2015/01/08

「守るべきもの」がない人たち ― 『石川五右衛門』(新橋演舞場)を見て

正月早々一日で、昼は歌舞伎座、夜は新橋演舞場、というスケジュールで観劇した。観劇時間はトータルで8時間。めちゃくちゃ充実した一日を過ごせたが、腰とお尻が痛いわ痛いわで大変だった。

何といっても、海老蔵の歌舞伎だ。見ないわけには行かない・・・ということで、私は3日に観に行ったのだが、その日は偶然にも、テレビで『市川海老蔵にござりまする』という海老蔵の特集も放映されていた(もちろん、録画して後で見た)。何だかんだ言っても、やっぱり海老蔵は人気なのである。

さて、『石川五右衛門』の感想だが、まず、ストーリーが無茶苦茶である。もう何でもありじゃねえか、とツッコミを入れたくなる。が、やっぱり面白い。見ていて全然飽きない。「おっ、ここでいっちゃう?!」「キター!!」「よおし!いっちまええ!」などと私は一人で盛り上がっていた。

以前の記事でも書いたが、歌舞伎というのはストーリーよりも、「歌舞伎」という名の「演出」が最大のウリであり魅力なのだ。だから、たとえストーリーに無理・矛盾があっても、正直、「まあ、歌舞伎ってそんなもんだよね」程度で腑に落ちてしまうのである。現代のテレビドラマに「論理性」や「整合性」は求めても、歌舞伎には求めようがないのだ。

ところで、歌舞伎には、「粋な人」たちというのがよく出てくる。

粋――ここで辞書的な定義を述べても仕方ないが、簡単に言ってしまえば「内面(気遣いや思いやり)も外面(身なりや外見)も格好いいこと」といったところだろうか。

そういう「粋な人」たちというのは、何というか、人生において「守るべきもの」がない。言い換えれば、何かに己の人生を縛られていない。どこから小突かれることもない。

一方、現代人には「守るべきもの」が多すぎる。職、地位、家庭、お金、住宅、自分の時間――どれか一つでも不安定だと我々は毎日鬱々と生きざるを得なくなってしまう。

歌舞伎に出てくる格好いい人たちは、なぜ「粋」でいられるのか――それは結局、「守るべきもの」がないからだと思う。彼らには、間違ったり失敗したりしても、これといったダメージがない。劇場で会う彼らは、いつも飄々としていて、自由奔放で、それでいて皆からの人気者だ。羨ましい限りではないか。

人は、「守るべきもの」が多すぎると、つまらなくなる。守ってばかりで攻められないから、どんどん萎縮していくのだろう。守るべきものを多く抱えて人生を生きるというのは、文字通り、保「守」的に生きることに等しい。そこには、良い意味での「スリル」がないし、「野望」もない。「アヴァンチュール」なんて言葉とも無縁な世界だ。あるのは、先への不安と怯えだけである。こうなってしまっては、もはや「粋」の反対、「野暮」よりも深刻な、ある種の「病気」だとさえ思えてしまう。

わたしが歌舞伎観劇をやめられない大きな理由のひとつは、この「守るべきものがない、歌舞伎の粋な人たち」の豪快さにあるのかもしれない。「粋」に生きるのがあまりにも難しくなった現代人には持っていない独特の魅力を、「彼ら」はしっかりと握りしめているのだから。
2015/01/04

【歌舞伎座】壽初春大歌舞伎【昼の部】



2015年1月3日。七之助と玉三郎見たさで観に行った、初春の歌舞伎座、昼の部。相変わらずの感想だが、「ああ、綺麗だなあ」の一言に尽きる。

まずは『金閣寺』より、七之助の時姫。本当にイジらしい。わたしは、オペラグラス越しでボーっと「彼女」を眺めていた。

続いて『蜘蛛の拍子舞』より、玉三郎の女郎蜘蛛の精。本当にスゴイ隈取だ。あんなのが夜中に出てきたら、腰を抜かすのは必至だろう。それにしてもまあ、よくあんな恐ろしい隈取を考えついたものだ。昔の人はスゴかった。

最後は『一本刀土俵入』より、魁春のお蔦と幸四郎の茂兵衛。この作品、正直な所、新歌舞伎とあって期待はしていなかったのだが、見終わる頃には涙が出そうになってしまった。この二人の演技に、すっかりはまってしまい、終わり際、もはや魁春が「お蔦」に、幸四郎が「茂兵衛」にしか見えなくなっていた。と同時に、「“一本刀”“土俵入”ってそういうことだったのね」と一人で納得。

――ここでいつも思うことなのだが、歌舞伎というのは、「ストーリー」よりも役者を含めた「演出」を楽しむ芸能なのではないか。

隈取という演出、男が「女」になりきるという演出、見得という独特なストップモーションの演出、花道という演出、ツケ打ちという演出、鳴物(BGM)という演出、廻り舞台という演出――この演劇を「歌舞伎」にしているのは、こうした演出「たち」だ。

演出が印象深いと、極端な話、ストーリーなんてどうでも良くなる。歌舞伎には似たようなストーリーの演目が少なくないが、それぞれ演出の仕方や仕掛け方が違っているので、たくさん見ようとも飽きない。

同じ演目でも、演じる役者が変われば、それだけで違う演出になってしまう。また、美術や照明を担当する人も変われば、然りだ。これだから歌舞伎はヤメラレナイ。
2014/12/28

大いに「無駄遣い」をしよう ― 『迷ったら、二つとも買え! 』

迷ったら、二つとも買え! シマジ流 無駄遣いのススメ (朝日新書)迷ったら、二つとも買え! シマジ流 無駄遣いのススメ (朝日新書)
(2013/06/13)
島地勝彦

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お金の貯め方、稼ぎ方の本はゴマンとあるが、お金の「遣い方」の本というのは、ほとんど見かけない。本書は、その数少ない「お金の遣い方」本の一つだ。

とはいっても、本書は具体的なテクニックを伝授してくれるわけではない。いわば、「心得帖」のようなものだ。

まず、目次が面白い。第1章「「無駄遣い」のススメ」、第2章「「無駄遣い」はセンスを磨く」、第3章「「無駄遣い」は教養を高める」等々。ちなみに、ここでいう「無駄遣い」とは、一見すると「何でそんな物に?」と思えるようなことに大金をはたくことを指している。それは、「人生の肥やしとなる無駄遣い」のことである。パチンコやギャンブルなどに金を費やす「無駄遣い」とは違うのだ。

では、「人生の肥やしとなる無駄遣い」とは何だろうか?

著者はその点について、明確な定義付けはしていないようだが、本書を読み進めていくと、ひとつの傾向が見えてくる。それは「大金をはたいて心に残る体験を買うこと」のようだ。

「ある物やあるサービスを受ける時、それが高くても、後々までその余韻に浸れる体験ができるのであれば、それは絶対金を惜しむな」が、著者のモットーなのだろう。そして、こうしたモットーをもとに金を遣って生きていくことが、己の心を豊かにしてくれる――私も大賛成である。仮に買って失敗したとしても、それは「次につなげるための“授業料”を払ったんだ」と考えてしまえば良いのだ。

その一方で、吝嗇な人間というのも存在する。金が懐に入ったとたん、すぐにその大部分を貯金に回し、後はなるべく出費を抑えた生活をする者のことだ。本当に必要な時でさえも、金を出し惜しみする。

私の周りにもそのような人種がいるが、見ていて内心、「コイツには近づきたくないな」と思ってしまう。ひたすら金を得たら貯めこむ人間に、私はどうも魅力を感じない。

なぜだろう? 一つは、いわゆる「金の亡者」に見えるからだが、もう一つは「この人の中には、“面白い話の引き出し”が少ないのでは?」と感じるからだ。金を遣えば、様々な面白い体験ができるというのに、それを放棄してひたすら金ばかり集める姿は、醜悪にしか映らない。

無論、使う額は自分の身の丈に合った額を使うというのが大前提である。これは著者も同じことを本書で述べていた。しかし、吝嗇家はそれすらもしない。「金を遣う」ことは、「金を手放す」ことだと考えているのだろうが、それは違う。「人生の肥やしとなる無駄遣い」は、むしろ「金に命を吹き込んであげる」ことに等しい。いわゆる「生きた金の遣い方」というヤツだ。生きた金は必ず、それを使った自分のもとに「生きた形」で返ってくる。

今は「節約することが当たり前」のような時代だ。だが、節約ばかりしたところで、何が面白いのだろうか? 節約のし過ぎは、生きる活力も、自分の心の糧も節約してしまうハメになる。それでは、何のために金を貯めているのか分からない。「老後のため」などという漠然とした思いから貯めているようなら、それは金を「飼い殺し」にしているようなものではないか。そのような人は、その「老後」が来たとしても、「老後のため」などといって金を貯め続けそうで怖い。

特に若い内は、どんどん金を使った方が良い。老人と違って、金で買った素晴らしい体験をグッと吸収しやすいし、何よりも生きた金の遣い方を身につけることができる。これが年を取ってからだと、何かと億劫になるし、新しいことに対して保守的になっている可能性も高い。これだけならまだしも、最悪、「何に」遣ったらいいのか分からないなどという状態に至っているかもしれないのだ。

ちなみに以前、『カネ遣いという教養』という本を紹介したが、こちらよりも本書の方が読んでいて納得できることが多かったし、面白かった。
2014/12/21

むしろ「ありのままでない」を大事にしたい ― 『アナと雪の女王』

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(2014/07/16)
クリステン・ベル、イディナ・メンゼル 他

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これだけブームになったのだから、やはり見てみたい気持ちがあって、手にとった。

この映画のテーマは、ずばり「ありのまま」だそうなので、私もそれに倣い、「ありのまま」の感想を言おう。面白かった。

実はありのままに言うと、私はディズニー全般が好きではない。何というか、あのワチャワチャ感がどうもダメなのだ。それでもこの映画を手にとったのは、世間がこの映画でこれだけ盛り上がったからだ。最盛期、その動向を横目で見ながらも、「いや、きっと面白いのだろう。ここはひとつ、私もありのままで行こう」と思い立ち、(特段好きでもない)ディズニーワールドに浸ってみたのだ。

それはさておき、この映画には先程の「ありのまま」以外にも、これと似たワードがチラついている。例えば、「真実の◯◯」とか「本当の◯◯」とか、である。「真実の愛」「本当の気持ち」「ありのままの自分」etc etc。こういう言葉を耳にすると、どうも私はボリボリ頭や背中を掻きたくなる。何というか、こう、ボリボリボリボリしたくなっちゃうのだ。

なぜ、ボリボリしたくなっちゃうのかというと、なんか胡散臭いからである。「ん~、なんだかなぁ~」という気分になり、気が付くと体をボリボリしている、というわけだ。

「真実の愛」「本当の気持ち」「ありのままの自分」といった言葉は、ややもすれば、ただただその言葉だけで終わるような代物だったりするのではないだろうか?

そして、「真実の~」「本当の~」「ありのままの~」と感じているものは案外、自分の「後付け」で、「とりあえず」「そのように認識した」ものではないか?とも思う。

私が映画を見ていて気になったのが以下の展開だ。王女・アナが、最初に出会ったイケメン王子・ハンスを好きになり、彼女はその気持ちを「真実の愛」と思い込む。ところが、物語が進んでいくにつれ、彼女の姉のエルサを一緒に探してくれたフツメン・クリストフのことを好きになり、最後は彼とキスをする。最初出会った時は、別に何とも思われてはいなかったであろう(むしろ、どこか煙たがられていたような)男を、である。そして物語の最後の方で、クリストフとの関係が「真実の愛」ということになっているのだ。

結局、アナにとって「真実の愛」は、「最初から」どこかに「あった」ものではなく、「これが真実の愛“だった”」という、いわば「後付け」のような認識によって、出てきたものだったのである。

――という解釈をしてみて、そこから直ちに教訓めいたものを引き出そうとするのは、野暮ったい。それでもあえて引き出してみるとするならば、それは「「本当の~」とか「ありのままの~」とかいうのにこだわっちゃうのは、危ないんじゃないの?」といったところだろうか。それが特に、「本当の私」とか「ありのままの自分」などといった、モヤモヤ感たっぷりなものになればなるほど、である。

そう考えると、「本当」とか「真実」とか「ありのまま」というのは、「後付け」のような認識から出てきたりするから、案外いい加減なものなのかもしれない。それは、「天職」(=「本当にやりたい仕事」とでも言い換えられるだろうか)とやらを探していた人が、最初は好きでもなかった仕事を色々やっていく内に、その中から「そうか、これが自分の天職だったんだ!」などという感覚を「勝手に」感じ取るのに似ている。これだって要は「後付け」である。

でも、別にいい加減でいいのだと思う。誰だって、最初は「本当」というものが、「本当でないもの」に先行していると考えたくなるのだ。そしてその内、「本当」というものは、「本当でないもの」に先行しているのではなく、実は「本当でない」と考えていたものの中に、自分の思う「本当」があったと「思い込む」ようになるのだ。「思い込む」、すなわち「後付けでそのように解釈する」のである。

だから、「ありのままの自分」とやらも、案外、「ありのままでない自分」の中にあったりするんじゃないか。そう考えると、「ありのままでない自分」こそ大事にしてやらないと、「ありのままの自分」を探していた人は、「ありのままの自分」を見つけられないかもしれない。
2014/10/26

思い出に残る落語 ― 芸術祭寄席に行ってきた

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思い出に残る落語だった。おそらく、今日のようなトリの落語を観るのは、これが最初で最後だと思う。

――いよいよ、最後の落語となった。前座がめくり(噺家の名前がかかれた紙)をめくると、出てきた名前は「柳家小三治」の五文字。本日の大主役である。姿を現すと、すかさず「待ってました!」の声が掛かった。

この日、小三治は何と弟子の前座から服を、同じく弟子でこの落語会にも出た柳家喜多八から羽織を借りて出てきた。当人曰く、「忘れた」らしい。もう既にやることが落語になっている。そうか。きっとこういう人でないと、人間国宝にはなれないのだろう。

そんな小三治が、大方まくらを語ると、羽織を脱ぎ始めた。が、なぜか脱ぎっぱなしにして自分の後ろには置かず、きちんと畳み始めた。こんな噺家、正直初めてである。会場からは、予想外の行動に笑いが起こる。

畳みながら喋り始めた。「前座の時、よくこれをやりました」「入門して、最初にやる修行の一つが、羽織を畳むことなんです」少々俯き加減で、そう語っていた。

かと思いきや、しばらく経つと今度は、別の前座時代の話が始まった。「よく、師匠からは『芸は盗むものだ』『見て覚えろ』と言われました。今は世の中が、何か言われないと行動できなくなっているでしょ? マニュアル通りに行動するようになってしまっている」無論、小三治だから、こんな若干辛気臭い話でも笑いを取っていく。

長いまくらが終わって始まったのは、「長短」という噺。気の長い人と気の短い人ふたりが出てきて、滑稽なやりとりをするという筋だ。

一通り語り終え、小三治はお辞儀をした。客は皆、ここで「ああ、もう終わりか」と思ったに違いない。私もその一人だった。拍手に包まれ、終わりのお囃子が始まると、突然彼は、お囃子をやる前座に向かって、「ちょっと待って」と止めさせた。客席に向かい「もう少しお付き合いを」と告げたのだ。再び拍手に包まれる。

ここからまた、彼は自分の前座時代の話を始めた。前座の身分でやってはいけない噺をやって、師匠に怒られた話、さきほどやった噺(「長短」)が、前座時代は得意中の得意だったが、今は苦手だという話――。

聞いていて、私はふと思った。やたらと前座時代の話が多いのである。小三治の中で、この前座時代を振り返りたい何かがあるのだろうか。

聞きながら考えていた時、ピンと来た。そう言えば、今日は前座から服を借りていた。もしかしたら、その服を着たことが、自分が前座だった時と重ね合わさっていたのではないか、と。だとすると、今日「長短」という噺をしたのも、それは自分の前座時代を敢えて振り返るためにやったのではないか――

どれもこれも、すべて私の憶測に過ぎない。が、どうにもこうにも、そう思えて仕方がなかった。この「長短」という噺、得意中の得意だったのは昔のことで、小三治は今、「苦手だ」と言う。ではなぜ、その噺を「わざわざ」したのかと考えると、前座時代を思い返したい何かが小三治の中にあったのではないか、としか感じられないのである。

語っている姿は、どこか寂しそうで、どこか感慨深そうだった。私には、そう見えた。「人間国宝」という、芸事の頂点に立った人が、である。否、頂点に立ったからこそ、逆に寂しいのかもしれない。何かを思い煩わざるを得ないのかもしれない。

この間、小三治が人間国宝になった時の会見記事を読んだ。「噺家が人間国宝になると、それまでの入場料が、“拝観料”に変わるのですね」などと言っていたのが、ものすごく印象深かった。言わずもがな、これは一噺家の視点から見た、「人間国宝」という制度に対する皮肉だ。

もしかしたら、この人は己が人間国宝になったことを、心の底から喜んではいないのかもしれない――小三治の「後まくら」とでも言うべき話を聞いていた時、ふとそう感じた。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざがある。おそらく、小三治のような人を指す言葉なのだろう。苦手な「長短」をやったのも、前座だった時の気持ちを見つめ直したかったからなのかもしれない。人間国宝になった自分を戒めるためだったのかもしれない。

この「後まくら」に笑いはなかった。あったのは、ただひたすら「芸に打ち込む独りの噺家」の姿だった。それが、私の中では忘れられない。

「ああ、いい“落ち”だったな」と思った。笑いという“落ち”のない、思い出に残る“落語”だった。