2014/10/25

本当に格好良い生き方 ― 『知的生活の方法』

知的生活の方法 (講談社現代新書)知的生活の方法 (講談社現代新書)
(1976/04/23)
渡部 昇一

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私は、知的でない人や知性を感じさせない人が本当に嫌いである。無論、私自身もそのような人間にならないように心掛けているし、そのための努力なら、決して惜しまない。

大学を卒業して以降、こうした思いが私の中でより強まっている。というのも会社にいると、意味のない雑事に巻き込まれたり、どうでもいいような人間の相手をしてやらなければならなかったり、くだらないことに頭を悩ませなければならなかったり、といったことが続くからである。

そしていつからだろうか、「こんなことが続けば、自分の知的体力や好奇心が衰えていくのではないか?」という思いを抱くようになった。私にはそんな状態が耐えられないし、考えるだけでもゾッとする。

本書を取り上げたのは、そういう日頃の思いからである。私はこの本を大学生の時に借りて初めて読んだが、今回買って新たに読むことにした。

別にどうということもない、読書論やら勉強法やら人生論やらが合体したエッセイである。だが、それでも「わざわざ」買い直したのは、中身が興味深いからという理由はもちろん、本棚に飾っておくだけでも、今後知的生活を送ろうと決心した自分に対する「戒め」になるから、という理由もあるのだ。

大学卒業以降、この本の教えを「信仰」し、あるいは実践していることは、主に次の2つである。

・「金で時間を買う」という発想を持つ
・本代は身銭を切る(本代をケチらない)

大学時代の私は、ロクに金を持っていなかったので、上2つの教えに感銘を受けつつも、実行は容易でなかった。しかし、社会人ともなれば金が入る。そこですぐにこれらを実行するようになった。

そしてこれらに加えてもう1つ、意識していることがある。それは、「大学図書館を積極的に利用すること」だ。

無論、「タダで本が読めるから」という理由から利用しているのではない(それだと先と矛盾してしまう)。そうではなく、「知的空間」たる「大学図書館」に、己の身体を置くことが、自らの知性を活性化させることに繋がる、ということを経験的に知っているからである。

本当に幸いながら、私の勤務地は、自分の母校のすぐ近くにある。だから退社後、あるいは休日に定期券を利用して、無料で且つすぐに大学図書館へ足を運べるのだ。私の場合、「知的生活」を快適に送るための土壌が整っていたのである。

以上3つ、「知的生活」を送るための条件を挙げてみたが、最後に1つ、本書に出てくる好きな「気概」を書いておこう。

しかし無理をしてでも本を買い続けるということをしていない人が、知的に活発な生活をしている例はほとんど知らない。新聞や週刊誌ならすぐ読めるけれども、本はすぐよめるものではない。特によい本は、いつになったら読めるかわからないことがある。そんな本のために豊かでもない財布から、なけなしの金を出すということは異常である。その金でレストランに入ればおいしいビフテキが食えるし、ガールフレンドと映画に行って食事をし、コーヒーも飲めるのだ。そういうことをするのに金を使うのが日常的ということであり、そうしないで、すぐには読めそうもない高価な本を買って、すき腹をラーメンで抑えるというのが知的生活への出発点と言ってよい。知的生活というのは日常的な発想に従わない点で、そもそも出発点からして異常な要素があるのである。(p.78)

初めてこの箇所を読んだ時、強烈なインパクトを受けた。要するに、自らの生活を進んで「日常的」(庶民的)なものにしない、ということなのだ。知的生活を送るというのは、ある部分において自ら「孤高」でなければならないし、ある部分で「栄華の巷低く見て」の精神がなければならないのだと思う。

それではなぜ、私はかくも、日々の生活ひいては生きるという上で、「知的であること」に拘るのだろうか。

それは、「人から尊敬されたいから」とか「女性にモテるから」とか「収入が上がりやすくなるから」といった、よくありがちな思いからではない(無論、まったく微塵もそういう気持ちがない、と言ったらウソになるが)。突き詰めて考えていった結果、それが結局、私にとって、絶対に守るべき究極の「道楽」であり「尊厳」だからだと思う。「知的生活」も含めて、「知」そのものが、私には「道楽」であり「尊厳」なのだ。だから冒頭でも述べた通り、「知」あるいは、「知」がある環境に対し、かくも必死になるのである。

知的生活――なんと、格好良い響きを放つ言葉だろう。誰が何と言おうと、私は息絶えるまで、これを全力で続ける。
2014/09/25

趣味も「積み重ね」が大事 ― 『趣味力』

趣味力 (生活人新書)趣味力 (生活人新書)
(2003/04/11)
秋元 康

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わたしは、歌舞伎や文楽や能といった伝統芸能を観るのが趣味のひとつなのだが、こういったものと接していると、つくづく「趣味も結局、“積み重ね”がモノを言うんだな」と感じる。

ここで言う「積み重ね」とは、芝居を何度も観ることや、芝居関係の書籍を読むことや、芝居周辺の情報を集めることなど、要するに知識や体験の「蓄積」のことだ。こういった「蓄積」が、自分の「見方」「感じ方」を変化させてくれて、鑑賞をより面白くしてくれる。

そういう意味で、あることを自分にとって“心から楽しめる”趣味にしようと思ったら、それ相応の時間がかかると考えたほうがいい。だから、著者も「「定年になってから」ではなく、今、始めよう」「一生をかけて一生モノの趣味を探す」と言う。

「勉強や仕事というのは、積み重ねが大事だ」とはよく聞くが、これは何も勉強や仕事に限ったことではなく、趣味についても同じことが言えるのではないか。だから、若いうちから(若くなければ、それこそ著者の言う通り、「今」から)趣味を耕しておいたほうが、それだけ「積み重ね」ができるのだから、お得だ。

それから、趣味が長続きするかどうかというのは、趣味にしている対象に、自分が「欲」を持っているかどうか(「◯◯をもっと知りたい」「☓☓について知識を集めたい」「□□ができるようになりたい」など)である。このことについても、著者は「大事なのは「できるようになりたい」という気持ち」だと言っている。

そう考えると、テレビゲームで遊ぶことやアニメ鑑賞は、それはそれで趣味になるだろうが、「継続性」や「持続性」という点で見たら、長続きはしづらいのではないだろうか。というのも、それについて知ることのできる範囲が、どうしても、そのゲーム、アニメ内で「話」や「世界」だけで完結してしまうため、限定されるからだ。そこからさらに「横」に広がったり、「時」を遡ったり、といった「幅」が持ちづらいのである。(無論、テレビゲームやアニメ鑑賞という趣味を否定するつもりは、毛頭ない)。

とはいっても、趣味は趣味。気楽に考えればいいと思う。本書はタイトルが「趣味力」だが、趣味に「力」だなんて大袈裟すぎる。「力」は抜こう。趣味は「力」を入れるためにあるのではなく、楽しむためにあるのだから。
2014/09/05

落語「入門」ではないけれど ― 『21世紀の落語入門』

21世紀の落語入門 (幻冬舎新書)21世紀の落語入門 (幻冬舎新書)
(2012/05/30)
小谷野 敦

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昔から、けっこうこの著者の本は読んできたが、彼の書いた本で、こんなにもよく頷けたのは正直初めてだ。

タイトルには「落語入門」と打ってあるが、実は著者の落語論である。だから、落語を初めて聴こうとする人は、このタイトルを信用しないほうがいい。だが、落語好きには、大いに薦められる本だと思う。

さて、私が頷けた項を、目次からいくつか抜き出してみる。

①「テープで聴くならスタジオ録音より客がいるものを」

なぜなら、客の笑い声が入っているからだ、と著者は言う。まったくその通りだ。落語において、周りの人の笑い声というのは、重要な要素だ。「その噺の、笑いのツボが知れるから」というのはもちろん、笑い声自体が「落語」の雰囲気も作っているからである。

ほとんどの人が、落語に対して「落語は笑い話である」というイメージを持っていると思う。事実、ほとんどその通りで(そうではない噺もあるが)、だから、客のいないスタジオ録音(=笑い声がない録音)は、「落語」の醍醐味を削ってしまうことになりかねない。

そして、著者の言い分に付け加えさせてもらうと、私は「CDよりもDVDの方がおすすめ」だと思っている。CDでも、もちろん笑えるが、演者が話している姿を見られれば、そのおもしろさも増す(個人的な経験から言わせてもらうが)。というのも落語は、決してことばだけで笑わせているのではなく、表情や身振り手振りでも笑わせているからだ。

②「寄席は行かずともよい」「寄席礼賛の風潮に流されない」

Amazonでのレビューを見ると、この考えに対して、どうも反発が強いようである。しかし、私は著者のこの意見には賛成である。なぜなら、寄席に行っても7割ほどの演者が、ひどい場合は前座からトリまで、つまらないということがよくあるからだ。

③「初心者は、存命の落語家より過去の名人から」

②の続きになるが、だから過去の名人のものを聴け、というのが著者の主張だ。これもまったく御意である。結局、昔の名人の落語の方が、「ハズレ」に遭遇する確率がグッと低くなるし、聞いていて良い勉強にもなる(特に、三代目志ん朝のマクラ)。おもしろいから、聴いているこっちは夢中になる。だが寄席の場合、ヘタな落語に遭遇しまくると、初心者はひどい場合、落語そのものが嫌いになる可能性が高い。だから、初めての人は、昔の名人の落語から聴いたほうが良いのだ(ちなみに、著者は初心者は志ん朝から聴け、と言っているが、これも私と同意見である)。


ところで、読んでいて気になったのが、著者が「◯◯(落語はもちろん、スポーツや演劇、コンサートなど)は、CDやDVDで聴いたり見たりするのではなく、生で鑑賞すべきだ。そうでなければ、鑑賞したことにはならない」といった「現場主義」を批判していたことだ。この「現場主義」は結局、都会やその近辺に住んでいて、すぐにそういった「現場」へ行ける者の、勝手な言い分にすぎないのだと、彼は言っているが、なるほどと思った。言われてみれば確かにその通りかもしれない。

ただし、わたしの場合、演劇だけは、「現場」に拘っている。それ以外は、正直どっちでもいい。たとえば歌舞伎や能だと、生の「あの音」や「あの雰囲気」が、わたしはたまらなく好きだからである。歌舞伎のDVDをもっているが、いくら見ても、やはり「生」の魅力には絶対に勝てない。逆に落語は、「生」でもDVDでも、ほとんど同じように感じてしまう。

こういった感覚は、専ら個人の好みに帰する話だから、とやかく言うことではないが、ただ「現場で鑑賞、というだけが、すべてではない」という著者の意見は、それまでそれなりに「現場主義」に毒されていたわたしには、新鮮に映った。
2014/07/22

それを「仕事にする」ということ

なにかを「仕事にする」というのは、その「なにか」とそのなにかの「周辺」に対して、色々と気にしたり配慮したり「しなければならなくなる」ということだと思う。そして、それをきちんと「こなす」ことによって、その対価である金がもらえる、というのが仕事の基本的な「仕組み」である。

この、「しなければならならなくなる」というのが仕事のミソである。「してもいいし、しなくてもいい」あるいは、「~する自由がある」ということではない。つまり、「義務」になる、ということだ。

好きなこと、あるいは趣味を仕事にする(したい)という考えは、誰しも最低一度は持つと思う。かく言うわたしもそうだった。しかし、わたしはそうしなかった。なぜなら、自分の好きなこと、あるいは趣味という領域に、「しなければならなくなる」という義務を持ち込みたくなかったからだ。そして持ち込んだら最後、そうした義務が原因で、それを嫌いになってしまうのではないか、と思ったからである。

無論、好きなことや趣味だったことを仕事にして、且つそれで安定した生計を立てている人もたくさんいる。そうなれば理想だし、幸せなことだ。しかし残念ながら、わたしにはそれを実行してみるための具体的なプランというか明確な考えというか、そういうものを持ち合わせていなかった。

だが、それよりも気にしていたのは、さきほども言った通り、「しなければならなくなる」という義務を持ち込みたくない、という点だった。それによって、自分の中の「好きだ」という気持ちを失いたくなかったのである。

早い話、「趣味は趣味、仕事は仕事」と分けて考えよう、と思ったのだ。

趣味である利点は、それに対する自分のスタンスを好き勝手に設定できる、というところである。その出来不出来や巧拙はどうだっていいし、対象である趣味に対して好き勝手な理想や妄想を抱いたっていい。とにかく自由だ。「思う存分、好きなだけ」というスタンスを取れるのが、趣味のいいところである。

一方、「仕事にする」というのは、要するに、こうした利点を手放すということだ。手放す、すなわち「自分の自由にはいかなくなる」という状態を引き受ける。その代わり、その価値を認めた人から対価として金をもらう。それが、なにかを「仕事にする」ということだ。

好きなことや趣味だったことを仕事にして、且つそれで安定した生計を立てている人たちというのは、こうした暗黙の事実に対して覚悟を決めた人たちである。他方(情けないが)、わたしにはそうした覚悟がなかった。というか、ハナから「そんなことになるくらいなら・・・」と思っていた。

こういうことを学校で教えたら、それはそれでひとつの「職業訓練」になるかもしれない。

なにかを「仕事にする」というのは、本当に重たいことだ。ある意味で、それと今後(ほぼ)ずっと「寝食を共にする」ようなことになるのだから。
2014/07/19

【歌舞伎座】七月大歌舞伎(昼の部)

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今月の歌舞伎座はメンツとコンテンツが超豪華だ。海老蔵に、玉三郎に、中車(香川照之)。そして『浪花鑑』の通し狂言である。

というわけで、わたしは2階東の桟敷席でたっぷりと鑑賞させてもらった。できることなら、大向こうもやっちゃいたいくらいの気分だったが、それはよろしくない。だから、我慢して拍手。声援ならぬ“手援”である。

さて感想だが、個人的に見どころだなぁと感じたのは、玉三郎のお辰だ。追っ手から追われ身の磯之丞を守りたい一心で、焼けた鉄弓を顔面に押し付けて、わざと顔を醜くするという場面は、観ていて思わずジーンと来てしまった。他人のために、自らの身体を犠牲にしたのである。しかもその時の義太夫の語りがまた、なんとも味があって、たまらない。

そんなお辰っつぁん、舞台から立ち去ろうと花道を駆けていこうとすると、心配したお梶さん(団七こと海老蔵の奥さん役の人)が、サっと寄ってきて、「でもお辰さん、そんな顔になってしまって、徳兵衛さんに嫌われますまいな?」徳兵衛とは、お辰っつぁんの旦那さまのこと。それに対しお辰っつぁん、「こちの人が好くのはここじゃない。(心臓のあたりをポンと叩いて)ここでござんす!」と言い返す。

かっけえ・・・。ただそれだけだった。そのまま、花道をパァーと駆け足で駆けて行ってしまったお辰さん。かっこよすぎだった。もう、ただただ拍手した。拍手せずにはいられなかった。

お次は、本日一番期待していた市川中車こと香川照之。だが残念なことに、どう頑張っても、彼は「市川中車」ではなく「香川照之」になっていた。海老蔵との絡みの時も、完全に、あの「俳優・香川照之」となってしまっていたように思う。「あれ、これって歌舞伎だよね?」と言いたくなるくらい、中車は「中車」でなくて「香川照之」であった。

このとき感じたのは、テレビで大活躍している人気俳優だからといって、その人が「歌舞伎役者」として歌舞伎を「やれる」かというと、必ずしもそうではないのだな、ということ。無論、香川は「中車」を襲名している以上、「歌舞伎役者」であることは事実だ。しかし、歌舞伎を「やれる」から「歌舞伎役者」として客から認識されるわけで、「歌舞伎役者」として名乗りを上げたから、「歌舞伎役者」として客から認識されるわけではない。わたしには、どうしても彼が「俳優・香川照之」にしか見えなかった。

最後に、気付いたことをひとつ。歌舞伎をきちんと鑑賞するには、相応の体力と精神力が必要だ、ということ。これは毎度実感していたことではあったが、今日の帰り際、近くにいたおばちゃんたちが「歌舞伎って見る方にも体力が必要よね」などと話していたのが、いまでも頭の中に残っている。
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