り込む。オープンキャンパスに参加するのもいいが、入学後の授業内容との落差が激しいものが多いので、あまり期待はしないほうがいい。



3は難しいかもしれないが、1と2ならできる。大学受験は決して大学受験勉強でもって全て決まるものではないし、入学後にミスマッチが起きるのであれば、受験がうまくいったとも言えないだろう。


以上のことを踏まえた上で、今の高校生がすべきことは色んな意味で「賢い高校生」になること。そして「賢い学部選び」をすること。これに尽きる。


そして高校生にウケないからといって、安易にウケけるような名前の学部をつくり、高校生を釣り、金を釣るという卑しい活動はやめましょうね、と。(当然ながら釣られる高校生にも罪はある。)
2011/02/11

「読書術の本」ではない読書術の本 ― 『定年と読書』

すごい・・・。私の感じていることとほとんど同じだ・・・。

タイトルが『定年と読書』だが、『若年と読書』と言い換えてもまったく差し支えない。

これは定年を迎えようとしている大人たちが読む本ではない。むしろ「若年」である若者が読むべき本である。




【文庫】 定年と読書 知的生き方をめざす発想と方法 (文芸社文庫)【文庫】 定年と読書 知的生き方をめざす発想と方法 (文芸社文庫)
(2011/02/04)
鷲田 小彌太

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序章 新・人生設計論―定年後の人生に上昇気流
1章 定年後の日々には読書が似合う
2章 読書のある人生、ない人生
3章 読書計画のある人生
4章 さまざまな読書術集書術
終章 老後は続くよ、どこまでも



表表紙、裏表紙を読むに、本書はどうやら読書術系の本らしい。


で、中身を読んでいくとはっきりわかる。これは読書術系の本などではない。本書は、「本」が「本」当に大好きな「本」の虫によって書かれた「本」のエッセイなのだ。

本を大量に読む人たちはどうやら本に対する考え方というのがほとんど同じ傾向になるようだ。しかも私は20代。著者はもう70代に近い。20代と70代とでは普通、世間一般についての考え方は大きく異なるだろうだが、「本」については考えていることが全くといっていいほど一緒だった。


「しかし、読書に限界はない。あるいはこういったほうがいいだろう。食にも限界はない。読書で、言葉で食事を堪能するのには限りがないからだ。胃袋に限界はあるが、脳には限界がないということだ。」(p37より)


そう言ってしまえばその通り。だが、本書を読んだ方で、こう言われるまでこの事実にきちんと気がついていた人というのはどのくらいいたのだろうか?

人生経験において、私は著者に絶対に勝ることなどできない。が、だからこそそんな著者と「本」への想いがここまで似通うというのがものすごく嬉しいのだ。生まれた場所や時は違えど、共感できるものがあるというのは本のことに限らず幸せなことだと思う。


そして若年である私が言う。これは若い人こそ読むべき本だ。むしろ定年に達した大人が読んでも、あまり感動が得られないのではないか。そして本を読んでこなかった人であれば、感動よりも悲しさの方が大きい気がする。


最後に、本書から印象的な見出し・小見出しを少しばかり。

「晴れた日には読書を」
「本を読む人の顔はいい」
「読書の楽しみに限界はない」
「本に酔う」
「本を読まない人は老化が速い」
「長生きの素は「知」である」
「五〇歳を過ぎたら自分の顔に責任をもて」
2011/02/09

「水」を「見ず」して「瑞」は得られず ― 『中国最大の弱点、それは水だ!』

「見ず」にはいられない(無視できない)存在 ― これが「水」の語源だ、というのは私が作った真っ赤な嘘。

が、少なくとも本書を読み終えれば「あながち嘘でもないかも」と感じるのではないかと思う。



中国最大の弱点、それは水だ!  角川SSC新書  水ビジネスに賭ける日本の戦略 (角川SSC新書)中国最大の弱点、それは水だ! 角川SSC新書 水ビジネスに賭ける日本の戦略 (角川SSC新書)
(2011/01/08)
浜田 和幸

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第1章 深刻化する中国の水不足
第2章 世界を襲うウォーター・クライシス
第3章 脱・ペットボトル水
第4章 ウォーター・マネー
第5章 世界に誇れる日本の水道技術
第6章 問われる日本の水戦略



水という「見ずにはいられない存在」を追いかけ、その度に血という「見ずに済むはずの存在」を嫌というほど見てきた生命体が、かつて人間の他にいただろうか?

香港大学の地理学者デービッド・チャン氏によると、過去500年の間、8000回以上もの戦争が起きたが、その原因の大半が水不足による水源地の奪い合いによるものだそうだ。

そしてローマの歴史家クルティウス・ルーフスの言葉も借りるならば「歴史は繰り返す」のである。

否、もうすでにそれは始まっていたりするのだから、この格言のいかに的確なことか。舌を巻かざるをえない。

「水の恩は送られぬ」 ― 水の恩恵というのは報いることができないほど大きいものだという意味だが、この本を読めばそのことをより一層自覚するはずだ。「水魚の交わり」なんていう諺もあるが、もっと言って「水人の交わり」でもいいくらい。


前置きはこのくらいにしておこう。


本書は、今現在世界における「水事情」についてまとめた本である。特に第2章「世界を襲うウォーター・クライシス」、第3章「脱・ペットボトル水」は日本人必見。なんせ、イザヤ・ベンダサンに言わせれば、安全と水はタダで手に入ると思っているような民族だ。日本人として生まれたことがいかに幸福なことか、思い知らされること間違いない。

とはいっても本書は小うるさいお説教本の類などではない。水を使ってのビジネス、いわゆる「水ビジネス」の可能性についてもきちんと指摘している。

日本はすでに水を使ってビジネスができるだけの優れたノウハウを持っている。水道水の水質管理、水道インフラの出来は世界屈指。「コイツをビジネスに生かさない手はない!」というわけだ。

今持っている技術はパクられてもいい。モノではないから。でも持ち腐れだけはいただけない。ましてや後生大事に神棚へ置いておくなどご法度もいいところ。使ってナンボの代物は使ってこそ価値がある。

“To be, or not to be, that is the question”

シェイクスピアの代表作『ハムレット』の主人公ハムレットの名ゼリフだが、今まさに日本は「色んな意味で」彼と同じ状況にある。私が親友のレアティーズならば、きちんとこう言うだろう ― “NOT TO BE”と。

20世紀が石油の時代ならば、21世紀は水の時代 ― 各国の大企業や投資家たちは血眼になりながら、水源地の争奪戦を繰り広げている。地球上に存在し、且つ人類にとって有効な水は全体の0.01%分だけ。決して日本も出遅れてはならない。
2011/02/02

医療が「ビジネス」になりにくい理由 ― 『「病院」がトヨタを超える日』

「病院」がトヨタを超える日 医療は日本を救う輸出産業になる! (講談社プラスアルファ新書)「病院」がトヨタを超える日 医療は日本を救う輸出産業になる! (講談社プラスアルファ新書)
(2011/01/21)
北原 茂実

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医療による経済効果がどれほど大きいかに着目した本だ。「病院の株式会社化」「病院の輸出産業化」という発想は非常に興味深い。現にタイや韓国、インドが外国人富裕層を相手に質の高い医療を「輸出」しているという。「医療崩壊」が声高に叫ばれている今、ひとつの打開策としては考慮すべきかもしれない。

ただ一方で、二つほど疑問がある。

一般的に、医療が純粋な「ビジネス」としての扱いを受けることは(特に日本において)少ないと思う。なぜだろうか?

それは、医者という職業が患者からの「感謝の気持ち」で成り立っている部分が大きいからではないか。もちろん診察料や手術料をもらわないと食っていけないが、大半の人は利益目当てで働いてはいない。それよりも「人を助けたい」という気持ちで働いている人の方が多い。

医師は患者を助けることにやりがいを感じ、患者は助けてもらったことに感謝の気持ちを示す。それが医師にとっての最大のモチベーションではないか。お金による報酬というのはあくまでも副産物のような存在だ。こういった背景があるため医療が純粋に利益目当ての「ビジネス」としては見られないし、成立しにくい。

仮に純粋なビジネスとして始まれば、医者と患者は「お店」と「お客さん」という関係になるが、「お客さん」が「お店」に対して感謝の気持ちを表すことはまずない。そして病院側は病院に来た人を「お客様」ならぬ「患者様」として扱うことになる。

「感謝の気持ち」で成り立っている部分が大きい職業から、「感謝の気持ち」がなくなればどうなるだろうか?

患者からの理不尽なクレームが来ても、医師たちは黙って頭をさげる。「ありがとうございました」という言葉は患者からではなく、医師から ― そんな光景を目にするようになるのではないか。

以前からこの「患者様」という呼称やそういった扱いに疑問の声が上がっている。そして「商業としての医療」が始まればこの問題はもっと深刻になるだろう。事実、韓国ではその手のトラブルが医者と患者との間で起きているのだそうだ。

こういった問題だけならまだしも、会社として病院を経営していく以上、他の病院は競争相手ということになる。利益が上がらなければ倒産ということになるが、これはその病院だけの話に留まらない。そこを掛かり付けとしている人たちにも影響が出てくるからだ。

今はこの二つの問題をどのように対処するのかについて考えてからでないと、「医療の産業化」を成功させるのは難しい。



2012.1.7追記:本書を読んで考えるきっかけになった本をご紹介↓


偽善の医療 (新潮新書)偽善の医療 (新潮新書)
(2009/03)
里見 清一

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2011/01/27

数学を「語れない」数学の先生 ― 『中学・高校数学のほんとうの使い道』

ちょっとわかればこんなに役に立つ 中学・高校数学のほんとうの使い道 (じっぴコンパクト新書 76)ちょっとわかればこんなに役に立つ 中学・高校数学のほんとうの使い道 (じっぴコンパクト新書 76)
(2011/01/20)
京極 一樹

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本書は中学・高校で習う数学が社会で何の役に立っているのかという点から書かれた本だ。三角関数とビリヤード、指数関数と銀行預金、二次関数と自走砲など、中にはマニアックなものまで扱われている。この本を機に、数学が何の役に立っているのかを自分自身で探してみるというのも面白いかもしれない。

ただ、数式もふんだんに出てくるので数式アレルギーのある方はご注意を。



本書の表紙にこんなことが書かれている。
「数学が大嫌いだった人も、ちょっと苦手だった人も会社で、酒の席でsin、cos、tan、が語れる!」

さすがに酒の席でsin、cos、tanを「語る」機会はまずないと思うが、残念ながら学校の教室でも「教える」ことはあっても「語る」ことはほとんどないのだ。

「語る」という言葉は、大辞泉によると「話す。特に、まとまった内容を順序だてて話して聞かせる」と定義されているが、「物事の面白みや魅力を伝える」というニュアンスも含まれている気がする。

中学・高校時代、私は数学が好きではなかった。自分の中で「面白い!」という部分が見つけられなかったという理由もあるが、他方で数学を“語る”先生に出会わなかったからでもあるのかなと本書を読んでいて感じた。当時の私は、数学の面白さや魅力を知らなかった。その一方で数学を“教える”先生方にはたくさん出会ってきた。だから数学の問題を「解く」ことはできるが、数学の醍醐味を「説く」ことはできない。

「数学の先生が数学を教えるのは当たり前ではないか」 ― 確かにそうなのだが、「数学の先生」という職業についたからには、「教えること」はもちろん、「数学」という学問が好きだから「数学の先生」になったはずだ。

人が何かを好きになるには何らかの理由があり、その魅力が伝えられるのであり、すなわち好きになったものについて“語れる”のである。そして「語る」とは、「まとまった内容を順序だてて話して聞かせる」ことでもあるから、話し手が聞き手のことを考慮する必要がある。「かんしん」のない聞き手に、「関心」と「歓心」をもってもらうこと ― これこそ「語る」人が掲げる最大の目標である。

今、この「最大の目標」を胸に抱きながら「先生」という職に就こうとしている人は、ごく少数ではないだろうか。一方で、「教える」のが上手な先生は昔に比べて圧倒的に増えた。充実した学習参考書を自分の授業に利用する人もいるし、学生時代に学習塾でアルバイトをしていた経験を活かして教壇に立つ人も多い。だが、「語れる」人だけは増えていないと感じる。

私は数学が好きではないが「教える」ことはできる。だが、好きではないから「語る」ことはできない。もしも「えらい数学の先生」という先生がいるのであれば、それは「数学を“語れる”先生」のことだと思う。

「語る」という行為はすごく難しい。先生方の一生のテーマになるかもしれない。そしてこれから先生になろうとしている方たちには、自分の教える科目について「語る」ということをぜひとも考えてほしいと思っている。学問に対し、生徒たちに興味を持たせてくれる可能性が最も高いのは他の誰でもない先生たちだからだ。
2011/01/24

老化の原因は見た目が9割 ― 『「がまん」するから老化する』

「がまん」するから老化する (PHP新書)「がまん」するから老化する (PHP新書)
(2011/01)
和田 秀樹

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もちろん、本当に“老化の原因は見た目が9割”なわけではない。某出版社の有名な新書のタイトルをモジってみただけなので気にしないでほしい。しかし本書を読めば、9割というのは言い過ぎだとしても、老化の原因と「見た目」には密接な関係があるというのは感じるはずだ。

数年ほど前から「見た目」をテーマにした本をわりと見かけるようになった。中でもこの記事のタイトルの元ネタ『人は見た目が9割』という本はかなり売れたので知っている方もいるだろう。

そして本書も(部分的にではあるが)このテーマに入るといって良い。タイトルは『「がまん」するから老化する』なのだが、「見た目」と「老化」の相関関係、そしてなぜ「見た目」に気を使ったほうが良いのかという理由を述べた箇所は非常に読み応えがあった。

外見や服装を気にかけないというのは、「心の老化」へまっしぐらなのだそうである。そして「心の老化」は身体の老化に繋がり、免疫機能の低下などの悪影響を招くと筆者は言う。「ホントかよ」とつっこみたくなるが、精神神経免疫学なる分野でこういった研究が進んでいるとのこと。経験則などではなく、しっかりした医学的根拠があるようだ。

少し話は逸れるが、私の中学・高校時代は、先生から「服装の乱れは心の乱れ」とよく注意された。少なくとも本書の主張を拡大解釈すれば、この指摘はそれなりに説得力はあるように思う。(まあ、当の生徒たちはかっこ良さや可愛さをつくろうと意図的に制服を「乱して」いる部分もあるから、実際に説得できるかどうかは分からないが。)

また、老化予防には体を使うことよりも頭を使うことの方が効果的らしい。ブログやツイッターなどで自分の考えや意見を述べるというのは、老化を防ぐという点から見ても素晴らしいそうである。(書評ブログを運営している私には願ってもない朗報である!)

「見た目」の話に戻ろう。

一般的にだが、女性というのは男性よりも寿命が長い。本書を読んだ上での憶測に過ぎないのだが、おそらくこれは女性が男性よりも自分の「見た目」に気を使う人が多いからではないだろうか。(もちろん他にも要因はあるが。)

「綺麗な自分」をつくるというのは気分が良い。それは心理状態を「快」に保つわけだから、当然身体にも良い影響を与える。そういった努力を幼い頃から自然とやっているのだから、それが最終的に寿命というものに反映されるのかもしれない。

多くの女性が持つ「いつも美しく」という意識は、時として男性から「何を気取ってるんだ」と一蹴されることもあるが、「心の老化」→「身体の老化」という流れを未然に防ぐことになるのだからむしろ奨励すべきことだろう。(それに私は綺麗な女性が好きだ!)

ここまで読んで、「内容があまりにも大袈裟だ」と感じた方もいると思う。だが老化がどうのこうのと堅苦しい話を抜きにすれば、「見た目」に気を使い、髪型や服装をしゃれてみるというのはすごく楽しい。

それにおしゃれは若者だけの特権ではない。もしかしたら、オシャレが共通の話題になって違う世代との新たな交流も生まれるかもしれない。そうなれば脳は活性化されるし、ひいては自分の人生も今まで以上に楽しくなると思う。
2011/01/21

コンピュータに「嫉妬」するのは筋違い ― 『コンピュータVSプロ棋士』

古今東西、映画やマンガなどで「人間VS機械」というテーマを扱った作品は多いが、何も架空の話には留まらない。事実、現代の将棋界ではその闘いが白熱しているのだ。

そして本書を読んで確信した。近い将来、将棋ソフトが名人に勝つ日は必ず来る。


コンピュータVSプロ棋士―名人に勝つ日はいつか (PHP新書)コンピュータVSプロ棋士―名人に勝つ日はいつか (PHP新書)
(2011/01)
岡嶋 裕史

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第1章 渡辺竜王との夢の対局
第2章 ディープブルーが勝利した日
第3章 将棋ソフトが進歩してきた道
第4章 「手を読む」と「局面を評価する」は違う
第5章 局面をどう評価するか
第6章 清水市代女流王将vs「あから2010」
第7章 名人に勝つ日


本書は、現在の将棋ソフト(ボナンザなど)の性能や思考回路、そしてプロ棋士との対局における最新の現状などをまとめたものだ。

現役のプロ棋士が書いた本かと思いきや、そうではない。著者は関東学院大学の准教授で、情報ネットワーク論を担当しているとのこと。理系の先生ということで、本書も将棋ソフトの仕組みといった理系的な内容を主に扱っている。

特に興味深いと感じたのは将棋ソフトの未来について述べた第七章だ。「人間の真似からの脱却」「将棋の魅力は失われない」「複合将棋の可能性」など、この章では今後の将棋ソフトについての考察がなされている。

そして以下は、本書を読んでの私なりの考察。


人間とコンピュータの最大の違い ― 言わずもがなではあるが、それは「心」の有無だろう。人間のように動揺や不安や焦りといったものがコンピュータにはない。それは対局中、「常時」冷静な判断が下せることを意味する。言い換えれば心理戦という将棋の醍醐味が無に等しい状態であり、人間にとっては悲しい知らせだ。

コンピュータの対戦相手は人間ただ一人。しかし人間の対戦相手はコンピュータ一台では済まない。「自分の心」も対局中では立派な敵になりうる。さらに突っ込めば「体力」も含めて三人にカウントできるだろう。敵の数がコンピュータと比べて多いのも、「人間VSコンピュータ」の特徴と言える。

心や体力といった概念もなく、いつでも落ち着いて最善手を考え出す人造人間 ― このように考えてみるだけでも、人間と将棋ソフトの闘いを純粋に「人間の思考VSコンピュータの思考」という枠組みで見ることがいかに難しいことか。

だがそれでも今後、コンピュータとの対局がますます盛り上がっていくのは間違いない。そうであるならば、いや、そうであるからこそ、プロは今まで以上にタフな精神力とそれに裏打ちされた思考力や体力が求められることになるのだろうと本章を読んでいて感じた。(そしてこの「将棋ソフトの進化」がプロとアマの境界線をより一層に明確にするのではないだろうか)

と、ここまで将棋ソフトのことを述べてきたが、現実でも、コンピュータが出てきたために人間そのものが変わらないと能力の面でコンピュータに追い越されてしまうといった事態は起きている。

パソコンが職場に普及する前までは「人間の仕事」として見なされていたものが、今ではどんどん「コンピュータでもできる仕事」に置き換わっている。そうなっていけばいくほど、「人間にしかできない仕事とは何なのか」という疑問が生まれる。コンピュータは確かに人間の手助けをしてはくれるが、それと同時に「人間にしかできないこと」「コンピュータにはない人としての価値」も改めて問うている存在なのだ。

「人間VS機械」という問題はかなり根が深い。そういう意味で、本書はその問題の氷山の一角を示していると言えよう。
2011/01/17

「無茶苦茶」を、無茶苦茶なまでに、肯定してみた ― 『脳と即興性』

脳と即興性―不確実性をいかに楽しむか (PHP新書)脳と即興性―不確実性をいかに楽しむか (PHP新書)
(2011/01)
山下 洋輔、茂木 健一郎 他

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第1章 いにかして山下洋輔は生まれたのか(譜面どおりに弾くのは嫌だ!;第二外国語としてのヴァイオリン ほか)
第2章 即興力の磨き方(言葉をたくさん覚えておく;才能を叩き売る覚悟をもて ほか)
第3章 独創性の育て方(フォロアーが独創性を育む;「楽譜なんて見るな」と言えるか ほか)
第4章 音楽は生命力の源泉である(引き出しがカラッポな状態;宮廷で育てられたクラシックの奇跡 ほか)
第5章 人生の本質とは何か(ジャズの道を選んだ理由;脳科学者を選んだとき ほか)
第6章 勇気をもって生きる―即興の知とは何か(能登で感じたクオリア;リスクを取って自由に生きる ほか)


「まったく筋道が通らないこと。度外れなこと。また、そのさま。」


「滅茶苦茶」という言葉を大辞泉で引くとこのように定義されている。一般的にこの四字熟語を肯定的な意味で使う人はあまりいない。使うとしても「滅茶苦茶おもしろい」だとか、程度の甚だしさを表す時ぐらいであるが、それでもたいがい“気軽に使える口語”として扱われる場合がほとんどであり、フォーマルな場面でこの言葉を使えば、その人の品が疑われたりもする。

言葉そのものはネガティブなイメージが強い。だが、歴史という観点からすれば、むしろ「滅茶苦茶」というのはポジティブに働く場合が多かったりする。何かが急成長したり発展したりする時、たいていそこには「無茶苦茶」が存在する。

例えば、明治維新や高度経済成長期の頃を見てみよう。これら二つの時代、すっきりと整った計画案をもとにして行動し、さも予定調和のごとく発展した時代だったかといえば、そうではない。ものすごい勢いでなりふり構わず新しいことに挑戦していく。失敗することも多かったが、その分成功することも多かった。そういう時代だったのではないか。

そしてその「滅茶苦茶」を見直そうと示唆するのが、本書の二人である。

太平洋戦争を機に、憲法も思想もインフラも生きる希望も、滅茶苦茶なまでにたたき壊された戦後日本。そこに残されたものこそ「滅茶苦茶にやってみること」だった。その後は滅茶苦茶に経済成長し、滅茶苦茶なまでに不況に陥り、そして何にもまして「滅茶苦茶」を恐れるようになったのは、どこの誰でもない日本人自身である。

滅茶苦茶にやってみるというのは何が起こるかわからないし、先が想像できない。想像できないからこそ、創造できるものがあるのではないか。日本活性化のためのヒントは、案外、無茶苦茶なものだったりするのかもしれない。
2011/01/16

恋は人を美しくする? ―  『音楽で人は輝く』

音楽で人は輝く ―愛と対立のクラシック (集英社新書 577F)音楽で人は輝く ―愛と対立のクラシック (集英社新書 577F)
(2011/01/14)
樋口 裕一

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「恋は人を美しくする」というセリフがある。


恋する者にとっては魅力的な言葉だが、しない者にとってはどこか胡散臭い。


「恋をしてイケメンや美人になれたら苦労しないよ」


そんな声が聞こえてきそうだ。


だが、この“人を美しくする”というのは、単に外見がカッコよくなるという意味ではない。むしろ“人としての中身が魅力的になる”というふうに捉えた方が適切だ。


本書に登場する作曲家たちは、情熱的にであれ冷静にであれ、恋によって自らの“中身”を磨いてきた人たちなのだ。


著者の樋口裕一氏は近世近代以降の有名な作曲家たちをブラームス派とワーグナー派という二大系統に分けて、西洋音楽史を紹介している。


だがそれ以上に面白いのは、流派の垣根を越えた、恋の力によって邁進する作曲家たちのエピソードである。


ブラームスやワーグナーはもちろん、リスト、シューマン、ベルリオーズなど、音楽室にある肖像画を見ては、「なんだかイカついおじさんたちだなあ」と私たちが感じていた彼らを、ここまで人間臭く思わせてくれる本というのはそうそうない。


「恋は人を美しくする」 ― 恋愛不精な人も、本書を読めばそう感じることだろう。
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