2016/05/01

個体主義と選挙権

NHKが放送した、『世界のいま』(5月1日付)を見た。18歳選挙権の特集で、各国の20歳未満の若者たちが選挙に対し、どのような考えを持っているか、その現状が出ていた。

見ていると、大半の日本の20歳未満とは比べ物にならないであろうくらいに、選挙を大真面目に考えているようだった。下手をすると、大方の20代後半の日本の若者すら、こんなことは言えないし考えてもいないであろうことを、自分のことのように話している外国の若者たちに驚かされた。それくらい、彼らにとって選挙は身近なことで、自分に直接関わることだという意識が強いのだろう。

では、なぜ彼らはそのような意識を持てるのだろうか。その放送を見ていると、ずいぶんと若い時(12歳くらい)からどうやら、政治や選挙についての授業を熱心にやっているかららしい。しかも、日本の学校でやる「公民」のような、至極退屈な授業スタイルではなく、ディスカッション型だ。自分の意見をしっかり述べ、相手の意見もしっかり聞く。基本的に先生は政治や選挙に関する基礎知識しか教えないようで、あとはそれを土台に自分はどのような考えを政治や選挙に対して持っているのかを語り合うようだった。「忌憚のない」とは、まさにこういうことだろう。

日本の学校でも最近はこういう授業をやるようにはなってきているが、それでもこの放送で見たようなものの比ではない。なんとなく、というか、漠然とした、というか、そういった当り障りのないことしかやらない。

選挙権を18歳から持てるようにすることで、何か変わるかといえば、私は何も変わらないと思っている。なぜなら、10代よりも思慮分別がついているであろう20代ですら、選挙権の行使率は低いからだ。

選挙権の問題は、年齢ではなく、風土やお国柄といった問題の方が、影響しているのではないか。そもそも、日本では公的に認められた権利を「行使する」ことに関心がなかったり、ためらいがあったりする。

例えば、サービス残業が平然と存在しているのも、法的根拠をもとにして「残業代を請求する権利」を行使しようとしないのが一因になっている。セクハラやパワハラがひどくても、なにもせずに泣き寝入りしてしまうというのも同様だ。

「自分個人から何かを積極的にやろうとする」こと自体に、なんらからのストップがかかりやすい要因があるのだろう。

昔、大学生だった頃、教わっていた教授から「日本人は欧米人などと比べられて、よく集団主義だなどと言われるが、そうではなく“個体主義”なのだ」と言われたことがある。

「個人主義」ではなく、「個体主義」である。その先生に言わせると、「個人主義」は、あくまでも一人の人間が「集団」ではなく「個」として「動く」ことが「個人主義」なのだが、「個体主義」は、一人の人間が「集団」として動くことは好まず嫌がり、かといって「一個人」として何か積極的に行動することができず、またその個人の責任で活動することができるかというとそれもできず、ただただ、一人ひとりが「個“体”」のように存在し、「個“人”」として、自ら動くことはせず、したがらない。そういった状態を先生は「個体主義」と呼んでいた。

なるほどとわたしは思った。日本人は集団主義のように見えるが、内実、集団で動くことを嫌がっているのだから、集団主義の信奉者ではないのだ。より正確に捉えるならば、先に言った、「個体主義」なのだ。

いまの子たちを見ていると、より「個体主義」化しているように見える。あくまでも「個人」として存在したがらず、「個体」という、いわば「モノ」化することで、自らを「秘匿させたい」傾向が強いのではないか。動画サイトなどでよく見かける「顔だけ映さない自分」の動画は、まさにそういった心理の表れのようだ。

選挙権の行使は、「個体主義」とは相反するものだ。こうした「個体主義」が広くこの国に根付いている以上、「18歳から選挙権を」などといっても、あまり意味がないように思う。
2016/03/05

すごくないことをすごい感じにする技 ―― 『団子売』歌舞伎座

今月の歌舞伎座は雀右衛門襲名口上がメインのようだが、私のお目当ては昼の部最後の『団子売』である。

この演目、舞踊なのだが、そもそも団子売をする夫婦の睦まじさのようなものを踊りで描くという、なんだかよくわからない話なのだ。

だが、この夫婦、軽快なテンポで持参した臼と杵で団子をこしらえ、最後のほうではお面で楽しく踊るのである。

歌舞伎ではよく、こういう(言い方は悪いが)どうでもいいテーマや風景を舞踊化してしまうことが多い。

何気ない日常、ありふれた普通なもののある一面を切り取って、それを「美」に変える――これが歌舞伎のすごい所なのだと思う。

他の演劇にこういった「美化作用」はあるのだろうか。おそらく、歌舞伎だけのものなのではないだろうか。

歌舞伎から学ぶべきことの一つは、こういった「ありふれた光景をすごい感じに仕立てあげる」ことだと思う。

2015/01/08

「守るべきもの」がない人たち ― 『石川五右衛門』(新橋演舞場)を見て

正月早々一日で、昼は歌舞伎座、夜は新橋演舞場、というスケジュールで観劇した。観劇時間はトータルで8時間。めちゃくちゃ充実した一日を過ごせたが、腰とお尻が痛いわ痛いわで大変だった。

何といっても、海老蔵の歌舞伎だ。見ないわけには行かない・・・ということで、私は3日に観に行ったのだが、その日は偶然にも、テレビで『市川海老蔵にござりまする』という海老蔵の特集も放映されていた(もちろん、録画して後で見た)。何だかんだ言っても、やっぱり海老蔵は人気なのである。

さて、『石川五右衛門』の感想だが、まず、ストーリーが無茶苦茶である。もう何でもありじゃねえか、とツッコミを入れたくなる。が、やっぱり面白い。見ていて全然飽きない。「おっ、ここでいっちゃう?!」「キター!!」「よおし!いっちまええ!」などと私は一人で盛り上がっていた。

以前の記事でも書いたが、歌舞伎というのはストーリーよりも、「歌舞伎」という名の「演出」が最大のウリであり魅力なのだ。だから、たとえストーリーに無理・矛盾があっても、正直、「まあ、歌舞伎ってそんなもんだよね」程度で腑に落ちてしまうのである。現代のテレビドラマに「論理性」や「整合性」は求めても、歌舞伎には求めようがないのだ。

ところで、歌舞伎には、「粋な人」たちというのがよく出てくる。

粋――ここで辞書的な定義を述べても仕方ないが、簡単に言ってしまえば「内面(気遣いや思いやり)も外面(身なりや外見)も格好いいこと」といったところだろうか。

そういう「粋な人」たちというのは、何というか、人生において「守るべきもの」がない。言い換えれば、何かに己の人生を縛られていない。どこから小突かれることもない。

一方、現代人には「守るべきもの」が多すぎる。職、地位、家庭、お金、住宅、自分の時間――どれか一つでも不安定だと我々は毎日鬱々と生きざるを得なくなってしまう。

歌舞伎に出てくる格好いい人たちは、なぜ「粋」でいられるのか――それは結局、「守るべきもの」がないからだと思う。彼らには、間違ったり失敗したりしても、これといったダメージがない。劇場で会う彼らは、いつも飄々としていて、自由奔放で、それでいて皆からの人気者だ。羨ましい限りではないか。

人は、「守るべきもの」が多すぎると、つまらなくなる。守ってばかりで攻められないから、どんどん萎縮していくのだろう。守るべきものを多く抱えて人生を生きるというのは、文字通り、保「守」的に生きることに等しい。そこには、良い意味での「スリル」がないし、「野望」もない。「アヴァンチュール」なんて言葉とも無縁な世界だ。あるのは、先への不安と怯えだけである。こうなってしまっては、もはや「粋」の反対、「野暮」よりも深刻な、ある種の「病気」だとさえ思えてしまう。

わたしが歌舞伎観劇をやめられない大きな理由のひとつは、この「守るべきものがない、歌舞伎の粋な人たち」の豪快さにあるのかもしれない。「粋」に生きるのがあまりにも難しくなった現代人には持っていない独特の魅力を、「彼ら」はしっかりと握りしめているのだから。
2015/01/04

【歌舞伎座】壽初春大歌舞伎【昼の部】



2015年1月3日。七之助と玉三郎見たさで観に行った、初春の歌舞伎座、昼の部。相変わらずの感想だが、「ああ、綺麗だなあ」の一言に尽きる。

まずは『金閣寺』より、七之助の時姫。本当にイジらしい。わたしは、オペラグラス越しでボーっと「彼女」を眺めていた。

続いて『蜘蛛の拍子舞』より、玉三郎の女郎蜘蛛の精。本当にスゴイ隈取だ。あんなのが夜中に出てきたら、腰を抜かすのは必至だろう。それにしてもまあ、よくあんな恐ろしい隈取を考えついたものだ。昔の人はスゴかった。

最後は『一本刀土俵入』より、魁春のお蔦と幸四郎の茂兵衛。この作品、正直な所、新歌舞伎とあって期待はしていなかったのだが、見終わる頃には涙が出そうになってしまった。この二人の演技に、すっかりはまってしまい、終わり際、もはや魁春が「お蔦」に、幸四郎が「茂兵衛」にしか見えなくなっていた。と同時に、「“一本刀”“土俵入”ってそういうことだったのね」と一人で納得。

――ここでいつも思うことなのだが、歌舞伎というのは、「ストーリー」よりも役者を含めた「演出」を楽しむ芸能なのではないか。

隈取という演出、男が「女」になりきるという演出、見得という独特なストップモーションの演出、花道という演出、ツケ打ちという演出、鳴物(BGM)という演出、廻り舞台という演出――この演劇を「歌舞伎」にしているのは、こうした演出「たち」だ。

演出が印象深いと、極端な話、ストーリーなんてどうでも良くなる。歌舞伎には似たようなストーリーの演目が少なくないが、それぞれ演出の仕方や仕掛け方が違っているので、たくさん見ようとも飽きない。

同じ演目でも、演じる役者が変われば、それだけで違う演出になってしまう。また、美術や照明を担当する人も変われば、然りだ。これだから歌舞伎はヤメラレナイ。
2014/12/28

大いに「無駄遣い」をしよう ― 『迷ったら、二つとも買え! 』

迷ったら、二つとも買え! シマジ流 無駄遣いのススメ (朝日新書)迷ったら、二つとも買え! シマジ流 無駄遣いのススメ (朝日新書)
(2013/06/13)
島地勝彦

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お金の貯め方、稼ぎ方の本はゴマンとあるが、お金の「遣い方」の本というのは、ほとんど見かけない。本書は、その数少ない「お金の遣い方」本の一つだ。

とはいっても、本書は具体的なテクニックを伝授してくれるわけではない。いわば、「心得帖」のようなものだ。

まず、目次が面白い。第1章「「無駄遣い」のススメ」、第2章「「無駄遣い」はセンスを磨く」、第3章「「無駄遣い」は教養を高める」等々。ちなみに、ここでいう「無駄遣い」とは、一見すると「何でそんな物に?」と思えるようなことに大金をはたくことを指している。それは、「人生の肥やしとなる無駄遣い」のことである。パチンコやギャンブルなどに金を費やす「無駄遣い」とは違うのだ。

では、「人生の肥やしとなる無駄遣い」とは何だろうか?

著者はその点について、明確な定義付けはしていないようだが、本書を読み進めていくと、ひとつの傾向が見えてくる。それは「大金をはたいて心に残る体験を買うこと」のようだ。

「ある物やあるサービスを受ける時、それが高くても、後々までその余韻に浸れる体験ができるのであれば、それは絶対金を惜しむな」が、著者のモットーなのだろう。そして、こうしたモットーをもとに金を遣って生きていくことが、己の心を豊かにしてくれる――私も大賛成である。仮に買って失敗したとしても、それは「次につなげるための“授業料”を払ったんだ」と考えてしまえば良いのだ。

その一方で、吝嗇な人間というのも存在する。金が懐に入ったとたん、すぐにその大部分を貯金に回し、後はなるべく出費を抑えた生活をする者のことだ。本当に必要な時でさえも、金を出し惜しみする。

私の周りにもそのような人種がいるが、見ていて内心、「コイツには近づきたくないな」と思ってしまう。ひたすら金を得たら貯めこむ人間に、私はどうも魅力を感じない。

なぜだろう? 一つは、いわゆる「金の亡者」に見えるからだが、もう一つは「この人の中には、“面白い話の引き出し”が少ないのでは?」と感じるからだ。金を遣えば、様々な面白い体験ができるというのに、それを放棄してひたすら金ばかり集める姿は、醜悪にしか映らない。

無論、使う額は自分の身の丈に合った額を使うというのが大前提である。これは著者も同じことを本書で述べていた。しかし、吝嗇家はそれすらもしない。「金を遣う」ことは、「金を手放す」ことだと考えているのだろうが、それは違う。「人生の肥やしとなる無駄遣い」は、むしろ「金に命を吹き込んであげる」ことに等しい。いわゆる「生きた金の遣い方」というヤツだ。生きた金は必ず、それを使った自分のもとに「生きた形」で返ってくる。

今は「節約することが当たり前」のような時代だ。だが、節約ばかりしたところで、何が面白いのだろうか? 節約のし過ぎは、生きる活力も、自分の心の糧も節約してしまうハメになる。それでは、何のために金を貯めているのか分からない。「老後のため」などという漠然とした思いから貯めているようなら、それは金を「飼い殺し」にしているようなものではないか。そのような人は、その「老後」が来たとしても、「老後のため」などといって金を貯め続けそうで怖い。

特に若い内は、どんどん金を使った方が良い。老人と違って、金で買った素晴らしい体験をグッと吸収しやすいし、何よりも生きた金の遣い方を身につけることができる。これが年を取ってからだと、何かと億劫になるし、新しいことに対して保守的になっている可能性も高い。これだけならまだしも、最悪、「何に」遣ったらいいのか分からないなどという状態に至っているかもしれないのだ。

ちなみに以前、『カネ遣いという教養』という本を紹介したが、こちらよりも本書の方が読んでいて納得できることが多かったし、面白かった。
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