2014/09/25

趣味も「積み重ね」が大事 ― 『趣味力』

趣味力 (生活人新書)趣味力 (生活人新書)
(2003/04/11)
秋元 康

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わたしは、歌舞伎や文楽や能といった伝統芸能を観るのが趣味のひとつなのだが、こういったものと接していると、つくづく「趣味も結局、“積み重ね”がモノを言うんだな」と感じる。

ここで言う「積み重ね」とは、芝居を何度も観ることや、芝居関係の書籍を読むことや、芝居周辺の情報を集めることなど、要するに知識や体験の「蓄積」のことだ。こういった「蓄積」が、自分の「見方」「感じ方」を変化させてくれて、鑑賞をより面白くしてくれる。

そういう意味で、あることを自分にとって“心から楽しめる”趣味にしようと思ったら、それ相応の時間がかかると考えたほうがいい。だから、著者も「「定年になってから」ではなく、今、始めよう」「一生をかけて一生モノの趣味を探す」と言う。

「勉強や仕事というのは、積み重ねが大事だ」とはよく聞くが、これは何も勉強や仕事に限ったことではなく、趣味についても同じことが言えるのではないか。だから、若いうちから(若くなければ、それこそ著者の言う通り、「今」から)趣味を耕しておいたほうが、それだけ「積み重ね」ができるのだから、お得だ。

それから、趣味が長続きするかどうかというのは、趣味にしている対象に、自分が「欲」を持っているかどうか(「◯◯をもっと知りたい」「☓☓について知識を集めたい」「□□ができるようになりたい」など)である。このことについても、著者は「大事なのは「できるようになりたい」という気持ち」だと言っている。

そう考えると、テレビゲームで遊ぶことやアニメ鑑賞は、それはそれで趣味になるだろうが、「継続性」や「持続性」という点で見たら、長続きはしづらいのではないだろうか。というのも、それについて知ることのできる範囲が、どうしても、そのゲーム、アニメ内で「話」や「世界」だけで完結してしまうため、限定されるからだ。そこからさらに「横」に広がったり、「時」を遡ったり、といった「幅」が持ちづらいのである。(無論、テレビゲームやアニメ鑑賞という趣味を否定するつもりは、毛頭ない)。

とはいっても、趣味は趣味。気楽に考えればいいと思う。本書はタイトルが「趣味力」だが、趣味に「力」だなんて大袈裟すぎる。「力」は抜こう。趣味は「力」を入れるためにあるのではなく、楽しむためにあるのだから。
2014/09/05

落語「入門」ではないけれど ― 『21世紀の落語入門』

21世紀の落語入門 (幻冬舎新書)21世紀の落語入門 (幻冬舎新書)
(2012/05/30)
小谷野 敦

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昔から、けっこうこの著者の本は読んできたが、彼の書いた本で、こんなにもよく頷けたのは正直初めてだ。

タイトルには「落語入門」と打ってあるが、実は著者の落語論である。だから、落語を初めて聴こうとする人は、このタイトルを信用しないほうがいい。だが、落語好きには、大いに薦められる本だと思う。

さて、私が頷けた項を、目次からいくつか抜き出してみる。

①「テープで聴くならスタジオ録音より客がいるものを」

なぜなら、客の笑い声が入っているからだ、と著者は言う。まったくその通りだ。落語において、周りの人の笑い声というのは、重要な要素だ。「その噺の、笑いのツボが知れるから」というのはもちろん、笑い声自体が「落語」の雰囲気も作っているからである。

ほとんどの人が、落語に対して「落語は笑い話である」というイメージを持っていると思う。事実、ほとんどその通りで(そうではない噺もあるが)、だから、客のいないスタジオ録音(=笑い声がない録音)は、「落語」の醍醐味を削ってしまうことになりかねない。

そして、著者の言い分に付け加えさせてもらうと、私は「CDよりもDVDの方がおすすめ」だと思っている。CDでも、もちろん笑えるが、演者が話している姿を見られれば、そのおもしろさも増す(個人的な経験から言わせてもらうが)。というのも落語は、決してことばだけで笑わせているのではなく、表情や身振り手振りでも笑わせているからだ。

②「寄席は行かずともよい」「寄席礼賛の風潮に流されない」

Amazonでのレビューを見ると、この考えに対して、どうも反発が強いようである。しかし、私は著者のこの意見には賛成である。なぜなら、寄席に行っても7割ほどの演者が、ひどい場合は前座からトリまで、つまらないということがよくあるからだ。

③「初心者は、存命の落語家より過去の名人から」

②の続きになるが、だから過去の名人のものを聴け、というのが著者の主張だ。これもまったく御意である。結局、昔の名人の落語の方が、「ハズレ」に遭遇する確率がグッと低くなるし、聞いていて良い勉強にもなる(特に、三代目志ん朝のマクラ)。おもしろいから、聴いているこっちは夢中になる。だが寄席の場合、ヘタな落語に遭遇しまくると、初心者はひどい場合、落語そのものが嫌いになる可能性が高い。だから、初めての人は、昔の名人の落語から聴いたほうが良いのだ(ちなみに、著者は初心者は志ん朝から聴け、と言っているが、これも私と同意見である)。


ところで、読んでいて気になったのが、著者が「◯◯(落語はもちろん、スポーツや演劇、コンサートなど)は、CDやDVDで聴いたり見たりするのではなく、生で鑑賞すべきだ。そうでなければ、鑑賞したことにはならない」といった「現場主義」を批判していたことだ。この「現場主義」は結局、都会やその近辺に住んでいて、すぐにそういった「現場」へ行ける者の、勝手な言い分にすぎないのだと、彼は言っているが、なるほどと思った。言われてみれば確かにその通りかもしれない。

ただし、わたしの場合、演劇だけは、「現場」に拘っている。それ以外は、正直どっちでもいい。たとえば歌舞伎や能だと、生の「あの音」や「あの雰囲気」が、わたしはたまらなく好きだからである。歌舞伎のDVDをもっているが、いくら見ても、やはり「生」の魅力には絶対に勝てない。逆に落語は、「生」でもDVDでも、ほとんど同じように感じてしまう。

こういった感覚は、専ら個人の好みに帰する話だから、とやかく言うことではないが、ただ「現場で鑑賞、というだけが、すべてではない」という著者の意見は、それまでそれなりに「現場主義」に毒されていたわたしには、新鮮に映った。
2014/07/22

それを「仕事にする」ということ

なにかを「仕事にする」というのは、その「なにか」とそのなにかの「周辺」に対して、色々と気にしたり配慮したり「しなければならなくなる」ということだと思う。そして、それをきちんと「こなす」ことによって、その対価である金がもらえる、というのが仕事の基本的な「仕組み」である。

この、「しなければならならなくなる」というのが仕事のミソである。「してもいいし、しなくてもいい」あるいは、「~する自由がある」ということではない。つまり、「義務」になる、ということだ。

好きなこと、あるいは趣味を仕事にする(したい)という考えは、誰しも最低一度は持つと思う。かく言うわたしもそうだった。しかし、わたしはそうしなかった。なぜなら、自分の好きなこと、あるいは趣味という領域に、「しなければならなくなる」という義務を持ち込みたくなかったからだ。そして持ち込んだら最後、そうした義務が原因で、それを嫌いになってしまうのではないか、と思ったからである。

無論、好きなことや趣味だったことを仕事にして、且つそれで安定した生計を立てている人もたくさんいる。そうなれば理想だし、幸せなことだ。しかし残念ながら、わたしにはそれを実行してみるための具体的なプランというか明確な考えというか、そういうものを持ち合わせていなかった。

だが、それよりも気にしていたのは、さきほども言った通り、「しなければならなくなる」という義務を持ち込みたくない、という点だった。それによって、自分の中の「好きだ」という気持ちを失いたくなかったのである。

早い話、「趣味は趣味、仕事は仕事」と分けて考えよう、と思ったのだ。

趣味である利点は、それに対する自分のスタンスを好き勝手に設定できる、というところである。その出来不出来や巧拙はどうだっていいし、対象である趣味に対して好き勝手な理想や妄想を抱いたっていい。とにかく自由だ。「思う存分、好きなだけ」というスタンスを取れるのが、趣味のいいところである。

一方、「仕事にする」というのは、要するに、こうした利点を手放すということだ。手放す、すなわち「自分の自由にはいかなくなる」という状態を引き受ける。その代わり、その価値を認めた人から対価として金をもらう。それが、なにかを「仕事にする」ということだ。

好きなことや趣味だったことを仕事にして、且つそれで安定した生計を立てている人たちというのは、こうした暗黙の事実に対して覚悟を決めた人たちである。他方(情けないが)、わたしにはそうした覚悟がなかった。というか、ハナから「そんなことになるくらいなら・・・」と思っていた。

こういうことを学校で教えたら、それはそれでひとつの「職業訓練」になるかもしれない。

なにかを「仕事にする」というのは、本当に重たいことだ。ある意味で、それと今後(ほぼ)ずっと「寝食を共にする」ようなことになるのだから。
2014/07/19

【歌舞伎座】七月大歌舞伎(昼の部)

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今月の歌舞伎座はメンツとコンテンツが超豪華だ。海老蔵に、玉三郎に、中車(香川照之)。そして『浪花鑑』の通し狂言である。

というわけで、わたしは2階東の桟敷席でたっぷりと鑑賞させてもらった。できることなら、大向こうもやっちゃいたいくらいの気分だったが、それはよろしくない。だから、我慢して拍手。声援ならぬ“手援”である。

さて感想だが、個人的に見どころだなぁと感じたのは、玉三郎のお辰だ。追っ手から追われ身の磯之丞を守りたい一心で、焼けた鉄弓を顔面に押し付けて、わざと顔を醜くするという場面は、観ていて思わずジーンと来てしまった。他人のために、自らの身体を犠牲にしたのである。しかもその時の義太夫の語りがまた、なんとも味があって、たまらない。

そんなお辰っつぁん、舞台から立ち去ろうと花道を駆けていこうとすると、心配したお梶さん(団七こと海老蔵の奥さん役の人)が、サっと寄ってきて、「でもお辰さん、そんな顔になってしまって、徳兵衛さんに嫌われますまいな?」徳兵衛とは、お辰っつぁんの旦那さまのこと。それに対しお辰っつぁん、「こちの人が好くのはここじゃない。(心臓のあたりをポンと叩いて)ここでござんす!」と言い返す。

かっけえ・・・。ただそれだけだった。そのまま、花道をパァーと駆け足で駆けて行ってしまったお辰さん。かっこよすぎだった。もう、ただただ拍手した。拍手せずにはいられなかった。

お次は、本日一番期待していた市川中車こと香川照之。だが残念なことに、どう頑張っても、彼は「市川中車」ではなく「香川照之」になっていた。海老蔵との絡みの時も、完全に、あの「俳優・香川照之」となってしまっていたように思う。「あれ、これって歌舞伎だよね?」と言いたくなるくらい、中車は「中車」でなくて「香川照之」であった。

このとき感じたのは、テレビで大活躍している人気俳優だからといって、その人が「歌舞伎役者」として歌舞伎を「やれる」かというと、必ずしもそうではないのだな、ということ。無論、香川は「中車」を襲名している以上、「歌舞伎役者」であることは事実だ。しかし、歌舞伎を「やれる」から「歌舞伎役者」として客から認識されるわけで、「歌舞伎役者」として名乗りを上げたから、「歌舞伎役者」として客から認識されるわけではない。わたしには、どうしても彼が「俳優・香川照之」にしか見えなかった。

最後に、気付いたことをひとつ。歌舞伎をきちんと鑑賞するには、相応の体力と精神力が必要だ、ということ。これは毎度実感していたことではあったが、今日の帰り際、近くにいたおばちゃんたちが「歌舞伎って見る方にも体力が必要よね」などと話していたのが、いまでも頭の中に残っている。
2014/07/19

おもしろい人

(他人から見て)おもしろい人、というのは、(他人から見て)おもしろい生き方をしている人のことだと思う。おもしろい生き方をしているから、その人自身がおもしろいのだと思う。

では、おもしろい生き方をする、とはどういうことだろうか?

ここでは、「おもしろい生き方とは、◯◯する生き方だ!」という肯定形で事例を挙げることはせず、あえて否定形を用いて話を進めてみることとする。

「ベタなこと」をしない。

おもしろい生き方をしている人は、いわゆる「ベタなこと」をしていない人だ。つまり、「普通」ではないのである。たとえば、の話であるが(あくまでも「たとえば」である)、「趣味は何ですか?」と聞かれた時に、相応の年齢、相応の立場、相応の容姿をした人が、それ相応(そう)な趣味を言ってきたら、その人はおもしろくない。「ああ、“ベタ”だな」と思ってしまう。

別に、「それ」を趣味に持つことが「悪い」「いけない」とは決して思わない。だが、「おもしろいな」とも思わない。

それはなぜだろうか? 理由は至って単純で、「趣味は何ですか?」と聞いてきた相手の心を“グサリ”と刺さない回答だからである。言い換えれば、極めて“安全な”答えだからである。

無論、何を趣味にしようが、それはその人の自由である。他人がああだこうだと、とやかく言えることではない。そんなものは、とうに分かりきったことだ。しかし、他人から「この人、おもしろいな」と思われる人、別の表現をするならば、他人が「気になってしまう」人、さらに言い方を変えるならば、他人の心に「後味」として残り続ける人、というのは、例外なく「ベタ」でない人であり、「ベタなこと」をしていない人である。

相応の年齢、相応の立場、相応の容姿をした人が、それ相応(そう)な趣味をしているのは、「ベタ」である。「ベタ」は、どこまでいっても「ベタ」でしかない。どこまでいっても「ベタ」でしかないから、その人に「おもしろさ」が感じられないのだ。

「他の人と同じでいようとする」のは、自分で自分を「ベタ」化させることである。それは、自分で自分を「おもしろくなく」させていることと同義である。

「イケメン」になろうとしない。

「イケメン」になっている人は、つまらない。なぜなら、「イケメン」になっている時点で、人を意識してしまっているからだ。

人は、人を意識し始めると、「安全な人」になりやすい。「安全な人」とは、他人を気にするばかり、いちいち自身の行動を自身でチェックして評価し、自らの「カッコ悪いところ」を紡いでおこうとする人のことだ。

つまり、「テイの良い」人になってしまっている、ということだ。「テイの良い」人ということで、それを(カギカッコ付きで)「イケメン」と表現したわけである。

「イケメン」というのは、「見てくれ」が良い。それは、人を意識しているからだ。意識しているから、「見てくれ」を良くなるのは当然である。

が、しかし、そういう人を見ていて「おもしろい生き方をしているな~」と思うことはない。「テイが良い」から、逆に「掴みどころ」(その人を、その人たらしめている“なにか”)がないのだ。一方、「イケメン」の反対に位置する人というのは、「テイ」を気にしていないから、色々なことに手を出す。もちろん、色々やって失敗もしているからカッコ悪いのだが、決して「安全な人」であろうとはしない。「安全な人」でないから、「掴みどころ」がいっぱいあるのだ。だから、「おもしろい」のである。

満足していない。

もちろん、いい意味で「満足していない」ということだ。いい意味で「満足していない」から、常に「おもしろい」ものを探し続けているのである。それも、懲りずにずっとだ。そうやってずっと探し続けているからこそ、というよりも、探している過程で「おもしろい」ものと遭遇するからこそ、その人はほぼ自動的に「おもしろい生き方をしている」ことになるのである。

逆に言えば、「満足している」のは、「おもしろくない」人なのだ。「満足している」というのは、「現状で足を留めている」ということだ。動かない人で、おもしろい人などひとりもいない。

「おもしろい」ものが、自分の元へ自ら足を運んできてくれる、なんてことはない。自分から「ヤツら」を探しに行かない限り、「ヤツら」は決して見つからない。「おもしろい」とは、そういう性質のものである。

以上、「おもしろい人」についての小論である。
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